黒猫のつぶやき

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トータルウォー・ササン朝ペルシャ編(6)

2007-01-02 10:49:58 | 歴史
 リプレイ記の続きです。

12 アテネの住民との苦闘
 クレタ島の都市キュドニアを落としたアルダシールは、キュドニアの安定化を見届けるのもそこそこに、翌年には早くもアテネ攻略に出発しました。
 アテネは、言うまでもなく現在のギリシャの首都であり、アテネを攻略することは、東ローマ帝国の本拠地というべきバルカン半島にササン朝ペルシャの拠点を確保することを意味します。ササン朝ペルシャは、建国以来かつて中東全域を支配した超大国・アケメネス朝ペルシャの再興を旗印に掲げており、史実におけるササン朝ペルシャがローマ帝国と長年にわたる抗争を続けたのも、その国是を実現するためというのが最大の理由と言ってよいでしょう。
 ギリシャ地方の制圧に成功すれば、アルダシール2世は、ササン朝建国の祖アルダシール1世や、皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした名君シャープール1世にも実現できなかった、アケメネス朝ペルシャの再興というササン朝の悲願を実現するという偉業を成し遂げた名君としての栄誉を手にすることになります。
 しかし、実際にアルダシールがアテネ攻略を急いだのは、そういった栄誉を早く実現したいからではなく、極めて現実的な理由でした。
 当時のアテネは、ちょうど巨大都市に成長する条件である「人口24000」に到達したばかりの状態であり、傍観していれば数ターンの後には東ローマ帝国がアテネに「皇帝の宮殿」を建設し、アテネが巨大都市に成長することが予想されました。
 「皇帝の宮殿」が完成してしまうと、その後にアテネを占領しても、この建造物をペルシャ風の「王宮」に改築することはできず、異文化の建造物である「皇帝の宮殿」が都市内に存在することによる「文化ペナルティ」で都市の治安が20%低下する状態を永久に甘受しなければなりません。
 既に占領した都市のうち、ゲーム開始当初からローマの「巨大都市」であったのはアンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの3都市ですが、特にアレクサンドリアは他の都市施設の多くも既に最高レベルのものが建てられていたため、新たに建造できるペルシャ式の施設を全種類建てても文化ペナルティが40%も残り、治安維持にかなりの苦労を強いられているというのが実情でした。
 アテネを対ローマの前線拠点に、そして最終的には地中海全域を支配する大ペルシャ帝国の首都にしたいと考えていたアルダシールとしては、何としても「皇帝の宮殿」が完成する前にアテネを占領し、アテネにペルシャ風の「王宮」を建築したいと考えたのです。それが、アテネ攻略を急いだ真の理由でした。
 東ローマ帝国側は、アテネが安全な後背地だった時期が長く続いたためか、アテネにはほとんど守備部隊を置いていませんでした。ペルシャ軍の接近を知って慌てて軍備増強を始めたようですが、もはや明らかに手遅れでした。
 405年、アルダシールは、最近身に着けた夜戦の能力を活かして、アテネに夜襲を決行します。アテネは「頑丈な石壁」で防衛されている都市ですが、攻城戦を何度も経験したアルダシールにとっては、もはや攻略は手慣れたものでした。
 敵の弓兵が待ち構えている城門への攻撃は避け、より中央広場に近い城壁の一部分をオナガー2基とバリスタ1基で破壊し、そこからカタクラフトと将軍護衛兵を全速力で突入させ、一気に中央広場占拠を目指します。全速力で走らせるのは、もたもたしていると城壁の各所に設置されている塔からの弓矢攻撃を受け、余計な被害を蒙ってしまうからです。
