読書の森

恐怖の逃避行 その2





半年前迄、稀衣は大型書店の書店員をしていた。
夢見がちな性格で、現実離れしたところがあった。
今どき珍しいおっとりとした物腰に癒されると、本好きの老人で稀衣目当てに通ってくる客もいた。

稀衣は本選びについては誰にでもサービス精神が旺盛だが、正直おじいちゃんは苦手である。
草食系男子女子が殆どの若い読者に比べ、バブル世代以前の男性は俄然肉食系が多い。
わざと稀衣の本を渡す手に触ろうとするのは、そんな男ばかりである。

物語が醸す空想の世界に生きてる彼女にとって、恋愛は又仮想空間の出来事になる。
つまり、全て未経験不倫であっても、不倫も多角恋愛も豊富な読書による空想の中で経験したものなのである。

書店員としては、読書選びのスキルの高いアドバイザーになる条件を備えているが、言わば読書オタクである。

そんな訳で、俗物の店長の斎田は、稀衣が目障りで仕方ない。
書籍に関する知識は、感心する程ある。顧客の人気も高い。それが読書体験の喜びに乏しい斉木にとってシャクの種だった。

彼女の収支の金銭勘定が全くなってなかった。
本来、利益が目的の店で文化事業をやってる訳でないと、斉木は苦虫を噛み潰したような顔をする。

一番問題なのは、彼女が客に渡す釣り銭を間違えるミスが目につくからだ。計算器で処理する訳だから正確な数字は出る筈だ。
ところが、現金に彼女の神経は非常に雑にできて、客の読書傾向の興味が先立ってしまった。
当然釣り銭だから小銭である。
金銭に鷹揚な殆どの客はそれに気づかないので無事に済んだが、集計を取ると計算が全く合わない日々ばかりである。

ある日、常連客が店長に電話で苦情を漏らした事から、斎田は彼女をクビにする事を決めたのである。
苦情の中身は「1万円札を渡して税込980円の文庫本を購入した釣り銭が20円だった」という事である。
その日の集計の結果も1万円以上狂っていた。
客は彼女の名前迄知っていて「どうぞ穏便に」と伝えたのである。その場で気づかない客も呑気だが、プロの書店員として決定的なミスだった。
仕事は趣味でないと斎木は一人頷いた。


ある日、閉店後、斎木は稀衣を呼びつけ収支計算の杜撰さについて、こっぴどく叱りつけた。そして依願退職を暗黙裏に勧めたのである。


日頃その俗物性を軽蔑している男から、逆に軽蔑しきった言葉を浴びせられて、稀衣はプライドをズタズタに引き裂かれた気がした。確かに自分のミスであるが、この上から目線の態度は何だと、逆ギレしてしまったのである。



「辞めます!」思わず口走った言葉が彼女の5年間のキャリアを失わせた。
斎木はこの言葉を待っていたとばかり、ご親切にも退職届けの書き方を伝授した。
退職日までの有給休暇を温情めいた顔で増やし、次の仕事を探せと親切そうにアドバイスした。

「余計なお世話だ。私は今ワープロで打ってる小説を書き上げるんだ」
稀衣は意固地に固まる。


その晩稀衣は昂ぶった気持ちのまま帰った。
稀衣は広いが築30年賃貸アパートの一室に帰り、パソコンと向き合った。
昂ぶった気持ちのままで、ネットに投書した。
「今の社会の支配層の殆どが、頭が固くて自由を縛るのが大好きだ。それは人々の為でなく自分の主義からくる」
打ってから、失敗ったと思ったがもう遅かった。

読んでいただき心から感謝します。 宜しければポツンと押して下さいませ❣️

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