黒猫のつぶやき

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トータルウォー・ササン朝ペルシャ編(4)

2006-12-29 11:30:26 | 歴史
 黒猫のオリジナルは、どうも薬の飲み合わせが悪いのか、体調不良で事務所の忘年会にも出られない始末ですが、ゲームの方は休み休みながらも続けています。
 というわけで、リプレイ記第4回です。

7 水泳自滅事件
 シドンでの疫病と、新占領地での暴動に頭を悩ませながらも、各地で発生する山賊対策を怠るわけには行きません。そんなわけで、387年には一度に3箇所の山賊を退治したことがあったのですが、そのうちの1箇所で、ペルシャの戦史に残る珍事件が発生してしまいました。
 場所は、ハトラ北部の河川地帯。主に農民兵とクルド投槍兵から成る比較的大規模な山賊軍に対し、シルスが遊牧弓騎兵を率いて鎮圧に向かい、両軍はティグリス川をはさんで対峙しました。
 シルスが進撃を命じたところ、弓騎兵たちはなぜか橋を渡らず、河に足を踏み入れて水泳を始め、泳いで河を渡ろうとします。軽歩兵や軽騎兵はたしかに水泳も可能なのですが、その戦場でわざわざ水泳をする意味は無いので、シルスは水泳をやめさせるよう命令しますが、進撃を命じるとまた水泳を始めてしまいます。
 諦めたシルスは、弓騎兵は当てにならないので自分の親衛隊だけで戦う決意をし、橋を渡って敵との戦いを始め、弓騎兵にはやりたいようにやらせていましたが、弓騎兵のうち2部隊が、なかなか対岸に上陸しようとせず、河の中で敵兵を弓矢で攻撃したりしてうろうろし続け、そのうち水泳で体力を消耗しきったのか、シルスの目の前で次々と溺死して行きました・・・。
 結局、戦闘自体には勝ったものの、自軍もかなりの損害を出す結果になり、しかもその損害の約9割は、弓騎兵の水泳による自滅・・・。弓騎兵は募兵費用が安いので国家の大勢に影響があったわけではありませんが、ペルシャの戦史に残るおろかな戦いになってしまいました。
 しかし、翌388年にはシドンの疫病もやっと終息。王国の財政状況も好転したため、改めて東ローマ帝国に対する攻勢を再開することになりました。

8 壮絶! アレクサンドリア攻防戦
 アルダシールが次の攻略目標に選んだのは、エジプトのアレクサンドリア。肥沃な農耕地帯であるため人口も多く、略奪でも多くの戦果を期待できるという理由もありますが、ササン朝が中東地域のほとんどを制圧してしまった上に、アレクサンドリア西方の都市キレネが反乱軍に占拠されていたため、地理的に孤立していたという理由もあります。
 しかし、最大の理由は、アレクサンドリアの軍事施設は既に著しく発展しており、最高レベルの騎兵訓練施設「キルクス・マクシムス」が建設済み。そこから、明らかにペルシャ軍のカタクラフトを真似たものと思われる「エクイテス・カタクラフト」という重装騎兵が出現するようになっていたため、放置していては重大な軍事的脅威になりかねないというものでした。
 巨大都市アレクサンドリアは、城壁も最高クラスの「豪壮な石壁」で守られている難攻不落の都市であるため、カタクラフト4部隊、遊牧弓騎兵4部隊に加え、攻城兵器オナガー2機を用意。さらに、最近は戦闘に参加することが少なくなり、もっぱら都市の治安維持部隊と化していた徴募槍兵部隊も、攻城塔を建造して参戦することになりました。攻略軍を率いるのは、例の若き婿将軍ゴブリャス。
 アレクサンドリアの守備部隊は、侵攻を決めた当時におけるスパイの報告ではそれほど多くなかったのですが、攻略軍がアレクサンドリアに近づくたびにその数を増し、ペルシャ軍がアレクサンドリア城外に迫った頃には、どこから現れたのか10部隊近くの援軍が入城し、数では攻撃側のペルシャ軍をも上回ることになってしまいました。
 それでも攻撃を開始し、オナガーで城門を破壊する一方で、攻城塔が敵の城壁に迫り、徴募槍兵が城壁の上に登って敵兵と戦闘を開始します。しかし、敵の反撃も凄まじく、敵の弓兵による火矢攻撃のほか、城壁の塔に配備されたバリスタからの攻撃も受け、槍兵もオナガーも被害を受けてしまいます。その上、城壁の上には敵の主力部隊が集中しており、そこに乗り込んでいった徴募槍兵は、城壁上で敵に囲まれた挙句、なんと全滅。
 しかし、城兵が徴募槍兵に気を取られている隙に、オナガーがついに城門の破壊に成功し、そこからカタクラフトと、はるばるクテシフォンから連れてきた象兵が場内に突入。敵の反撃もしぶとく、象兵は受けたダメージの大きさのあまり暴走を始めてしまう始末でしたが、カタクラフト4部隊が襲い掛かる敵兵を各個撃破し、最終的には何とか勝利。陥落したアレクサンドリアを略奪し、キリスト教会を破壊したことは言うまでもありません。
 アレクサンドリアの陥落は391年夏のことでしたが、ちょうど歴史イベントで、アレクサンドリアの司教たちが、異教の排斥のため、異教徒の神殿をだまし討ちにして破壊するという事件が起こった時期でした。アレクサンドリアの司教たちが悪辣な手段で異教排斥を行ったその直後に、ペルシャ軍の攻撃によりアレクサンドリアの司教区自体が壊滅することになったのは、まさに悪逆非道なキリスト教徒たちに対する天罰以外の何物でもないでしょう。

