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近松物語

2017-01-12 16:26:41 | 日記
溝口健二監督は日本映画界における巨星であると同時に、日本映画の芸術的質の高さをその作品を通して海外に知らしめた最初の映画監督といっても過言ではない。この「近松物語」は特に海外でも評価が高く、ジャン・リュック・ゴダールは「これは力と輝きの映画である」と絶賛している。全くその通りでこの映画は類い稀な力強さと崇高な輝きに満ちた映画なのだ。私個人にとっても日本映画の最高峰である。近松物語というタイトルから、私たち日本人はまず江戸時代に活躍した近松門左衛門が創作した歌舞伎や浄瑠璃の世界を思い浮かべてしまうが、溝口監督は素材を自己流に料理できる達人であり、そこでは近松門左衛門を媒介にして溝口健二ならではの独特な映像世界を体験することができる。

端的に述べると物語は江戸時代に富豪の大商人の妻とその店で働く使用人の男が不義密通を犯した話なのだが、昨今の不倫を題材にした巷に溢れている日本映画とは明らかに次元が違う。実際に鑑賞すればそれは一目瞭然だ。たとえば「八日目の蝉」や「紙の月」といった映画をこの「近松物語」と比較すると、鑑賞者は百億光年もの落差を感じてしまうだろう。そしてその落差は現代と近世という時代の違いからくるのではなく、物語の作り手の意識の問題であるように思われる。「八日目の蝉」は妻子ある男性と不倫関係になってしまう独身女性が主人公であり、「紙の月」は独身男性と不倫に陥る既婚女性が主人公である。ここで不可解なのは、不倫を行う人々が恋愛を成就させた際の優越感や勝利の快感に浸っているようにも見えてしまう点だ。つまり不倫によって家庭を壊された被害者である「八日目の蝉」の妻や「紙の月」の夫が、ヒロインとは対照的に劣位に置かれ、惨めな敗者の扱いを受けてしまっている。しかもこの妻と夫は常識に囚われすぎている観があるにせよ、いたって普通の真面目な人間であり、こういう人々を見下して描くのは物語を陳腐に貶めている。この2作品の原作小説は著名なベストセラー作家の角田光代であるが、私はこの作家の小説を読んだことがないので、映画を鑑賞した範囲でしか判断はできない。只、はっきりしているのは「近松物語」が、「八日目の蝉」や「紙の月」のレベルの作品を遥かに凌ぐ、輝く太陽が全てを焼き尽くすほどにパワフルな不朽の名作であるということだ。

「近松物語」のヒロインおさんを演じるのは香川京子である。この映画はモノクロ作品だが、香川京子さん御本人がこの「近松物語」こそ自身の最高傑作であると述懐している。その言葉に嘘は無い。まさに迫真の演技である。撮影当時は未婚の若い女優が人妻を演じたわけだが、このヒロインの悲しい境遇や運命を見事に表現している。溝口健二監督は俳優に演技指導はせずに、俳優自身が完璧な演技をするまで徹底的に待てる人だ。それが溝口監督独自の演出である。だから相当な時間を要する難産であったようだが香川京子はそれを完遂した。これは役者の演技に限らず、芸術表現の完成度とは必ずしも人生経験に左右されるものではないことを証明している。そして、むしろ想像による創造こそが人を感動させるのだということを、溝口健二と香川京子は「近松物語」で私たちに教えてくれている。一方、おさんの不倫相手となる茂兵衛を演じるのは二枚目の時代劇スター長谷川和夫であり、この配役はあくまでも映画会社側の要請であった為、溝口監督は当初難色を示したらしい。確かに時代劇の風格が濃く、職人気質の町人の人物像としては多少の違和感が生じている。それゆえ、スター俳優を使いたくなかったという溝口監督の意向はわからなくもない。しかし、私自身はこの映画を鑑賞する時には、そのような制作秘話を知らなかったので、長谷川和夫も実に良い演技をしていたと記憶している。特に家族の経済的事情で、親子ほど年長の豪商である以春の妻にされたおさんに対し、身分の低い使用人としてへりくだりながらも卑屈ではなく純粋な親切心で接している姿には侍のヒーローを演じてきたスター俳優の匂いは感じられない。

「近松物語」は他の数多くの不倫を扱った小説や映画とはかなり趣を異にしている。なぜなら主人公の男女が不倫を犯してしまうのは、不倫の濡れ衣を着せられた後だからだ。つまりおさんと茂兵衛の二人は当初、不倫をしていたわけではないのに、その疑いをかけられてしまう。その過程は、だらしない兄の借金返済をおさんが夫の以春に頼むのだがあっけなく断られ、おさんは優しい手代の茂兵衛に相談をする。茂兵衛は彼なりに知恵を尽くして内密に白紙の印判を拵えて取引先から資金調達をするのだが、これがばれてしまい潔く雇用主の以春に謝罪する。ところがここで茂兵衛に心を寄せていた女中のお玉が自分が頼んだことだと嘘の供述をする。この南田洋子が演じているお玉は実に器量の良い女性で、以前から女癖の悪い以春に家を建ててやるから妾になれと口説かれているのだが、自分は茂兵衛と結婚の約束をしていると有りもしないはったりを切って断るほどに度胸がある。その経緯がある為に、以春は茂兵衛に激怒し彼を決して許さない。納屋に閉じ込められた茂兵衛はお玉と結婚の約束どころか男女の仲など全く無い間柄なのだが、以春の怒りは収まらないであろうと悟り、職を辞し店を出る決心をする。ここで、今度はおさんがお玉から以春が再三再四部屋に忍んでくることを密かに打ち明けられる。それを聞いたおさんはそれを確かめる為にお玉の部屋に泊まることになり、ここで不倫の嫌疑をかけられる事態が発生してしまう。自分をかばってくれたお玉に対して茂兵衛が納屋から抜け出して謝りに来たのだ。お互いに相手を間違えているおさんと茂兵衛の偶然の鉢合わせである。しかもここでその場を立ち去ろうとする茂兵衛の手をおさんが握って引き止める。不運なことにこの一瞬を第三者に二人は見られてしまった。この後、二人の逃避行がはじまる。

