黒猫のつぶやき

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トータルウォー・ササン朝ペルシャ編(5)

2007-01-02 10:45:46 | 歴史
 新年あけましておめでとうございます。
 「黒猫のつぶやき」は、もうしばらくゲームのリプレイ記が続きます。というわけで、今回はトータルウォー・ササン朝ペルシャ編の第5回!

10 5世紀初頭のローマ情勢
 アルダシールが小アジア最後の都市エフェソスを攻略したのがちょうど紀元400年、時代はいよいよ5世紀に突入します。ここで、史実における5世紀初頭のローマ帝国の実情と、ゲーム上でのそれを比較してみるのも面白いかと思います。

 まず史実。統一ローマ最後の皇帝であるテオドシウスが395年に死亡すると、長男のアルカディウスが帝国の東方を、次男のホノリウスが帝国の西方を分担統治し、テオドシウス帝の姪(養女)セレーナを妻に迎えた蛮族出身の名将・スティリコを両帝の後見役としました。
 この時点では、テオドシウス帝も自分の死後帝国を二分割しようなどとは考えておらず、また分裂するなど想像もしていなかったと思いますが、首都コンスタンティノープルにいるアルカディウスの側近たちがスティリコに反感を持ち、次第に西方からの分離を目指すようになったため、次第に東西の連携が全く取れなくなってしまい、実情は全く別の国になってしまいます。名将スティリコも、テオドシウス帝の死後は主にミラノで西方の皇帝・ホノリウスを補佐して戦い続けることになります。

 西ローマ帝国の方は、既に3世紀ころから度々蛮族が侵入して領内を荒らしまわり、そのたびに撃退はするものの既にガリアなどの領内は荒れ放題という悲惨な状況でしたが、5世紀になると、東方からフン族の圧迫を受けたゲルマン諸民族は、ローマ帝国の領内を略奪して自分たちの本拠に引き上げるのではなく、ローマ帝国の領土を占領してその地に住み着いてしまうようになります。
 まず、396年以降バルカン地方を荒らしまわった西ゴート族のアラリックは、東ローマ皇帝からイリリクム地方(現在のウィーンやブダペストがあるドナウ川上流の南方地域)の軍司令官に任命され、この地に定住します(イリリクムは本来西ローマ帝国の担当地域なのですが、このあたりで早くも東西の仲間割れが表面化しています)。
 アラリックは、東ローマ皇帝公認のもと手に入れたイリリクム地方を拠点とし、さらにイタリアへの侵攻を試みますが、2度にわたる侵攻はいずれもスティリコに撃退され失敗に終わります。
 その間、北アフリカのカルタゴで反乱が発生し、これはほどなく鎮圧されますが、406年には、東ゴート族・スウェビ族・アラニ族などから成る蛮族の大群約40万人が大挙イタリアに侵入し、彼らに北部イタリアを散々荒らされながらも、最後にはスティリコが何とか撃退します。
 もっとも、スティリコによって何とか防衛できていたのはイタリア半島だけの話であり、ガリア地方では、本拠地がライン川沿いのアウグスタ・トレヴェロールム(現在のトリアー)から地中海沿岸のアレラーテ(現在のアルル)に移され、ガリア北部と中部は事実上放棄してしまいます。その後のガリア北部と中部が蛮族の住む地方になったことは言うまでもありませんが、その詳細はもはや史料もなく判然としません。
 その後、ホノリウスとスティリコの関係が悪化し、408年にホノリウスがスティリコを処刑してしまうと、事態はさらに悪化。スティリコの死で「天敵」のいなくなった西ゴート族のアラリックが再度イタリアに侵入し、410年にはローマが略奪を受けてしまいます(ローマの略奪は、その後5世紀から6世紀にかけて何度も行われ、その過程でローマ帝国の中心地だったローマは完全に荒廃してしまうのですが、このときまでは「他の都市が襲撃されてもローマだけは安全だ」というローマの「安全神話」が生きていたのです)。
 それを機に、ローマはブリタニアからも撤退。その後のブリタニアはアングロ族やサクソン族に攻略され、ガリアはフランク族・ブルグント族などが割拠。ヒスパ二アは西ゴート族やスウェビ族などに占拠され、北アフリカは439年にヴァンダル族の手に落ち、西ローマ帝国はどんどん領土を失っていきます。
 そして本国イタリアでは、451年にシャンパーニュの会戦でローマの将軍アエティウスがフン族のアッティラを破ったものの、これは他の蛮族たちがローマに協力したからで、翌452年にそのアッティラが北イタリア全域を荒らしたときには、アエティウスは迎撃に蛮族の協力を得られなかったため何も出来ず。
 そのうち、アッティラは454年に病死し、フン族は後継者争いの末雲散霧消しますが、同じ年には皇帝ヴァレンティアヌス3世(ホノリウスの甥)がアエティウスを殺害、翌455年にはこれを恨んだ元アエティウス配下の兵士たちがヴァレンティアヌス3世を殺害。
 その後のローマ帝国は、北方からの蛮族だけでなく北アフリカで海軍力を手に入れたヴァンダル族に海から襲撃されるようになった一方、度重なる内紛で皇帝が次々と入れ替わり、帝国の力も弱体化する一方。そんな中、476年にイタリアの実権を握った蛮族出身の将軍オドアケルが、当時の皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させる一方、自らは皇帝と称さずにイタリア王を名乗ったことから、一応この年が西ローマ帝国滅亡の年とされています。