9 小アジア攻略戦
 アレクサンドリア攻略により、中東の一大経済圏がペルシャの手中に入ることになり、アレクサンドリアでの略奪金も合わせて、ペルシャの財政状態はさらに好転することになりました。それにより新たな軍団を編成する余裕も出来、小アジア(現在のトルコ近辺)にも侵攻を開始することになりました。
 小アジアでは、そもそも前王シャープール2世によるアンティオキア攻略の原因を作ったアンキュラの反乱が鎮圧された後も、今度は小アジア東部のカエサリアで反乱が発生し、東ローマ帝国はやっとの思いで陥落させたカエサリアで略奪を敢行し、やっと小アジア情勢を落ち着かせたというところでした。
 そのため、心配していた小アジア方面からの東ローマ帝国の反攻もしばらくはなかったのですが、まさに東ローマ軍がカエサリアを陥落させた直後に、ペルシャの将軍シルスが、老齢に達した父のメルキオルから軍司令官の地位を譲り受け、小アジアへの侵攻を始めたのです。
 394年には、まずカエサリアが陥落。カエサリアは既に東ローマ軍の略奪で人口が減っていたため、カエサリアでの略奪はせず、しかも地理的な影響によりカエサリアには既にゾロアスター教の影響が強く及んでいたため(カエサリアで反乱が起きたのもおそらくそのせいでしょう)、キリスト教会の破壊とゾロアスター神殿の建設もむしろ住民に歓迎される有様。まるで解放軍にでもなったような気分でした。
 一方、翌395年には、エジプト方面軍が北アフリカ方面で唯一残っていた東ローマの都市・キレネ(反乱はいつの間にか鎮圧されていた)を攻略します。しかし、その途中で、なぜか西ローマ帝国反乱軍の軍隊がペルシャ軍の進路を妨害。攻略が半年遅れてしまう結果となりました。
 スパイからの情報を総合すると、どうやらこの反乱軍は、キレネの西方にある西ローマの都市レプティス・マグナを占拠していたところ、西ローマ帝国の正規軍に追い払われ、ヨーロッパのどこかにある(後にスペインのコルドバと判明)別の反乱軍拠点に落ち延びようとしたものの、ヨーロッパ側に渡る船を用意できないので、仕方なく陸路で落ち延びようとしているようなのです。
 しかし、陸路で北アフリカからヨーロッパに行くには、ササン朝の領土を縦断して黒海の北を回り、蛮族たちの支配する地域を通り抜けて、さらにおそらく西ローマ正規軍の支配地域も通り抜けて行かねばならず、到底現実的にたどり着ける距離ではないと思われる上に、兵力も結構馬鹿にならない人数を連れているので、無防備なササン朝の後方都市を狙われる可能性も否定できません。
 結局、アルダシールの下した命令は「始末しろ」。この命令は忠実に実行され、キレナイカ地方に侵入した西ローマ反乱軍は、キレネが陥落したのと同じ395年から翌396年にかけて、ペルシャ軍により殲滅されました。
 その頃、国王アルダシールは、陰気な性格がますます深刻さを増し人望を失っていましたが、なぜか父王と同様に「略奪の達人」の特徴を得るようになっていたため、小アジア攻略には自らも出陣することになりました。
 ロクソラニ族は結局攻めてこず、北方地域はときどき山賊が出る程度の比較的平和な状態だったため、カンプス・アラニの守備は将軍のクセウスに任せ、アルダシールはコイタスから海路で西進し、396年に東ローマの都市シノーペーを攻撃。シノーペーは守備隊も少なかったためあっさり陥落しました。
 シノーペーは、施設の整備度が悪い割りに人口が多すぎたため、略奪は行いましたが、カエサリアと異なりゾロアスター教は全く普及していなかったので、ソル神の神殿破壊は少し時間的猶予を措くことにし、ゾロアスター教を普及させるためタルススから老将メルキオルを呼び出し、彼にシノーペーを任せることにしました。
