aiaiのきまぐれ日記

子どもたちとの日々、いなかの暮らしで感じたことを、きままにおしゃべり。

フ ニ オチナイノデ 独り言

2010-12-21 21:38:21 | ナチュラルファミリー
やっぱり腑に落ちないのでちょっと勉強しています。


ネットでなにか、ヒントになる言葉をひろっています。

「教育は、一般にそう信じられているように「子どものために」なされるものではない。それはむしろ教育をおこなう大人たち(とりわけ親たち)自身のためにある。すなわち、親たち自身が無意識裏に抱え込む攻撃性と残虐性とを存分に発揮し、満足させるための絶好の機会として。つまり、子どもという存在は親たちの鬱積した無意識の感情の「はけ口」であり、教育とはそうした暴力行為をおおい隠し、正当化する、ていのいい「口実」に他ならない」
「子どもを教育すれば、その子は教育を学ぶのです。子どもに道徳のお説教をすれば、その子は道徳を説教することを学びますし、戒めれば戒めることを学びます。子どもをののしれば子どもはののしることを学び、嘲り笑えば嘲笑することを学びます。子どもを傷つければ子どもは人を傷つけることを学び、子どもの魂を殺してしまえば、子どもも殺すことを学ぶのです。そうなったとき子どもにはただ殺す対象に関して選択の余地が残されるだけです。自分を殺すか、他人を殺すか、それとも両方か。」
心理学者A・ミラー



「クオリティースクール」
「外的コントロール・・・
(1)人の動機付けは外側から
(2)人は変えられる
(3)私は正しい。相手は間違っている。相手を正すことは正しい」
「従来の心理学(外的コントロール心理学)では、人間の行動は外部からの刺激に対する反応であると考えられてきました。そのため、問題が発生したときには怒る、罰を与えるなどの強い刺激を与えることで、相手を思い通り動かして解決しようとします。しかし、その結果人間関係は破壊されてしまいます。
選択理論は、すべての行動は自らの選択であると考える心理学です。行動を選択できるのは自分だけなので、他人に行動を直接選択させることはできません。そのため、問題が発生した時には、相手を受け入れ、交渉することで解決します。その結果、良好な人間関係を築くことができます。」
アメリカの精神科医、ウイリアム・グラッサー博士



ひとりごと・・・

ほめることも、罰することも同じだと感じるのは、
その子をコントロールしようとしているから。
共感すること、対話することを通して
伸びることができる力を
子どもたちは持って生まれている。

罰は悪い子のレッテルを周囲にも貼り、自分にも貼らせる。
ましてや、「勉強」を罰にするということは
「罰としての勉強」という感覚を叩き込んでいるということ。

褒めることはよい子のレッテルを周囲にも貼り、自分にも貼らせる。
よい子でいなくてはならないというプレッシャーのなかで
自分を失うことになりかねない。

悪い子だから忘れ物をしたのではない。
悪い子だから宿題が全部できなかったのではない。

その子の今抱えている「こと」の隣にいられる教育を分かち合いたい。

罰は問題解決の一時的な回避方法にはなるかもしれないが、
根本的な解決方法ではない。




忘れ物をすると漢字1ページの罰。
ある忘れ物をすると冬休みに一日登校。
罰は、この子にとって逆効果になっているんじゃないか。

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4 コメント

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百害あって一利なし (まさこ)
2010-12-22 06:10:10
私は「罰としての勉強」は、どんなことがあっても認めたらだめだと思ってます。
忘れ物をすると漢字1ページ!?
絶対それはやっちゃだめだって。
だって、そんなことしたら、勉強が嫌いになっちゃうよ。
一旦嫌いになったもの(正確に言えば、嫌いにさせられたもの)をやらなければならないって、どんなに辛くてしんどいことか。
勉強することは、とても大事なことです。
人間が人間として生きて行く上で必要なことです。
だから、勉強すること、学ぶことが好きだってことは、とっても重要なんです。
私たちは、うちの子どもたちに勉強を嫌いにさせるようなことはできる限りやらせないようにしてきました。
それでも、学校で子どもたちは勉強が嫌いになるようなことをされているんですよね。

理論武装しなくても、罰を与えて人間をどうこうしようってのはおかしいよ。
罰としての勉強は、絶対に許せない。
あいあいだって、それが分かっていてぐだぐだやっているんでしょう?
それを許せないって言ってしまえば、三四郎の担任を否定することになる。
それで苦しんでいるんじゃないか・・・という風に見えます。

でもね、一番辛いのは、子どもたちじゃないかな。
三四郎は、罰について、どう考えているんだろう?
私は凄く知りたい。
全てはそこからはじまるんじゃないかな。
多分、三四郎は、本当の気持ちを隠しているという気がします。

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世間を渡る橋のわたる姿の個人イメージ (aiai)
2010-12-22 15:08:56
まさこさん