 では東ローマ帝国の方はどうだったかというと、408年に皇帝アルカディウスが死んでその子・テオドシウス2世が後を継ぐと、帝国の実権は皇帝の姉・プルケリアが掌握します。テオドシウス2世は影の薄い人物だったようですが、このプルケリアはなかなかの才能の持ち主だったらしく、約40年にわたり帝国を統治し、東方の大国ペルシャとは良好な関係を維持。北方蛮族についても、彼らを西ローマに向かわせることで、被害をモロに受ける事態は回避しています。
 そして、450年にテオドシウス2世が子のないまま死去すると、プルケリアの指名で有能な軍人マルキアヌスが帝位に就き、こうして東ローマ帝国は相変わらず地中海東方の覇権国であり続けます。7世紀にはイスラム勢力の台頭でシリア・パレスティーナやエジプトなど中東地域の大半を失い、覇権国というよりは一地方国家に転落しますが、それでもしぶとく生き残り続け、最終的にはなんと1453年にオスマン・トルコのメフメト2世によって首都のコンスタンティノープルを落とされるまで一応存続します。

 では、ゲームではどのような展開になっているかというと、史実とはまるで逆です。これまで見てきたように、ササン朝ペルシャの国王シャープール2世が、東ローマ帝国内の反乱で生じた一瞬の隙を突いて、372年ころ東ローマ帝国における東方の重要拠点アンティオキアを攻め落とし、皇帝テオドシウスを敗死させると、その後は勢いに乗じて東ローマ帝国の諸都市を次々と攻略し、400年のエフェソス陥落によって、早くも東ローマ帝国は小アジア以東の領土をすべて失うことになりました。
 もっとも、バルカン方面における東ローマ軍はまだ健在で、一時はフン族にドナウ川防衛線の拠点であるシルニウムを占拠されますが、401年にはシルニウムを奪回してフン族を滅亡に追いやり、398年にダキアで旗揚げした(と思われる)東ゴート族も同じ年に滅亡させ、バルカン方面ではむしろ勢力を拡大しているという状況になっています。
 一方、西ローマ帝国の方は、スペイン南部のコルドバが反乱軍に占拠され、鎮圧の目途が立たないばかりでなく、400年には北アフリカの最重要拠点・カルタゴが、砂漠の民ベルベルに占領される事態となりましたが、ライン川周辺の防衛線には大規模な軍団が複数駐屯し、さすがの蛮族も攻めあぐねているようです。
 それどころか、かつてはローマの防衛線の一角をなしていた「ゲルマンの黒い森」と呼ばれる一帯を支配していたアレマン族は、ローマ軍によりその本拠地を追われ、ゲルマンの奥地でひっそりと生き続けるしかなくなっており、本拠地がローマ領に隣接していたフランク族は、居住地を捨てて放浪の旅に出ています。
 ゲーム開始当初から放浪の旅を続けているヴァンダル族は、各地を略奪し軍資金はたっぷり蓄えたようですが、戦闘の度に兵力を減らしており、早く定住地を見つけないと雲散霧消しかねない状況です。最近放浪の旅に出たゴート族は、大規模な兵力を維持しているものの、ドナウ川やライン川の周辺をうろうろしているだけで何をやりたいのか分かりません。
 蛮族の中で唯一健闘しているのがサクソン族で、彼らはフランク族の旧領など周辺地域を手中に収め、ライン川下流の東岸にそれなりの勢力を維持しています。
 要するに、西ローマ帝国の方は、内憂外患で徐々に領土を失ってはいるものの相変わらず強大な勢力を誇っており、滅亡という言葉からはほど遠い状況です。史実に即して考えれば、早くから食料自給の途を捨てた首都ローマに食料を供給していたのは、当時有数の穀倉地帯であったエジプト、北アフリカ及びシチリアであり、そのうち2地域までが敵の手に落ちたというのは本来大打撃のはずですが、ゲームではそれほどの打撃を蒙っている様子も見られません。