 その間に、カエサリアを落としたシルスはアンキュラを攻略。アンキュラにはかなりの数の東ローマ軍が立て籠もっており、攻略戦はかなりの激戦となりましたが、398年にはアンキュラも陥落。この都市では、やはり東ローマ軍の反乱鎮圧に伴う略奪で人口が減っていたため、ミトラ神殿を壊して住民の強制改宗は行ったものの、都市の略奪は行いませんでした。
 なお、この年には、北方戦線でゾグティアヌス将軍が北東端の町カンプス・サカエを占領し、首都から遠いため二度にわたる暴動に悩まされながらも、その後は安定した統治を進めていました。
 ところで、当時の東ローマ帝国の首都は、なぜかコンスタンティノープルではなく、なぜか小アジア西端のエフェソスになっていましたが、エフェソスは人口が多く、その後の統治のことを考えると略奪は必須であるため、攻略軍は国王アルダシール自らが指揮を取ることになりました。
 さすが首都だけに、東ローマ軍も防衛軍の強化に全力を注ぎ、防衛軍が多すぎるためその一部が城内に入りきれず城のすぐそばで駐留しているという状態でしたが、結果として、これは東ローマ軍にとっては逆効果となりました。
 アルダシールは、エフェソスを攻撃する前に、城内に入りきれずエフェソスの城外に待機している東ローマ軍を攻撃。これに対し、エフェソスの駐留軍は全軍で応援に駆けつけ、城外での会戦となったのです。
 東ローマ軍は数こそ多かったものの、ペルシャ軍の大型飛び道具(バリスタ)や象兵に怖れをなしたのか、ペルシャ軍と激突してから間もなく次々と退却を始め、そのほとんどは、追撃するカタクラフトの餌食となり、辛くも逃げ延びた兵士たちも都市を捨てて雲散霧消してしまいました。エフェソス城外の会戦に勝利したアルダシールは、400年夏、空城と化したエフェソスに入城。直ちに城内を略奪し、キリスト教会を破壊し住民の強制改宗に着手しました。
 アルダシール自身は熱心なゾロアスター教徒ではなく、むしろその信仰に疑問を抱いている人物でしたが、ゾロアスター教で国内を統一することの政治的重要性は理解しており、そして領土拡大という目的を達するには手段を選ばない人物でもありました。占領した都市の略奪は、芸術形式と言われるほど組織的かつ徹底的に行い、さらに敵軍の勢力を弱めるため暗殺者を多用し、東ローマの将軍も手当たり次第に暗殺しまくったため、小アジア攻略時には、小アジア方面の東ローマの将軍は1人もいないという状態になっていました。
 そんなアルダシールは、398年に「処刑人」という恐ろしい異名を付けられています。まさしく暗黒の国王という感じです。
 一方、アルダシールの治世下では、既に占領した地域の経済政策が順調に進み、中東方面の多くの都市では、ローマ時代以上の繁栄を誇るようになっていました。
 ササン朝ペルシャに領土の大半を奪われた東ローマ帝国と異なり、西ローマ帝国の方は未だ全面崩壊には至っていないようですが、エフェソス陥落とほぼ同時期に北アフリカの巨大都市カルダゴがベルベル人の手に奪われ、それにより領土数はササン朝ペルシャに追いつかれています。
 もっとも、カルタゴを占領したベルベル人を除いては、蛮族による侵攻の勢いは思ったほどではないようで、土地を捨てて放浪しているヴァンダル族やフランク族、ゴート族は、なかなか新しい土地に定住できず苦労しているようです。
 史実の5世紀は、蛮族の侵入により西ローマ帝国は滅び行き、東ローマ帝国とササン朝ペルシャは泥沼の消耗戦を続け両国ともに徐々に疲弊していくという状況になっていましたが、今回のプレイでは史実と大きく異なり、どうやら西ローマ帝国とササン朝ペルシャの東西両雄が並び立つという構図になりそうです。