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「スミス・マルクス・ケインズ よみがえる危機の処方箋」 ウルリケ・ヘルマン著 みすず書房

2023-09-25 22:06:41 | 日記

スミス・マルクス・ケインズ よみがえる危機の処方箋

       ウルリケ・ヘルマン著 みすず書房

第5章 科学となった社会主義 ― 『資本論』(1867)

 

   1867年 マルクスが『資本論』を発表した年である。日本では、将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上した年(大政奉還)である。

   西洋社会では産業革命の歪が富める者とそうではない者との分断により閉塞感が強まっていた。ドイツの労働者は、1850年の段階では1日14時間から16時間 働いていたが、1870年代になると12時間から14時間に減少し、1914年には10時間になり、1919年1日8時間が実現したと本書で説明している。これを単純に現在の週休2日制に置き換えると、労働者は1850年代は月160時間勤務に加え、120時間~160時間残業しており、1870年代は、80時間~120時間残業しており、1914年には、40時間残業となり、1919年には残業は無くなる。産業革命は、工場に機械を設置させ、その機械を昼夜無く最大限に稼働することで大きな利益をもたらした。その稼働は労働者が支える。しかし、労働者の労働条件は英国でもしばしば言語に絶していたと本書にも記述がある。

   産業革命は18世紀後半から19世紀前半に英国で起こったが、下層の人々の窮乏化は深刻であった。イングランド兵士の平均身長は1830年から1860年に掛けて栄養失調のため2センチ低下。兵役に耐えうる兵士が十分見つからない。プロイセンでは、1862年1,000人の志願兵の内 716人が軍務不適格。英国でもこの頃、マンチェスターの有産階級の平均寿命38歳に対し、労働階級は17歳。プロシャからイギリスに亡命していたマルクスは、このような環境下で、1870年歴史的な著書「資本論」を発表した。

  近年、フランスの経済学者トマ・ピケティが中心となる研究チームが18世紀にまで遡り、20か国に及ぶ過去3世紀の納税データを纏めた。納税データは全ての西洋諸国で富が少数一族に集中していることを示した。第1次・第2次世界大戦時と1929年以降の世界恐慌時代のみ短期的に反転していた。1980年以降、国民資産が限られた特権階級に集中している。金持ちはますます金持ちに、下層の人々は利益を得れない構図である。

 1849年頃ロンドンの人口は250万人を擁する世界最大の都市であった。同年、そのロンドンにマルクスはプロイセンから追放され亡命して来た。当時、ロンドンは世界で圧倒的に大きな都市であった。ヨーロッパではパリの人口は100万人と言われロンドンに次に人口の多い都市であった。イギリスは、産業革命により世界的覇権を確立していた。

  この環境下で、マルクスは資本主義の独占を指摘していた。このことは、事実として、近年のドイツを例に取ると、2012年全企業の1%しか占めていない大企業が全体の68%の売り上げ合計を占める。また、マルクスは、労働者の絶対的窮乏化を考えていた。アダム・スミスが国富論を完成させた頃(1776年〉、イギリスの賃金労働者は、アフリカの王侯より豊かさを享受していた(第3章 パン屋から自由貿易まで-『国富論』(1776年))にも関わらずである。富める者はますます富み、下層の人々は殆ど利益を入れていない社会である。マルクスの言う搾取は存在したのである。一方、マルクスは貨幣の果たす役割を正しく記述した。「G-W-G'」貨幣そのものが流通の目的をなしているのである。

   この章では、マルクスの誤謬として、その一として 労働者は窮乏化していない、その二として 搾取は存在するが余剰価値は存在しない、その三として 貨幣は商品ではない その三点を指摘している。

   しかし、この章ではマルクスの功績として、資本主義のダイナニズムを初めて正しく記述したこと、技術の重要な役割を理解した最初の人物であり、今なおその輝きを失っていないことを賞賛している。

   欧州の階級社会体質がマルクスに共産党宣言を発表させ、資本論という歴史的な著作を生み出した。社会の柔軟性は(いわば下剋上、いわばアメリカンドリーム)決して容易ではない。