 ゲームのルール上、攻城戦では都市の中央広場を3分間占拠すれば、攻撃側の勝利となります。もちろん、城壁の上で守備に付いていた敵の歩兵部隊も、こちらが中央広場を占拠したとなれば慌てて中央広場に駆けつけてきますが、隊列を整える余裕もなく次々とやってくるだけなので、カタクラフトが4部隊もいれば、仮に守備部隊が多くても各個撃破は難しくありません。
 ましてや、このときのアテネの守備部隊は、わずか4部隊。結果は、敵兵の全滅に対しこちらの被害はカタクラフト2人だけという圧勝でした。幸い、まだ「皇帝の宮殿」は完成していなかったので、アテネ早期攻略の目的も達成されたことになります。
 しかし、真の苦労はアテネを占領した後に待っていました。王宮を建設しローマ帝国攻略の前線基地にするという目的があったので、アテネでの略奪は敢えて行わなかったのですが、人口が多すぎてアテネの治安がどうしても維持できません。
 住民の暴動が起きて死傷者が出るだけならまだ良いのですが、暴動ではなく反乱となると、ペルシャの将軍と部隊は都市から追い出されてしまい、王宮の建設もストップしてしまいます。王宮を建設するには5ターン必要なので、何とかそれまで持ちこたえようとしたのですが、3ターン目になる406年になると、住民の反乱はもはや回避困難な状況に陥ってしまいました(ゲーム的に言うと、何度リセットしてやり直しても住民の反乱が起きるという状況になってしまったのです)。
 反乱が起きると、反乱軍はものすごい大軍になってしまい鎮圧に苦労することが予想されるばかりでなく、仮に鎮圧に成功しても再度の反乱を防止するには都市を略奪して住民を大虐殺する以外に方法はなく、そうなると、都市の人口が巨大都市に成長する条件となる24000まで回復するには、少なく見積もってもおそらく30年はかかります。アルダシールとしては、これは何としても避けたい状況でした。
 都市の治安を手っ取り早く向上させるには、(1)駐留部隊を増やす、(2)即席で作れる治安維持施設の建設を優先する、(3)首都をその都市かなるべく近い都市に移転する、という3つの方法がありますが、(1)と(2)については、アテネで農民兵を徴募し、アテネ周辺で雇える傭兵をすべて雇ってアテネに送り込む、王宮建設を後回しにして1ターンで完成するゾロアスターの聖堂を建てるという、考えられるすべての方法を実行しても、なお反乱は回避できませんでした。
 そうなれば、残る手段は首都移転しかありません。まず、思い切って首都をアテネに移してみましたが、そうすると首都からの距離が一気に遠くなるシドンやエルサレムの治安が致命的なレベルにまで低下してしまうので、これは無理。
 そこで首都に選んだのが、現首都アンティオキアとアテネのちょうど中間あたりに位置する、小アジアの都市アンキュラ。ここであれば、シドンやエルサレムの治安も、何とか暴動が起きないレベルは維持できることが分かりました。アテネの治安も、30%から55%にまで上昇。住民の暴動や反乱が起きるのは基本的に治安が70%を切った場合なので、これでも十分とはいえないのですが、これで試してみたところ、次のターンは反乱ではなく単なる暴動で済みました。
 そうした苦労の甲斐あって、408年夏には何とかアテネの王宮が完成。王宮さえ出来てしまえば、その後に住民の反乱が起きようと別に構わないのですが、この時期になるとさすがにアテネの治安も安定し、住民の暴動すらも起きなくなっていました。
 こうしてアテネの王宮完成を見届けたアルダシールは、次のターンである408年冬には、早くもアテネの北方にある都市テッサロニケを攻略。やはり少数の守備部隊しかいなかったテッサロニケはあっけなく陥落しましたが、アテネで懲りたアルダシールが、テッサロニケでは迷うことなく都市の略奪を敢行したことは言うまでもありません。

