風と花とわたし 〜

日常のささやかな喜びの輪を広げて・・・RING、リング♪ ring!

宮澤賢治 雨ニモマケズ

2011-07-20 10:00:00 | 日記

 

 

  

雨ニモマケズ   宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如來
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩




   

賢治さんは、明治29年8月27日岩手県に生まれ、生涯独身。 

詩人、童話作家、農芸化学者。農村指導者、宗教思想家。

37歳で死去されました。

また、賢治さんと震災は、深い繋がりがありました。

賢治さんが生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」

が発生して岩手県に多くの災害をもたらしたそうです。

そして、誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする

「陸羽地震」が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で

大きな災害が生じました。

この地震の際にお母さんは賢治さんの入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)

を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたといいいます。

さらに、急性肺炎で死去された1933年(昭和8年)9月21日の6カ月前の

3月3日に「三陸沖地震」が発生し、大きな災害をもたらしたそうです。

誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を

憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると指摘されています。

 

賢治さんは、地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)さんへ宛てた

見舞いの礼状に、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いて

いるそうです。



そして、雨ニモマケズの最後には 

南無○○○ と書かれていますね。

賢治さんは篤い法華経の信者さんで、

亡くなる時も、法華経1000部を

印刷して知人に配布するようお父様に

遺言されたそうです。

南無は、無条件に帰依します。

という意味ですね。

菩薩様に如来様に法華経に。と書かれています。

ですから、この詩も何もなくてもどうであろうと 

自然とともにただただ、自分以外の他を利していきたい  

という仏教徒の奉仕の精神、南無の精神で

書かれたんだと思っています。 

賢治さんは清らかに奉仕の精神で生きていこうと

努力されていても、きっと、理想どおり行かず、

このようにいつも法華経を

こころの支えにしていたんだろうと感じます。

苦悩の中から、雨ニモマケズ・・・と書いていく内に、

信じるものとひとつになって、

清らかなこころ、安らかなこころへと

到達されたんでしょうね。

読むと賢治さんのこころが苦悩から安堵、

そして熱い理想への誓いへと変わっていくように感じ、

こころの奥から熱くなり、

肩の力が抜けていきます。 

空に宇宙に、賢治さんと放たれていく感じです。

 


今日も一日一善。 

周りの方々と溶け合い、譲り合い。

賢治さんのように、自分とよく対話して、

よい一日にしていきます

 



夜はチャリティコンサ―ト以来、初の合唱団の練習です。

楽しみ・・かな





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