アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

伊那谷に筑紫神社あり

2016-05-21 23:41:12 | 神仏
大和朝廷には不都合な神様 高麗神社ねぇ~

つーことはその高麗は大和と戦争した新羅の祖の流れだね たぶん

新羅はむっちゃ民族がわかれてる



高句麗から流れた人たちなのははっきりしてる。

日本に帰化した八幡信仰をする新羅

日本に帰化したけど八幡を信仰しない新羅



八坂は八幡信仰をしない新羅じゃないか??

そしたら滋賀にある新羅も八幡信仰しない新羅じゃないの??

そもそも滋賀に百済移民入ってきたのは最初に新羅が入ったんじゃねーの??



ここで定義を書けば八幡信仰は元来は三韓征伐を信仰する民の神

八幡は百済の血じゃないから。

http://utukusinom.exblog.jp/i4



大和朝廷が西日本を統治しだしたのは528年 磐井の乱の後

795年に朝廷が高良玉垂宮を認めたとすれば、差し引き267年の間で八幡信仰をする

高麗人は消えたって事なんじゃねーの??

いや 白江村の戦いを挟んでるな・・・・




磐井 (古代豪族) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/磐井_(古代豪族) - キャッシュ
ビジュアルエディターがウィキペディア日本語版にも導入されました(詳細)。 磐井 (古代 豪族). 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動先: ... このうち『日本書 紀』の記す「筑紫国造」は、後世の潤色と見られる。 ヤマト王権との間で起こった磐井の 乱で知られるほか、この時代では珍しく墓の特定が可能な人物として知られる。

磐井の乱 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/磐井の乱 - キャッシュ
ビジュアルエディターがウィキペディア日本語版にも導入されました(詳細)。 磐井の乱. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動先: 案内、 検索. 磐井の乱. 戦争:磐井の乱. 年月日:528年11月11日. 場所:筑紫三井郡. 結果:ヤマト王権軍の 勝利.
経緯-意義-異説・俗説-関連項目

磐井の乱(いわいのらん)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/磐井の乱-32602 - キャッシュ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 磐井の乱の用語解説 - 継体 21 (527) 年, 朝鮮に出征しようとする近江毛野の軍勢を,筑紫の国造磐井が阻止し,各所で衝突した 事件。磐井は翌年物部あら鹿火 (あらかび) や大伴金村らに討たれ,その子の葛子も 降伏 ...
辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)-世界大百科事典 第2版-大辞林 第三版




わかる歴史【飛鳥時代】白村江の戦い - YouTube
www.youtube.com/watch?v=vjgn5HvpJXs
わかる歴史【飛鳥時代】白村江の戦い - YouTube
白村江の戦い(AD663年)、新羅(5万)、唐(13万)、船(170隻)、対し百済(0.5万)、日本( 4 ...
再生時間:12:49
投稿日:2012年8月3日

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建御名方神という人物と鹿狩りと諏訪大名神

2016-05-21 23:18:22 | 神仏

神道のうんたら読むより、わかりやすい。

もう疲れてくるんで ああいう文献調べてると・・・・



建御名方神(たけみなかたのかみ/けんごめいほうしん)は妻の尻にしかれる信濃国諏訪在住の情けない夫神である。

大国主命がひとめぼれした沼河比売とチョメチョメアーン♥♥して誕生した神である。国譲りの際、兄の事代主神とは反対に譲渡を拒否。建御雷神との勝負に敗れて諏訪に敗走。マジシャンを生業とし、元寇の際は幻の台風を起こし、モンゴル軍を負けた気にさせると同時に日本軍を勝った気にさせるという壮大な手品をやってのけた。

高天原より光臨した稀代のマジシャン建御雷神より日本国土を天照大神に譲れとの脅迫要請を受け、大国主命は二人の息子に意見を聞く。兄の事代主神はチキンであったためおとなしく従うことを進言。しかし弟の建御名方神は反対する。

「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力(今で言う手品である)競べをしようではないか」

すると建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させるという恐るべき手品を披露。ビビッた建御名方神は諏訪へ敗走。止めを刺そうと建御雷神が追ってくる。

「この地から出ないし、葦原の国は奉るから殺さないでくれ」

建御名方神は震え上がり、一方的な謝罪によって事なきを得たのであった。これにより国譲りは成功した。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%BB%BA%E5%BE%A1%E5%90%8D%E6%96%B9%E7%A5%9E



ほんで、コイツが何したんだっけ??