13 ベルベルの最期
 さて、話はこれまで動きのなかった北アフリカ戦線に移ります。
 北アフリカ方面軍を率いて、レプティス・マグナ近辺に駐留しているゴブリャス将軍は、前王のシャープール2世にも目をかけられており、アレクサンドリア攻略戦の指揮も取った人物ですが、その後アレクサンドリアの長官に就任してからは、アレクサンドリアの華やかな文化に魅了されたのか、ゾロアスター教の布教能力や都市の治安維持能力こそ向上したものの、芸術品の鑑定にうつつを抜かし軍隊の指揮能力はかえって下がったばかりか、大変な浪費家と化しアレクサンドリアからの税収を減少させるようになったので、怒ったアルダシールが半ば懲罰的な意味でアレクサンドリアから引き離し、北アフリカ方面軍司令官の名目で北アフリカの砂漠地帯に放り込んだといういわく付きの人物です。
 ゾロアスター教への信仰を深めたゴブリャスは、レプティス・マグナ周辺でゾロアスター教の布教に務め、おかげでレプティス・マグナの社会不安は増大し治安は低下する一方でしたが、期待した住民の反乱はなかなか起きませんでした。

 そうしているうちに、カルタゴを占領し意気の上がっているベルベル軍が、西方からレプティス・マグナに侵攻してきました。その陣容を見ると、ベルベル族の指導者とその後継者が軍を指揮しているものの、兵力はレプティス・マグナにいる西ローマ帝国の駐留軍とほぼ同数。しかも、ベルベル軍にはとても戦闘の役には立ちそうにない農民兵が結構多く、それ以外の部隊も、将軍の親衛隊を除いてはあまり強そうなものはいません。
 史実でのベルベル族は、度々北アフリカのローマ領を襲撃していましたが、砂漠地帯を本拠地としており人口も多くない弱小部族であるため、ローマ帝国にとってもさしたる脅威にはならず、元首制時代には、対ベルベルの防衛線である北アフリカの防衛にはわずか1個軍団で事足りていた(元首制時代のローマの1個軍団は、正規軍である軍団兵6千人、及びそれと同数程度の補助軍兵で構成されており、要するに1万人ちょっとくらいの軍団でした)ということですが、対ゲルマンの最前線であるライン川やドナウ川の防衛線には常時合計で10個前後の軍団が張り付いていたことと比較すると、ベルベル族の脅威がいかに低いものであったかがよく分かります。
 西ローマ帝国崩壊の際も、北アフリカのローマ領を侵略したのはベルベル人ではなく遥か北方からやってきたゲルマン系のヴァンダル族であり、彼らが北アフリカのドナティスト(北アフリカに信者の多かったキリスト教の一派であるが、一度信仰を捨てた者の懺悔を認めない点でカトリックと教義が異なり、そのためローマ帝国の正統な国教とされたカトリックからは異端視され、北アフリカ地方の上流階級を占めていたカトリック教徒からは絶えず虐げられてきた)と手を組んでカトリック勢力を追い出し、北アフリカにヴァンダル王国を建国していますが、このときもベルベル人は何の役にも立っていません。
 ゲームでもその点が考慮されたのか、ベルベルの軍隊には取り立てて強い兵種がなく、国力面から見ても明らかに弱小国と言ってよい存在であり、そんな彼らがどうやってカルタゴを陥落させることが出来たのか、今でも不思議でなりません。

 そんなことを考えながらも、ゴブリャス率いる北アフリカ方面軍は、レプティス・マグナの包囲を始めたベルベル軍と、防衛する西ローマ帝国軍との戦いを、そのすぐ近くで傍観し続けていました。結局勝ったのはベルベル軍で、彼らは408年冬にレプティス・マグナを占領し、都市の略奪を敢行しました。
 これを見たゴブリャス将軍は、翌409年夏に、レプティス・マグナを攻撃しました。事前にスパイが潜入して城門を開けていたので、包囲して攻城兵器を作る必要もなく、いきなりの強襲です。ただでさえ弱兵である上に、西ローマ軍との戦いで消耗していたベルベル軍は、ペルシャ軍のカタクラフトの敵ではなく、ベルベルの指導者もその後継者も戦死し、レプティス・マグナはペルシャ軍の手に落ちました。
 ベルベルの所有都市は、カルタゴのほか北アフリカ西端のティンギ、サハラ砂漠の真ん中にあるティミディの3都市が残っていたのですが、どうやらベルベルの将軍は、レプティス・マグナにいた勢力の指導者とその後継者の2人しかいなかったらしく、彼らの戦死により、ベルベルはあっけなく滅亡してしまいました。

 その頃のヨーロッパでは、放浪を続けていたフランク族が、407年に西ローマ帝国の内部にあるアウグスタ・ヴィンデリコルムという大きな町を占領し、そこに定住しましたが、スパイの報告では、フランク族の残存兵力は驚くほど少なく、早くも西ローマの正規軍が討伐に向かっているので、おそらく早々に滅亡するだろうとのことでした。
 一方、放浪中のヴァンダル族に本拠地を攻撃されたランゴバルド族は、居住地を捨てて放浪の旅を始め、410年には新興のスラブ民族が台頭し南下を始めました。
 これだけで西ローマ帝国が滅亡するとはとても思えませんが、何やら新しい時代の到来を予感させる出来事でした。

1 コメント

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Unknown (匿名希望)
2007-01-05 12:18:09
現代社会なら不可能な「暗殺」なんてできちゃうのがすごいですね。プレー記の続編期待しています。
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