おかげでまたちょっとスッキリしてきました。
面白いです!言葉を交わしあうというのは。
ひとつひとつの出来事に意味を感じます。

読みながら思い浮かんだ
ひとつのイメージがあって、
それが個人的には、くすっと笑ってしまっていて
子どもたちにも話したいと思います。

それは、
「石橋」をわたるときのイメージです。

これまで私の持っていたイメージでは、
石橋だということに気付かずに渡ってた、
というものだったんだけど。。
(これまでに、こういうことが多々あったんで・・・気づいたら、もう半分まで渡っていて、はじめて大変なことに気づくとか・・・)

今イメージに浮かんだのは、もっと積極的で楽観的でユニークな感じなんだよね。

石橋はもうすでに壊れているの。
それを、
なんか、ひょいっ、ひょいっって
楽しそうに渡っている人がいるのよ。
その姿に憧れて
自分もマネしたいと思っているの。
その人が、手招きしているのよね。
渡りながら。

時々、こういう思いがけないイメージを
動画や画像の状態でいただくことってない?
そういうとき、
ありがたいなあ!助けられてるな~って思う。

世間を渡る橋って、
いつもいつも、どこか故障中。

それでも、なぜか
守られている。


私は、現状を私なりに研究することで
向こう岸に渡る、飛び石の位置や形を見たり
落ちてもおぼれないで済みそうな川の浅瀬を探したりして、
ぴょ~ん、ぴょ~んってみんなと違うかもしれないけど、自由な解釈での渡り方もあることを
わが子と語り合っていきたいと思ってるみたいです。

腑に落ちないときは、
目の前に起きた自分と価値観の違う世界との
遊び方が分らないときなのかもしれない。

歴史は変わっていっている。
今、変換期なんだろうと思う。
だけど、その変換期って、
私の親の世代からず~~~っと続いているんだよね。
人類全体の歴史の流れから見たら
それはあっという間のことかもしれないけど、
私たち長くて100年の
今の世の中が変わるまでに
子どもたちは子ども時代を終わってしまうだろうから、
遊び心を持って、自由な精神をもって
笑って生きられるような忍術!?を
探したり磨いたりしていこうっと思ってるところです。


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小舟に乗って (まさこ)
2010-12-24 05:33:33
毎日海を見て暮らしているからでしょうか、あいあいのいう「石橋」は、私にとっては「船」のイメージなんです。

今の日本は、タイタニック号だと感じています。
多く人は、いかにして、一等船室のチケットを手に入れるかに汲々としています。
何とかして、子どもたちにプラチナチケットを手に入れさせたいと思っている。
それが「安全」を手に入れる一番の方法だと信じ込んでいるから。
三等船室は光の差さない船倉にあって、そこがどんなところか、誰もが知っているんだけど、自己責任でそこにいるんだ、ということになっている。
タイタニック号が沈まないって保証があれば、それでもいいんだけどね。

私も、自分が歴史の変換期に生きているという実感があります。
嵐の海のような今の時期をタイタニック号に乗って過ごすのは、逆に危険極まりない。
だから、小舟に乗るんです。
だからといって、いかだで海に漕ぎ出すなんてことはしない。
どういう船なら大丈夫なのか、航海するためにどんなことを知らなければならないのか、どういう装備が必要なのか・・・今は、そういうことを学んでいるような気がします。

石橋といえば、思い出したことが一つ。
私は中学校の時に友人に「あんたは石橋を叩いて渡るんじゃなくて、叩いて叩き壊してるよね」と言われたことがあります。
年を取って、いろんなことを経験して、私も成長した!って思っているけど、根っこのところは変わらないのかもしれません。
私は石橋を壊しちゃったから、川にざぶざぶと入って渡っているんでしょう。
時には思わぬ深みに足をとられて、溺れかけたりしながら。
もしも石橋を叩き壊してなかったら、もっと楽に向こう岸に行けたのかな。



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タイタニック号 (aiai)
2010-12-25 12:20:35
まさこさん

なるほど、タイタニック号ですかぁ。
ふむふむ、そうかあ、
沈むのかもしれないけど、
今は、その情報がはっきりと伝達されていなくって
なんとなく沈むのかも、、、ということに気付きながら、
今、目の前のごちそうと優雅な日々に酔いしれていたいと思っている
っていう感じが目の前に浮かんできました。

どう、そんな感じなのかなあ。

いろんなイメージがあるものですね!!



ところで、石橋。
石橋のわたり方っていろいろだねえ。


まだわたし、
自分に一番合っている渡り方、を
まだ探している気がする。

この渡り方がしっくりくる、
という渡り方を探しながら歩いていきたいなあ。


ときと場合によって、渡り方もいろいろだから、
私も壊してしまって、立ちすくんだこともある。
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