今朝、中国新聞の投稿欄ヤングスポットに、
息子の投稿が載ってました!
本文
「ちいきで絵手紙の会がはじまったので、お母さんとおばあちゃんと妹といとこと行きました。友だちもお父さんといっしょに来ていました。
春を見つけて絵にかくため、みんなで田んぼやはたけのまわりをさがしながら歩きました。道のそばに小さな青い花や白い花がいっぱいさいていました。目をちかづけたら気づきました。フキノトウもありました。近くの山には、ちょっと前まで雪がたくさんつもっていたのに、なくなっていました。もうすぐ、みどりの山になるとそうぞうしたら、うれしくなり、げんきが出てきました。
ぼくは、白くて小さな花がきれいだったからかきました。あとで、お母さんと本でしらべたら、ミチタネツケバナとわかりました。ほかの人たちはフキノトウやネコヤナギやツバキなどをかいていました。
まわりで、ウグイスがないていました。ぼくたちに春がきたのをおしえてくれているようでした。あたたかくなったら、ウキウキします。本とうに春がきてよかったと思いました。」
息子の投稿が載ってました!
本文
「ちいきで絵手紙の会がはじまったので、お母さんとおばあちゃんと妹といとこと行きました。友だちもお父さんといっしょに来ていました。
春を見つけて絵にかくため、みんなで田んぼやはたけのまわりをさがしながら歩きました。道のそばに小さな青い花や白い花がいっぱいさいていました。目をちかづけたら気づきました。フキノトウもありました。近くの山には、ちょっと前まで雪がたくさんつもっていたのに、なくなっていました。もうすぐ、みどりの山になるとそうぞうしたら、うれしくなり、げんきが出てきました。
ぼくは、白くて小さな花がきれいだったからかきました。あとで、お母さんと本でしらべたら、ミチタネツケバナとわかりました。ほかの人たちはフキノトウやネコヤナギやツバキなどをかいていました。
まわりで、ウグイスがないていました。ぼくたちに春がきたのをおしえてくれているようでした。あたたかくなったら、ウキウキします。本とうに春がきてよかったと思いました。」
わかりにくかったんだろうね。
その人のせかいだったら、こう思うだろうっていう感じなんだろうね。
(と母に語ったのを母代筆)
(以下、オリジナル)
「春を見つけたよ」
ちいきで絵手紙の会がはじまったので、いとことおばあちゃんと妹とお母さんと行きました。友だちもお父さんときていました。
春をさがしてかくために、みんなでさがしに行きました。道に小さな青い花や白い花がいっぱいさいていました。目をちかづけてわかりました。ふきのとうも見つけました。
この山が、ただの雪山ではなくなっていることがわかって、とてもうれしかったです。
みどりの山をそうぞうしていると、元気が体からわきでてくるようでした。
ぼくは、白くて小さい花を(きれいだなあ)と思いながらかきました。あとでお母さんとしらべたら、ミチタネツケバナだとわかりました。
かきおわってから、ぼくはその花やくきに絵のぐをぬって、はんこにしました。おもしろかったです。
みんなは、ふきのとうやネコヤナギやツバキなどをかいていました。
うぐいすがないて、春をおしえてくれました。春はうきうきします。本とうに春がきてよかったです。
さんしろうは、せかいを大切にしてるんだなあって
うれしくなったよ。
だけど、きっとわかりにくいところがあったから
かきかえたんだと思うから、
どこがわかりにくかったのか、
研究できるね。
さんしろうの言葉は、詩みたいで
おかあさんは好きだよ。
『この山が、ただの雪山ではなくなっていること がわかって、とてもうれしかったです。
みどりの山をそうぞうしていると、元気が体から わきでてくるようでした。』
『ぼくは、白くて小さい花を(きれいだなあ)と 思いながらかきました。』
このセンテンスは、特に、書き換えてはいけない。
そもそも、本人が直接体験したことは本人が表現することによって、形になるのです。表現以前に客観的な体験内容があってそれに言葉が伴う、というのではない。
mmuunneeは、永い間、編集屋として情熱を燃やした経験があります。他人の文章を勝手に書き換えるというのは、とんでもない話です。人が書いた絵に他人が勝手に筆を加えて色合いを変えて、「これが本人の作品です」と言うのと同じ過ちです。
さんしろう君の文章をいじくった中国新聞の担当デスクは、経験不足か、あるいは、文章を書くということに間違ったプライドをもっているか、そのどちかです。
文章の書き方という本が世の中にいっぱい出ていますが、一番の傑作は、「文章の書き方に決まった形はない」というものです。書かれたもの、表現されたものが、一人の人間の個性の現れであり、行為なのですから。
aiaiさん。子供さんを素敵に育まれている。
意味が変わってしまったところが何カ所もありますね。
みどりの山をそうぞうしていると、元気が体からわきでてくるようでした。
↓
もうすぐ、みどりの山になるとそうぞうしたら、うれしくなり、げんきが出てきました。
まるっきり心の状態が違いますね~。
なんでこんなに変えたのか、不思議です。
子どもの言葉は、ときに状況が分かりにくくても
(このオリジナル文は分かりにくい部分は無いですけど)
発した時点で既に詩になっていますよね。
大人は「かなわない」ということを知らなければね。
なにか、すごく大切なことが
ここに含まれている気がする。