先日、BSで再放送の番組を見た。昨年、放送されたというアメリカのドキュメンタリー映画「キング・コーン」だ。
二人の若者が、自分たちの髪の毛の成分がコーンに由来したものだということを知って、アメリカのコーンの生産現場を体験する。
アメリカのコーンの生産は、1973年、当時のバッツ農務長官が導入した増産政策にもかかわらず、補助金なしでは赤字である。
コーンのほとんどは家畜のえさ、炭酸飲料の甘味料、コーン油、燃料用エタノールの原料になっていて、生産者でさえ食べない代物だ。しかし、あらゆる加工食品に使用されて、アメリカ人の健康を脅かしている。
コーンで促成生産された牛は病気になりやすいため、大量の抗生物質を与えられ、肉はほとんどが脂肪で、ひき肉にされ、ハンバーグになっている。「ぼくたちの体がコーンで出来ているはずだ」と若者たちは納得する。
増産のために、農地に大量のアンモニアをまき散らし、密植に強い遺伝子組み換えコーンが猛威をふるう。もともとタンパク質豊富だったのに、でんぷんばかりになってしまったアメリカのコーン。
バッツ元農務長官は、コーンの増産のおかげで、輸出量が増え、食料品が安くなり、国民を豊かにした、と自分の政策を自画自賛し、コーン生産者は自分の農作物に誇りを持てず、こんな現状はおかしいと思いながら、もう誰も止められない、とため息をつく。
放送を見て、気分が悪くなる。
この気分の悪さは、口蹄疫、鳥インフルエンザが発生するたびに、テレビで放映される映像を見たときの気分の悪さと同じものだ。
特定の地域に集中し、身動きできないほど狭いケージで飼われている鶏や牛。何十万羽、何万頭が処分されましたと、穴のなかに鶏や牛が重機で埋められている映像。すべて処分が終わり、もう安全ですと宣言する行政官。
トウモロコシも、鶏も、牛も、私たちと同じ生き物だ。
私たちは、生き物の命をもらって食べているからこそ、生きられる。
そういう食べ物が、こんなふうにつくられ、飼われていいのだろうか。
私は長い間、食品の安全や健康を考える消費者グループに入って、有機農業の生産者グループから、スーパーよりは高いけれども、安全でおいしい食べ物をいただいてきた。
初めて日本で鳥インフルエンザが発生したとき、私たちに卵と鶏肉を届けてくれていた生産者も、影響を受けた。
その生産者の鶏舎は広くて、日当たりも風通しもよく、鶏は地面を走り回っていた。病気にかかりにくく、ほとんどの養鶏業者がえさに混ぜている抗生物質も使わない。ちなみに、日本の養鶏、畜産業で使われる飼料はアメリカから輸入されたコーンに全面的に依存している。
そんな鶏舎で、夫婦二人で管理できる羽数しか飼えない。
鳥インフルエンザが発生すると、野鳥との接触を防ぐため鶏舎の網目を細かくするようにとお上からのお達しがあって、健康な鶏を育てるためには、コスト優先で密集して飼うことこそ問題視しなければならないのに、とその生産者は怒っていた。
禅宗で、食事の前に唱える「五観の偈(げ)」という短い経文がある。その中の二つ。
①「一つには功の多少を計り彼の来処を量る」
②「二つには己が徳行の全欠を忖(はか)って、供(く)に応ず」
①は、他の生命に支えられ、犠牲の上に生かされていることを感謝する、②は、大切な生命をいただけるに値するような日々の生活を送っているかどうか反省するという意味だ。
五観の偈まで持ち出さなくても、かつて私たちは、食物を大事にし、その食物をつくってくれた人に感謝し、食物の命を無駄にするような食べ方はしなかった。
命を育て、命をいただいているということを忘れるような食生活を続けていると、いつか人間はそのしっぺ返しを、全生命から受けるのではないだろうか。