空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

菩薩へ至る道(Ⅱ)-ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』を聞く-

2016-11-17 01:44:59 | 日記・エッセイ・コラム

 引き続き、同人紙からの転載。

 

 菩薩へ至る道(Ⅱ)-ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』を聞く-

 前号は仏教の歴史を説明しただけで終わってしまった。ダライ・ラマ法王が4日間にわたって『入菩薩行論』を講義された、その内容を正確に記す能力はないし、分量的にもこの紙面では足りないので、私が理解できた部分を中心に報告しようと思う。

 『入菩薩行論』は、8世紀のインド僧、シャーンティデーヴァの著作で、10章からなり、ブッダとなるための菩薩行の実践について書いている。

 菩薩とはどういう存在か 菩薩とは菩提薩埵(ぼだいさった)を略したもので、「菩提」はさとり、「薩埵」は有情(衆生)のこと。原始仏教では、菩薩は釈迦の修行時代をさした。部派仏教では、ブッダとなるため修行するものは誰でも菩薩と呼ばれるようになった。

 さらに大乗仏教では、「一切衆生悉有仏性」を説いて、生きとし生けるものはすべて、仏となる性質(仏性)を持っているとして、菩提心を起こした者は菩薩と言われた。

 菩提心とは、さとりを求める心のこと。菩薩行とは自らのさとりを求めて修行するだけではなく、苦界にとどまって他をさとらせ、一切衆生を苦しみから救う(衆生済度という)利他の修行も含まれる。

 仏教の勉強を始める前に私が持っていた菩薩の概念とは、「ブッダとなる前の修行中の釈迦の姿だから、飾りのついた冠や衣装をつけた王子の姿をしている」という程度のものであった。

 本格的に勉強をして、大乗仏教における菩薩の存在を知ったとき、とても感動した。

 菩提心を起こし、修行を積めば、だれでも菩薩となり、たとえ今生でブッダのさとりを得られなくても、いつかは、ブッダのさとりに到達できる可能性を持っている。

 そのような教えは、煩悩にまみれ、意志薄弱な私のような人間が、仏道修行をしようと発心し、挫折を繰り返しながらも修行を続けていくための、とてもよい動機づけとなるからである。

 仏教を学び始めたころ、「三帰依文」を覚えた。仏・法・僧に帰依しますという、パーリ語経典にもある祈りの言葉だが、日本で唱えられる三帰依文は冒頭に導師が唱える偈が加えられている。それを知ったとき、これは私のためにある言葉ではないかと思ったほど、心に響いた。

 人身受け難し、今すでに受く。

 仏法聞き難し、今すでに聞く。

 この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。

 これは

「無数の命がある中で、人間として生まれることはたいへん難しいことだ。けれど、今、私は人間として生まれて、ここにいる。仏の真理の言葉を聞く機会に出会うのは大変難しい。けれど、今、私は仏の真理の言葉を聞くことができた。人間として生まれてくることができた今生において、仏の真理の言葉を聞くことができたこの時に、さとりへの道を歩むことをしないで、いつの世にさとりを求めて修行をするというのか」

 と、発心(菩提心を起こすこと)からすべてが始まることを説いている。

【ティーチング1日目】ダライ・ラマ法王はまず、「すべての宗教は、愛と慈悲心を根本に置き、苦しみからの解脱を説いている点で共通しています。キリスト教などの有神論は慈悲の根本を神に置いていますが、仏教などの無神論は因果の法に基づいています」と、ブッダが説いた法の根本である、因果の法から話を始められた。

 「仏教は心についての科学です。執着や怒りなどの煩悩によって心がかき乱されると、苦しみが訪れ、心が安らかになると幸せが訪れる、と釈尊は説かれました。心の平安を得るために、正しい智慧を育まなけれななりません。そのためには、聞・思・修(もん・し・しゅう)、すなわち、正しい教えを聞く、よく考える、教えについて瞑想し、正しい教えに心がとどまっていることを確かめながら実践する。知性に裏付けられた、正しい智慧を育むことが最も大切です」。