鹿狩りしてたって??

そしたら狩猟民族じゃんか。

現出雲族は国津神と言われてたけど、現代は天津神系だって??

ぶっちゃけ、名前だけじゃん。

大鹿村鹿塩には諏訪本社大名神と言われる葦原神社があったって??


あと忘れてた。それが相撲の起源とされてきたんだ そーいや。

そんで古代からモンゴルにそれと似た競技があるからモンゴルと縁を強調されてんだな??



ちなみにモンゴルは女真族・元とほぼ合体したエリアだから。

日本には古来 首狩り行為はなかったと思うぞ??

平安時代だから 首狩り宗教行為はじまったのは・・・・。

それに関係してんだ 出雲も諏訪も 天孫族って言ってる連中のエリアが。

首狩りは宗教だかんな??


葦原中国(あしはらのなかつくに)
とは - コトバンク
kotobank.jp/word/葦原中国-25324 - キャッシュ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 葦原中国の用語解説 - 日本の古称。美称して 豊葦原中国,略して葦原国,葦原ともいう。『古事記』『日本書紀』の神代巻がその典拠 で,天つ神が天上の高天原 (たかまがはら) より,あし (葦) の群生する地上の世界を ...
辞書別に見る:世界大百科事典 第2版

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ホツマツタヱから見える文献の元となる土地と民族は

2016-05-21 22:04:40 | 神仏

ホツマツタヱ

『ホツマツタヱ』は、「ヲシテ」なる「文字」(いわゆる「神代文字」のひとつである)を使っているいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)、10700行余、で構成された、研究者によれば記紀の「原書」であるという、いわゆる「古史古伝」のひとつである。その成立時期は、記紀との内容比較から『古事記』『日本書紀』よりも古いという主張もあるが、その出現時期などからは少なく見積もった場合、江戸時代中期までしか遡れない。『春日山紀』(安永8年、1779)の存在による[1](『春日山紀』は、江戸時代当時の木版活版での印刷出版物である。岩波書店版『国書総目録』に記載あり)。「ヲシテ文字」についての現代表現は松本善之助の命名。根拠は、「月刊ホツマ」にて、公にされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B1


とりあえずどんな内容か

http://utukusinom.exblog.jp/i4

思兼命という名の人物の記録書

1,アマテラスを岩戸から出す知恵を授けた

2,葦原中国平定のチームトップを決めた

3,尊はニニギノミコトに随判した

4,思兼命の生涯を記録

内容

和歌姫(アマテルの姉)と思兼命の夫婦は結婚後野洲川べりに移り住み、宮を構えヒツギの皇子

シホミミの子守をした

野洲川
流域面積:387 km²
水源:鈴鹿山脈
河口:琵琶湖
延長:65.25 km
野洲川は、滋賀県を流れる淀川水系の一級河川。琵琶湖への流入河川では最長である。近江太郎の通称がある。Wikipedia

そして思兼命が亡くなった後信濃の洞に埋葬した

阿智族の祖先




→はい そしたら結論を書けばこれを書いてる人の移動範囲は滋賀と長野

あたしは滋賀を百済エリア 長野の一部 安曇氏(自称天孫族) 

これ 宗教関係者の血統と見なしている

滋賀と長野の民族ポイントで、全国的に見るものではないから。

それが朝鮮半島・あるいは古代中国の豪族・朝廷関係者であっても、それを日本で適用

させるには無理がある。

古代日本にいた民族を支配しようと移民豪族が武器や兵士使って全国荒らした事を

証明できるじゃないか 逆に。



アチジンジャ【阿智神社】
gejirin.com/src/A/atijinja.html - キャッシュ
アチジンジャ. 阿智神社長野県下伊那郡阿智村智里。 祭神:天八意思兼命、天表春命. 阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社 を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす ...



三井寺>連載>新羅神社考>長野県の新羅神社(1)
www.shiga-miidera.or.jp > ホーム > 連載 > 新羅神社考 - キャッシュ
長野県には「新羅神社」と称する社は存在しないが、明治時代迄「新羅明神社」であった 神社がある。 その社の祭神は現在も「新羅大明神」である。下伊那郡阿智村の「安布知 (あふち)神社」である。 安布知神社の宮司は代々、林家で、現在の宮司は林幸男清綱 ...



