黒猫のつぶやき

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『本能寺の変』奇説

2011-07-02 09:42:51 | 歴史
 最近,テレビでも「本能寺の変」に関して特集が組まれたり,100信(注:モバイルゲーム『100万人の信長の野望』のこと)でも「奇説・本能寺の変」というイベントが組まれるなど,「本能寺の変」がやたらと注目を集めるようになりました。本能寺の変に関して新しい学説でも発表されたのかと思って調べてみたら,明智光秀の末裔に当たる明智憲三郎という人物が,「本能寺の変・四二七年目の真実」という著書を刊行して話題になっており,どうやらこれが発信源になっているらしいことが分かりました。
 黒猫も早速この本を買って,どんな説なのか検証してみることにしましたが,なんか微妙に説得力があるような無いような,そういう奇説ですね。

 この明智憲三郎説の内容に入る前に,「本能寺の変」の背景とこれまでの通説的見解をざっと整理しておきます。
 まず,本能寺の変は,信長ファンや歴史愛好家の方であれば当然ご存知の事件だとは思いますが,1582年,天下統一に向けて着実な足掛かりを付けつつあった織田信長が,配下の明智光秀の謀反によって殺された事件です。信長とその嫡男信忠を討つことには成功した光秀ですが,事後調略には失敗し,結局は間もなく羽柴秀吉率いる討伐軍にあっさり敗れ,光秀自身も殺されるに至りました。
 ここまでは歴史上の事実なのですが,明智光秀による謀反の動機がいまいち明らかでないため,この点につき歴史学者や歴史愛好家などが様々な説を唱えており,その説は実に50以上にものぼるとされています。その中でも荒唐無稽とするしかない説は除くとして,一般に支持者が多いと思われる説の概要を挙げると,以下のような感じになります。

(1)光秀単独説
 特に共謀者のいない光秀の単独犯行とする説は,光秀の個人的怨恨を理由とするものが多いです。すなわち,光秀はしょっちゅう信長のやることに異論を唱えては足蹴にされ,光秀が織田家中でも異例と言える出世を遂げる一方で,信長と光秀の個人的関係は非常に悪かったと説かれることが一般的で,さらに光秀が丹波の波多野氏を討伐する際,波多野氏を降伏させるため光秀自身の母を人質に出したところ,信長がこれを無視し波多野秀治らを磔刑に処してしまい,その報復として光秀の母も殺されてしまったことからこれを恨みに思っていた,光秀は徳川家康の接待役を命じられたがわずか3日で罷免され,秀吉への応援として中国地方への出兵を命じられたが,その際旧領を没収され,まだ敵地である出雲と石見を与える旨を宣告された云々。
 これらの怨恨説に関するエピソードは,江戸時代の軍記物やそれを題材にした歴史小説,テレビドラマなどを通じて一般にも広く知れ渡っていますが,その一方で確たる史料上の根拠はあまりなく,実際にどこまでが真実だったのかは不明です。

(2)第三者謀略説
 信長を討つことに利害関係を持つ者が,間接的に光秀を動かしたとする説です。本能寺の変当時における,主要な利害関係者の様相は,現在の通説的見解に従えば以下のようになります。
① 羽柴秀吉
 結果としては明智光秀を自らの手で討ち果たし,信長に代わり天下人への道を開くことになったことから,本能寺の変自体秀吉(ないしその軍師である黒田官兵衛)の巧妙な策略によるものではないかという見解は以前からありましたが,光秀討伐を成功させた毛利氏との和睦や,その後の中国大返しは秀吉にとっても危険な賭であったことから,秀吉による関与は否定するのが通説的見解です。
② 徳川家康
 当時織田信長の盟友であった徳川家康は,事実上信長の従属下に置かれており,できることなら信長に死んで欲しいと考えていたでしょうが,本能寺の変当時家康は堺に滞在しており,家康は堺から岡崎に帰るため「神君伊賀越え」と呼ばれる危険な脱出を敢行しており,途中まで家康に同行していた穴山梅雪(武田信玄の一族で,武田氏滅亡に際し勝頼を見限り織田家に帰順していた人物。穴山信君ともいう)は土民に殺されていることから,家康による関与を否定するのが通説的見解です。
③ 長宗我部元親
 四国を半ば制圧したものの,当時信長とは敵対関係になり,信長の四国征伐軍を迎え撃つという状況にあった長宗我部元親は,その妻が光秀の重臣・斎藤利光の義理の妹という関係にあり,織田家内部では,光秀が対長宗我部外交の窓口になっているという関係にありました。そのため,信長が長宗我部家との縁を切り,織田信孝・丹羽長秀らに四国討伐の準備をさせるに至ったことが光秀謀反の動機になったとする説は有力であり,明智氏もその考え方自体は否定していません。ただ,長宗我部氏の本拠がある土佐は京都からあまりに遠く,元親にも光秀を支援するような余力はないことから,元親を本能寺の変の黒幕とまで認定するのは無理があるといえます。
④ 朝廷及び旧将軍家
 織田信長は,本能寺の変当時,朝廷から贈られた官職をことごとく辞退しており,さらに自らを神と名乗っていたなどの事情から,天下統一の暁には朝廷を潰す気であったと唱える見解もあり,このような方針に反発した光秀が,朝廷を守るために反旗を翻したという見解もあります。また,信長に京を追われ毛利氏の元に身を寄せていた元将軍・足利義昭も関与していたという見解もありますが,朝廷はともかく,何の実権も権威もない義昭に光秀を動かすほどの力があったと考えるのは無理があるでしょう。