11 アルダシールの「三方面軍作戦」
 複数のスパイを欧州各地に放った結果、ローマ帝国の情勢が大体上記のとおりであることを把握した国王・アルダシールは、軍団を大きく3方面に分けます。
 国王アルダシール自ら率いるギリシャ方面軍は、エフェソスから海路クレタ島を攻略し、そこからギリシャ上陸を図る。メルキオルの死後(無事)後継者指名を受けたシルス率いる北方方面軍は、黒海の北に勢力を張るロクソラニ族・サルマタイ族の領地を攻略し、北方から東ローマ帝国を脅かす。そして、ゴブリャス将軍率いる北アフリカ方面軍は、キレネから西進し、キリスト教勢力であるベルベル人の掃討を図る。エフェソスを手に入れたアルダシールが描いていた構想は、大体以上のようなものでした。
 この戦略に従い、まず403年には、アルダシールがクレタ島の大都市・キュドニアを占領。いつの間にか皇帝になっていたキュドニアの司令官・ホノリウスを敗死させます。もはや常套手段と化した、都市の略奪と住民の強制改宗を実行しました。ただ、アルダシールは既に老齢のため、いつ寿命で死んでもいいように、シドンの領主であったアリアラムネス将軍を副将に付けていましたが、アルダシールの人望があまりに低いため、占領地の統治は国王のアルダシールを差し置いてアリアラムネス将軍が行うといった状態でした。このことが、国王アルダシールのプライドを傷つけたことは想像に難くありません。
 北方戦線では、シルス将軍が404年に、ロクソラニ族の本拠である、カンプス・ロクソラニを占領。敵軍の一部が城外に出ていたため、攻城戦ではなく野戦で勝負を決し、カンプス・ロクソラニには無血入城を実現しました。
 ロクソラニ族及びサルマタイ族は、女戦士を使うことで有名な部族であり、何でも弓を使う妨げにならないよう、女性は右胸を熱い鉄で焼き潰しており、また敵兵を殺さないと結婚を許されないという掟があったため、女性であっても男性に劣らないほど勇敢に戦ったと言われています。しかし、すでに超大国と化したササン朝ペルシャとは国力に圧倒的な違いがあり、彼らが迎撃のために動員してきた兵力は数こそペルシャ軍を上回っていましたが、その大半は「遊牧民」や「逃亡民衆槍兵」といった雑魚部隊。その中に混じっていた女弓騎兵なども含めて、彼らを待っていたのは、カタクラフトと象兵の餌食になることだけでした。会戦の後半は、もはや戦闘と言うよりに近い状態でした。
 カンプス・ロクソラニは、現在でいうとおそらくウクライナの首都・キエフの近辺であり、史実でもゲームでも有数の穀倉地帯です。シルスとしては、このカンプス・ロクソラニを北方攻略の前線拠点として使いたかったため(さもないと、カタクラフト部隊の損害が出るたびに、遠くアルタクサルタまで欠員補充に行かなければならない)、敢えて都市の略奪はせず、ゾロアスター教への改宗も若干猶予期間を置いて実行しました。シルスの人望の高さも幸いしたのか、住民の暴動は1回も起きませんでした。
 ロクソラニ族は、なお北方に2箇所の都市を領有していましたが、いきなり主力部隊を全滅させられ首都も落とされて意気消沈したのか、停戦を申し入れてきました。ペルシャ側としても、もはや無力な存在と化したロクソラニ族を相手にするより、当面はカンプス・ロクソラニの安定化と続くサルマタイ族との戦いを優先したかったため、結局停戦と相互貿易権の獲得で合意が成立しました。
 ただし、ロクソラニ族とは同盟を締結したわけでもなく保護国化したわけでもなく、いずれは再度敵に回す可能性も否定できないので、停戦後もペルシャの暗殺者たちは暗躍を続け、ロクソラニ族の将軍2人を暗殺しています。
 なお、北アフリカ戦線では、ゴブリャス将軍が軍勢を率いて西進したものの、最初の標的となるレプティス・マグナでは西ローマ帝国がまだ頑張っており、現時点で西ローマ帝国と開戦することは避けたかったため、ゴブリャス将軍はしばらくレプティス・マグナの手前に駐留し、同都市を守っていた西ローマの将軍を暗殺する一方、熱心なゾロアスター教徒であるゴブリャスがレプティス・マグナの領内にゾロアスター教を布教し、社会不安を高めることで反乱が起きるのを待つという、極悪非道な作戦に出ることになりました。そんなわけで、しばらく北アフリカ戦線での動きはありませんでした。
(続く)