まず日本にいた人たちは古代中国からの開拓者・移住者が古くからいたわけだ。

それを認めずにどうして王が決められようか・・・・

47都道府県あるのに。




そしてあたしが調べてる 

古代中国 夏代から日本には人が入ってるよって話

そして中国の歴史を見たらわかる

夏代王朝から殷へ んじゃ夏代王朝は果たしてあったのか??と中国で議論になってる民族

そしてそのあたりの偉業があった人たちを、神代と指し神の位置づけをされている。

ほんであたしは、夏代は殷が嫌だから移動したと書いてきている。

思考が違うから合わない ぶつかる 戦になる 殺し合いするか 離れるかしかない。

夏代が殷へ 殷は多勢のイケニエを出し嫌われて その後 周王朝ができた。

それって上層部だかんな まず はじかれてんのが・・・・。

そして春秋時代に入り、国が分かれる。このはじかれた連中が日本に入ってきて豪族

支配かけたとあたしは提示している。

縄文・弥生時代は戦乱が少ない。それに加え伝記がほとんどない。

遺跡発掘によって文明を解明することで民族を知ったり文化を知ったりする状況。




春秋時代(しゅんじゅうじだい、中国語:春秋时期、拼音:Chūnqiū shíqī)は、中国の時代区分の一つ。紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までである。

これら諸国の実権を握った貴族としては、晋の六卿(智・魏・韓・趙・中行・士(范)の六氏)、斉の六卿(国・高・鮑・崔・慶・陳(田)の六氏)、魯の三桓(仲(孟)・叔・季の三氏)、鄭の七穆(罕・駟・豊・游・印・国・良の七氏)などがいる。彼らは互いに争うこともあれば、同盟を結んで他の貴族と対立することもあり、時には君主とも対立し、君主を殺害するようなこともあった。これらの現象は伝統的な身分体制の崩壊も表している。この時期に儒教を起こした孔子もこのような伝統体制の崩壊に対する憤慨がその学の源となったとも考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3



戦国時代 (中国)

中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。
どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。

そもそも魏が強勢となれたのは、魏の支配領域が周代より文化の中心地とされた中原の中央であり、最も開発が進んだ地域であったからであった。それは一方では周辺諸国からの侵攻を受けやすいということでもあり、開発の余地が無いということでもあった。後方に広大な未開発地帯を持つ斉や秦などが台頭してくると、魏は覇権の座から滑り落ちた。

戦国七雄[編集]
春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ「王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。
韓(紀元前403年 - 紀元前230年)
趙(紀元前403年 - 紀元前228年)
魏(紀元前403年 - 紀元前225年)
楚(? - 紀元前223年)
燕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)
斉(紀元前386年 - 紀元前221年)
秦(? - 紀元前206年)
七雄以外の宋や中山といった国々も王号を唱えており、諸国における重要度も高かったという指摘もされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)



この秦が日本の京都方面に入ってたのは氏名としても地域名としても残ってる。

しかし、この秦王朝 のちに滅亡している。

そして魏が文化圏を持っていたのは夏代王朝の相続者たちがその文明を継続したことによる。

それをだだっぴろい土地だから、横からどんどん入られたら侵食されていく。


熊と漢が戦争して漢がとった勢力を指す前漢。

王朝の書記は秦の時から司馬。漢族と司馬は一緒。

それが奈良。

秦は京都。そうすると中央政権などというものは、その連中が作ったもので

その元手は地方から貢がせたものって事。

その連中が自分らの覇権づくりと金づくりのためにアテルイを殺して封印したってこと。

そのやり方は道教からくるもの。

かっぱらいした事実を正当化するために、アテルイは悪と決め付けて責任転嫁してきた

って事。

その東北の覇者と言われたアテルイを封印したと言ってる民族たちは、百済に関わる

場所なので、百済の人間による日本の埋蔵資産窃盗。

当時、都の人だ エラい人だと騙されて黙ってその資産をとられたんだ。

その金を使って各貿易やったのが、奈良であり京都であり滋賀なんだから。

それを東北人の天皇を認めなかった公務員の不敬罪引き起こした原因に繋がったのだから

何千年、この連中のおかげで強奪され、冤罪かぶせられ、責任転嫁されてきたか

貴様らわかるかと言ってるんだ。



前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BC%A2

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あと、神話や宮司の話 一子相伝成り立たない理由がちゃんと、たくさん残ってる