 明智氏は,このような議論の状況の中で,まず②徳川家康の関与否定説を木っ端微塵に打ち砕いています。
 すなわち,家康の「神君伊賀越え」と呼ばれるエピソードはほとんどが後世の作り話で,伊賀越えに随行した家康の家臣達が残した日記などを検討したところ,実際には茶屋四郎次郎などの手引きにより,家康はそれほど危なげなく堺から岡崎城に帰還することができたこと,穴山梅雪は実際には一揆に殺されたのではなく,家康が岡崎に帰還した後で切腹させられたことを指摘しています。
 その論拠として,家康に随行した家臣達が誰一人として穴山梅雪の死について書き残していないこと,徳川家康の家臣・松平家忠が残した『家忠日記』では,「穴山は切腹した」とはっきり書かれていることを挙げており,世に言う「神君伊賀越え」という伝承は,家康による本能寺の変への関与を否定するために捏造された後世の創作話に過ぎないと指摘しています。たしかに,この点について明智氏の指摘は正しいと言わざるを得ず,そうなると徳川家康は,むしろ本能寺の変に何らかの形で関与していた可能性が高いといえるでしょう。
 しかし,本能寺の変に直接関係する明智氏の指摘のうち,上記の点以外のものはかなり荒唐無稽なものばかりで,少なくともにわかに賛同できるものではありません。
① 織田信長の家康謀殺計画?
 明智氏は,本能寺の変に至る背景事情として,織田信長が徳川家康とその重臣達を謀殺してその領土を接収し,光秀から旧領を没収して家康の領土(三河,遠江,駿河)を与えようとし,これに光秀が反発したのだと主張していますが,もちろんそんな主張を裏付ける史料などはありません。
 信長としても,対北条氏の抑えとして家康はまだ必要な存在だったでしょうし,この時点で無理して家康を討たなくても,信長の天下統一事業が進むにつれ,家康は信長に屈服せざるを得ない状況にありました。信長自身も,毛利氏・上杉氏などと戦うため各地に軍勢を送っており,家康と正面切って戦う余裕まではなく,敢えてこの時点で家康を討つメリットはなかったと考えるほかありません。
 明智氏は,家康とその重臣達を堺あたりで一網打尽にさせ,その後光秀とその与力(細川藤孝,筒井順慶など)に徳川領を攻めさせれば,簡単に徳川領の接収は可能であったと(少なくとも信長は)考えており,光秀も実は信長から,家康暗殺と徳川領の接収を内密に命じられていたと主張しているのですが,仮に家康達をだまし討ちにしたところで,家康に従っていた三河武士団達が大人しく信長に従うとは思えませんし,信長もそのようなことが現実的に可能と考えるほど馬鹿ではないでしょう。
 その実質的論拠となる史料は,本城惣右衛門なる光秀配下の兵卒が,自分の手柄話を語った覚え書きの中で,「信長を討つとは夢にも知らなかった。山崎へ向かっていたところ,思いのほか京都へ行くとのことなので,我々は上洛中の家康を討つものだとばかり思っていた」という趣旨のことを語っているという程度のものでしかなく,これを論拠に信長の家康謀殺計画が実際にあったというのであれば,実はその謀殺計画は機密漏洩しまくり,光秀配下の一兵卒にもばればれという状態にあったことになりますが,信長を馬鹿にするにもほどがあるでしょう。
 また,本能寺の変直後に秀吉が編纂させた『惟任退治記』には,信長は秀吉からの援軍要請に対し,光秀を軍師として早々に着陣させて秀吉と相談するようにと命じ,その作戦次第では信長自身も出陣すると厳重に申し渡したという記述があり,明智氏はこれを根拠に光秀は秀吉の下風に置かれたわけではないと主張しているのですが,その一方でこの文書に書かれていることは真実では無いとも主張しているのですから,史料評価に対する態度もまるで一貫していません。
 その他,信長の家康謀殺計画を前提として,明智氏は安土城を焼いたのも家康の仕業などと縷々主張しているのですが,このあたりの主張はもはや妄説として切り捨てるしかありません。