 そして、ブッダが「初転法輪」(最初の説法)で説かれた「四聖諦」について話された。

 「四聖諦」とは、四つの聖なる真理、「苦諦・集諦・滅諦・道諦」のことで、因果の法に基づいている。

 すなわち、①苦しみを知る ②苦しみには原因がある ③苦しみを原因とともに滅した境地が存在する ④苦しみのない境地に至る修行道がある。

 このようなダライ・ラマ法王の解説はとても理解しやすい。これは、苦しみから脱して、さとりへ至る、実践的な方法論なのだ。

 菩提心および「空を理解する智慧」について いよいよ『入菩薩行論』の本論に入る。法王は、空の教えと菩提心が『入菩薩行論』の主なテーマだと述べられた。第1章~3章は菩提心についての解説である。

 「空」とは、「五感の対象となるすべてのものは、原因と条件に依存して存在する。自らの力で存在するものは何一つない」という、ものの在り方をさす。

 仏教の入門書を読むと、「空」を「無」と同義語であるかのように説明したものが多々あり、私はそのように誤解して、虚無感に襲われことがある。

 空を理解するためには、ナーガールジュナが『中論』で論じた、「二諦」という概念を知っておく必要がある。二諦とは二つの真理、「世俗諦」(せぞくたい)と「勝義諦」(しょうぎたい)をいう。

 世俗諦は世俗の真理で、ものの現れ方と真の在り方(空)が一致していない。

 勝義諦は究極の真理で、ものの現れ方と真の在り方が一致している。

 世俗諦では物事は確かに存在しているが、勝義諦ではすべての現象は空である。勝義諦での「空」を、そのまま世俗にスライドさせると、「すべては無だ」となってしまい、虚無感に襲われてしまう。

 法王は、『入菩薩行論』第九章の智慧波羅蜜について、ナーガールジュナの『中論』を引用しながら解説された。

 智慧波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五波羅蜜の実践によって得られる智慧、すなわち空を理解する智慧のことである。

 物事には実体があるという考えにとらわれることを無明といい、根源的な無知をさす。

 無明を源としてすべての煩悩が生まれ、煩悩と、煩悩に支配された行為を源としてすべての苦しみが生まれる。

 つまり、空を理解する智慧こそが、無明を晴らし、苦しみを滅する手段になるのだ。

 「一切衆生を苦しみから救うためには、自らが一切智の境地(完全なさとりの境地)に至ることが必要です。そのために菩提心を育み、空性を理解する、その二つの修行によって一切智の境地に至りブッダとなることができるのです」。 

 【ティーチング2日目】2日目は、仏教の歴史を概説されたあと、「四聖諦」について詳しく解説された。

 根源的な苦を知る 「苦しみには三つの種類があります。一つは苦苦。動物でもわかる、感覚的な苦です。二つめは壊苦(えく)。変化に基づいた苦で、幸福だと思っていてもいつかは苦に変わってしまう。三つ目の行苦は、無明に基づく、根源的な苦です。四聖諦の『苦を知る』ということは、この行苦を知るということです。

 私たちの心と体は一瞬一瞬変化しています。そのような心と体に依存している『我』が実体として存在すると考える(無明)ことから、苦しみが生まれるのです。四聖諦とは、私たちが苦しみの本質の中にいることを知り、空を理解する智慧によって苦しみから離れ、滅諦の境地に至ることを目的に実践する(道諦)という教えです」。

 ダライ・ラマ法王の「四聖諦」についての法話を繰り返し聞くうちに、私は、この「四聖諦」が、ブッダの教えの基盤であることが理解できるようになった。しかし、頭ではわかっても、当然のことながら、実践することは大変困難である。

 『入菩薩行論』は、第4章「菩提心の不放逸」で、煩悩による過失から菩提心を守ることを説き、第5章「正知の守護」では、そのために日ごろから自分の心と体を注意深く見守り、警戒心を働かせることに慣れ親しむことが大事だと説く。第6章「忍辱波羅蜜」では、怒りがもたらす過失から功徳や善行を守るのが、忍耐という修行であると説く。

 「逆境に陥ったとき、逆境を他を助けるための状況だととらえれば、自分を高める修行の場となります。私は(インドに亡命し)難民となったおかげで世界中の人々と会い、ナーランダのテキストを世界中の人々と分かち合うことができるようになりました。別の角度から見る心の広さを持てば、ひどい状況から抜け出す道を切り開くことができます」。

 ナーランダ僧院の伝統 ダライ・ラマ法王は、折に触れて、「ナーランダ僧院の伝統」ということを言われる。

 ナーランダ僧院(大学)はインドの仏教を学ぶ最重要拠点で、玄奘三蔵や、『大唐西域求法高僧伝』を著した義浄も学んだ。イスラム教徒の侵攻で破壊され、現在は遺跡しか残っていない。