2016-05-21 21:13:53 | 神仏
三韓征伐の神功天皇っていうのは三韓の血じゃないのは誰でも理解できること

今の天皇家さテレビに出てる連中が三韓で陣営作ってる事実を知れば

三韓征伐の血はいったい何だったのか

子供でも不思議に思うことで、三韓征伐の古代天皇の血と、その百済たちが入ってきて

乗っ取りした朝廷という組織は、古代の王とまったく血が繋がっていない。

それを追求しないのもおかしな話

なぜ追求できなかったか

殺されたり消されたり嫌がらせされるから

それが軍事行使してきた移民猟奇の血

それが天皇だと作ってきた連中が手にした金は、もちろん日本からカツアゲした金

それをいつまでも理解しないのは

理解しないのではなく、自分らに都合が悪いから、その現実から逃げてるだけ。

大量の人民の前でホラ吹きして生きてる日本人が大量にいたってこと。

んじゃそれがなぜ通用してきたか

ひとつは通信や広報に制限がかかって、あの連中に不都合なものは消されてきた

もうひとつはその捏造によって飯を食ってる公務員が大量にいたってこと

あとは創作話を流布しても誰も責任とれないって環境にしてきたこと

創作話と史実をみごっちゃにして賽銭事業やってきた連中は、まつられてる張本人と

ほとんどが関係ないこと

宮司たちが、利用されて迷惑だと言われないできたこと

http://utukusinom.exblog.jp/i4

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第三者意見が役に立つ ちなみに天皇は一子相伝ではないのがなぜ理解出来ないのか

2016-05-21 20:34:41 | 皇室問題
あたしんちがはた迷惑こうむった理由になるもの すべてを取り込んで

あたしが化け物化してんのは有名な話

怒りに満ちて暴れてるのも知られてる話

サイコパス昭和天皇ヒロヒト朝鮮人を利用した豪族たちが作った捏造ほとんど

ぶち壊されて、詐欺事件を決着つけなきゃならんから こちらは。

http://utukusinom.exblog.jp/i4

まず百済について

朝鮮半島の南部 つまり 現在の韓国エリア

そしてその民族 紀元前三世紀から紀元前二世紀 辰国の民

(これはあたしが書いてる三韓の秦韓・馬韓・辰韓の辰)

元は中国北部(旧満州エリア) 松花江流域の扶余系騎馬民族が南下して一部が前高句麗

一部が扶余と名乗り辰国を建国

五世紀末で朝鮮半島の中央から北部が高句麗 南部が伽耶と新羅と百済

騎馬民族征服王朝伝説では辰国の王は扶余であり、日本の皇室の祖であるとしている

(→いいや その認識が大間違いなんだけど・・・)

その頃の朝鮮半島にある前方後円墳

そして九州北部にも朝鮮式山城が分布

(それはたびたび解説している九州に朝鮮人が入ってきたって)

なお今上天皇のゆかり発言

桓武天皇の母 高野朝臣新笠は10代前に渡来した25代百済王501-523の子孫で5世が

日本に帰化した百済系の10世

百済滅亡により百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に

使えた

豊璋の弟・善光=禅広の子孫は百済王の姓を賜り、百済王氏は8世紀に敬福が

黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍


黄金山産金遺跡:日本で初めての金は、宮城県で採れた - ひーさんの ...
blog.goo.ne.jp/hi-sann.../fa8f6aadd0c300c759b5562cf7420ba... - キャッシュ
陸奥国小田郡=遠田郡涌谷町 ここに黄金山産金遺跡がある 陸奥の守である百済 王敬福(くだらおうきょうふく)が小田郡から... ... 敬福は、この頃、陸奥国の長官である 陸奥守に任命されて多賀城に赴任していたのです。 金の産地は、現在の .


→ほら 金泥棒

ちなみに8世紀なんてとっくに東北には古代人が多く住み文化圏を持っていた

金を提供したわけではなく、東北から金を作った それが百済移民だとあたしの書いて

きた内容に合致してるだろ

第三者のヒントのおかげでさらに三韓が日本にやってきた蛮行が明らかになる。

百済が日本に文明を持ってきたというのは大間違い

さいさん提示してるじゃないか

日本には古代中国民が定住で入ってたって。その人たちとそのリーダーによって

貿易は起きてたんだって。

東北から金を見つけて都にせっせと運び、そこを都みたいに繁栄させた連中は

日本の埋蔵金使って都を作ったんだ。そこに監督がいたのにだぞ??


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