② 織田信長の中国出兵計画
 織田信長は,天下を統一した暁には居城を大阪に移し,さらには中国(明)を征服することも考えていたと伝えられており(宣教師達の残した史料にそのような話が残っています),豊臣秀吉による朝鮮出兵は信長の構想を実現に移したものであるとの見解が最近有力になっていますが,明智氏はこれが光秀謀反の大きな原因であると主張しています。
 すなわち,信長が将来的には朝鮮や明を征服し,光秀らは畿内の領土を奪われて新しい征服地に転封させられることになり,光秀にとってこれは土岐家存続の危機であると判断したため,やむなく謀反を起こしたというのですが,仮にそうだとすれば明智光秀という人物は,信長から最近与えられたに過ぎない土地(それも土岐家の先祖から伝わる伝来の土地というわけではない)を維持するために謀反まで起こした救いようのない保守主義者ということになります。
 その一方で明智氏は,光秀は決して保守主義者ではなく,革新的で合理的な信長の思想に共鳴しており信長に信頼されていたなどとも書いており,明智氏の語る光秀像は支離滅裂というしかありません。
 しかも,秀吉が密かに信長打倒を企んでいたのは,このような信長の構想に秀吉自身も反発していたからだと明智氏は主張していますが,そうであれば秀吉自身が信長の遺志を継いで朝鮮出兵(唐入り)を実行したことの説明が付きません。

③ 羽柴秀吉の陰謀?
 明智氏は,羽柴秀吉に関しても,本能寺の変よりかなり前から密かに信長打倒を企んでいたなどと縷々主張していますが,これらは信長の家康謀殺計画以上に具体的根拠がなく,単なる憶測の域を出ません。この点に関する明智氏の主張を詳細に取り上げる気にすらなれないほどです。

 黒猫は,明智氏のブログで「神君伊賀越え」に関する主張を読んで,このように論理的な主張であれば彼の本も読む価値はあると思い本の購入に至ったのですが,この部分以外の主張は単なる謀略史観に基づくものでしかなく,読んだ後で購入を後悔させられました。
 明智氏は自らの史料分析を「歴史捜査」と称していますが,別に従来あまり重視されてこなかった当時の日記や行政記録等を,後世による改ざんの可能性が低く信用性が高い文書と位置づけて,軍記物等により吹聴されてきた従来の通説を批判するといった手法は,近時の歴史学では頻繁に行われているものであり,明智氏のやっていることが特に斬新というわけではありません。というか,明智氏の展開する支離滅裂な主張に「歴史捜査」なる言葉が使われること自体,現代日本の犯罪捜査に対する重大な冒涜であると言わざるを得ず,このような手法による「捜査」が許されるのであれば,おそらく警察官や検察官の勝手な憶測による冤罪事件は今以上に激増することでしょう。
 明智氏の研究からひとまず結論づけられることは,本能寺の変に関し徳川家康の関与がなかったという従来の通説は後世の創作による部分が大きく,実際に家康は信長殺害にあたり光秀と何らかの共謀ないし同意をしていた可能性が高い,そして家康が岡崎城に帰った直後の軍事行動も,光秀討伐ではなくむしろ光秀の援助を目論んでいた可能性が高いが,光秀が羽柴秀吉によってあっけなく討たれてしまったため家康の目論見は頓挫した(『家忠日記』によると,山崎の戦いで光秀が敗れたとの報を聞いた後も家康は軍を西進させており,秀吉から「上方のことは片付いたので早々に帰陣するように」との指令を受け,家康はやむなく西上軍を撤退させたことになる),その後は光秀の謀反に関する家康の関与を徹底的にもみ消したということくらいでしょう。
 明智氏の主張もここまでなら十分な説得力があったのですが,その前後に根拠の薄い他の主張を長々と展開したために,明智説全体の説得力が大きく減殺されてしまったことは残念とするしかありません。

 こういう,自説に関して大風呂敷を広げすぎてしまったために破綻を招くというパターンは,今次の民法改正に関する内田貴元東大教授の学説にも当てはまります。
 内田教授は,かねてから債務不履行による契約の解除に関し,従来の通説が債務者の帰責事由を要すると考えていたのに対し,契約の解除は契約の拘束力からの解放であるから債務者の帰責事由は不要であるとの自説を展開し,このような見解は法律家の間でも相当の支持を得てきたのですが,今次の民法改正ではそれをさらに進めて,解除の要件として債務者の帰責事由を不要とするのであれば,解除と危険負担はその適用範囲が重複するので危険負担制度は廃止すべきであると主張するに至り,内田氏が法務省参与として主導している今次の民法改正でも危険負担制度の廃止が検討事項の一つに挙げられているのですが,これに対しては学者の内部でも反対意見が相当数出たほか,弁護士会などの実務界は猛反発。
 東京弁護士会などの意見は危険負担制度廃止論の前提となる内田説自体を全否定しており,ひょっとしたらこれが原因で民法改正の話自体が潰れるかもしれないというくらいの騒ぎに発展しているのですが,やっぱり従来の通説的見解を否定するというアプローチは,石橋の上を叩いて渡るくらいの慎重さでやるべきですよ。穴だらけの主張を長々と展開することは,有益な部分も含めて自説全体が妄説として否定されてしまう危険性を孕んでいるわけですからね。