 多くの賢人たちが著した著作は、チベット仏教の重要なテキストになっている。ダライ・ラマ法王は、「聖ナーランダ大僧院の17人の賢者に捧げる祈願文」を著されている。「ナーランダ僧院の伝統」と法王が言われるとき、釈尊に始まり、インドでは滅びた仏教がチベットにもたらされた。そのことへの感謝と、法灯を引き継ぎ、守り伝えることがご自分の使命だとする、法王の覚悟を感じずにはおれない。

 ダライ・ラマ法王は、たびたび、ナーガールジュナ(龍樹)や、アサンガ(無著)など、ナーランダ僧院の賢者たちが著した論書を引用しながら、解説される。

 知識の乏しい私には、聞き慣れない言葉が理解できないでメモし損ねているうちに、ただでさえスピードの早い同時通訳が先に進んでしまう。午後になると、眠気という煩悩に妨げられる。今、これを書くためにノートを読み返しているのだが、判読不明の箇所がなんと多いことか。

 2日目の午後は、法王が読まれる部分がテキストのどこに書かれているのか、ぺージを探しているうちに終わってしまった。ご高齢にもかかわらず遠い日本を訪れて、熱心に法を説かれる法王さまには何とも申し訳のないことである。 

【ティーチング3日目】3日目はチベット仏教の歴史から始まり、『入菩薩行論』は、第7章「精進波羅蜜」、第8章「禅定波羅蜜」、第9章「智慧波羅蜜」と読み進められた。詳しい内容を書くには紙数が足りなくなったので、印象に残った言葉をノートから拾うことにする。

 「精進の妨げとなる怠慢には、明日やろうと1日伸ばしにする怠慢、自分にはできないと初めから諦める怠慢、悪い行いに執着する怠慢があります。私たちには仏性が与えられています。勇気と自信をもって、慣れ親しむ努力をすれば成し遂げられます」。

 「瞑想は、何も考えないことではありません。西洋で言うメディテーションは、心がかき乱されている時には役に立ちますが、心の変容をもたらしません。一点に集中する『止』と、分析的な瞑想『観』がありますが、観の土台となる止の成就をまず追求すべきです」。

 「平等心を育むためには、自分と他者を入れ替えて考える、他者は自分の身体の一部分であると考えることです。社会が幸せでなければ自分は幸せになれません。この世のいかなる幸せも、他者の幸せを望むことで得ることができます。利己主義こそが私たちを苦しみの中に投げ入れているのです」。

【ティーチング4日目】最終日は、まず般若心経が日本語、中国語で唱えられ、法王は、般若心経の意味について詳しい解説をされた。その後、在家信者戒、菩薩戒が授与され、「文殊菩薩の許可灌頂」(修行を始めるための許可を受ける儀式)が行われた。

 4日間を通してダライ・ラマ法王が繰り返し言われたことは、菩提心と空を理解する智慧を育むこと、歩みを止めることなく修行を続けること、教えの意味を正しく理解し、知性に基づいて修行することの大切さだった。

 私がさとりの境地に達する可能性は、ガンジス川の砂粒一つほどもない。けれども、日々煩悩に振り回され、己の怠慢を反省することを繰り返しながらも、仏教の勉強を続けていこうと改めて思った。ダライ・ラマ法王の法話を「聞く」たびに、その思いを強くする。

 李さんとは、昼食を一緒に食べたり、法話が終わってからお茶を飲んだり、いろいろな話をした。同じようにダライ・ラマ法王の法話を聞いてきた者同士、率直に仏教や人生の話をすることができて楽しかった。後日、彼女は、知り合いの仏教学者が4日間のティーチングの内容をまとめたものを手に入れて、メールで送ってくれた。私のノートの欠けた部分を補うのに、おおいに役に立った。

 この秋もダライ・ラマ法王が来日された。私は多忙のため参加を断念したが、李さんは大阪で開かれた灌頂会や、高野山大学と東京での法話に参加した。法王の体調が芳しくなく、大阪での灌頂が予定されたものとは違う内容になったと彼女からメールが来た時は、ご高齢なのでとても不安になったが、法王のホームページを見ると、いつもどおりの笑顔で人々に接しておられるご様子なので、安堵した。落ち着いたら、メールで感想を聞こうと思っている。(おわり)