登場人物たちが生きているのは江戸時代であるが、その社会が厳格な身分制度に支えられた階層構造になっていることや、支配階級がその社会システムを肯定する為に、日本古来から民衆にも浸透している神道、儒教、仏教の教えをご都合主義的な洗脳として利用している状況は、意外にも現代社会においても痛感させられる面が多々ある。どんな時代でも官は民を洗脳しようとする。無論、おさんのように好きでもない相手と無理矢理結婚させられるケースは今の日本では稀かもしれない。しかし全世界的にみれば強制的結婚は未だ風化していない現象である。また昨今、ネット等で結婚相手を探す人々の心にも、個人の意志よりも親孝行という道徳や身を固めて一人前になるといった社会通念を優先している気持ちが全く無いわけではないだろう。要は良い悪いは別にして社会において個人は様々な制約や圧力を受けており、それは昔も今もさして変わらないということだ。それゆえ、ヒロインおさんの悲劇は真に迫ってくる。

あてもなく逃げ続ける二人は、主人の妻とその使用人という身分の枠から律儀に外れることなく行動を共にしていたわけだが、疲れ果てて「もう死にたい」という言葉を繰り返すおさんを不憫に思い、あくまでもおさんに仕える姿勢を崩さない茂兵衛は彼女の意を汲んで心中を決意する。と同時にそれまで胸の内にずっと秘めていた、慕い続けていたおさんへの想いを打ち明ける。それを聞いたおさんは蘇生する。絶望の中に一筋の希望の光を見出す。「死にたい」気持ちが、「生きる」そして「生きたい」へと劇的に変化する。この場面で二人は湖上の小舟に乗って絶望の淵にいたわけだが、今まさに入水自殺を図ろうとするその瞬間、茂兵衛の最期の告白により大転換が起きるのだ。「生きる」「生きたい」と心情を発露するおさんの姿にもまた地下水脈のように茂兵衛への想いが我知らず眠っていたように思われる。おさん自身も気づかなかった心の深奥に光が射した瞬間である。

フランスのゴダール監督が感動した輝きと力を象徴するシーンはここであろう。このシーンにこそ輝きと力が集約されている。そしてこの輝きと力は一体化したものである。それは身分制に固く縛られた江戸期の封建社会において、民衆を圧殺する権力を無力化するほど崇高なものであり、強き者が弱き者を支配し搾取する弱肉強食を否定し、争いの無意味さと愛と慈悲の大切さを訴えかけてくる。

おさんと茂兵衛の不倫はここからはじまるのだが、この二人は決して恋愛能力に秀でているわけではない。愛し合う仲になってからも互いに容量が悪く不器用である。むしろ駆け引きや戦術を駆使する恋愛能力に優れているのは、豪商の以州や女中のお玉やおさんの遊び人の兄の方であろう。そこが「八日目の蝉」や「紙の月」とは違うところだ。それは茂兵衛のおさんへの告白が誘惑などではないことからも明白である。あえて云うなら、おさんの人物像は「八日目の蝉」における不倫被害者の妻に近く、茂兵衛の人物像は「紙の月」における不倫被害者の夫に近いのかもしれない。物語の結末ではおさんと茂兵衛は哀れにも捕まり刑場へと引きずられていくのだが、殺される運命の二人は澄み切った青空のような清々しい表情で互いの手を固く握り締めている。そこには束の間でも幸運の愛が舞い降りたことへの感謝と、刑死を受け入れることで家族に迷惑をかけてしまった自責の念から解放されたという安堵が見受けられる。

溝口監督が不倫を題材にした映画は他に「武蔵野夫人」等があり、この「近松物語」だけではないが、決して男女の情愛がメインに描かれているわけではない。むしろ、それは素材ではあっても物語の核心ではないだろう。でなければ香川京子を起用した意味がない。香川京子は「近松物語」以前に溝口監督の「山椒大夫」にも出演しており、ここでも奴隷の境遇の弟の犠牲となり静かに池に身を沈めて自殺する悲劇的な姉娘の役を見事に演じた。「山椒大夫」は時代背景が日本の古代ではあるが、そこに生きる人間の喜びや苦しみや悲しみは時空を越えて共通している。いつの世も理不尽な暴力が蔓延り、心優しき弱き人々は権力にそのささやかな人生を蹂躙されてしまう。救いがあるとするなら、それは神仏の如き無償の愛を注いでくれる存在なのだ。「近松物語」の終盤に茂兵衛の父親が駆け落ちしてきた二人を匿う姿はまさに無償の愛の具現であろう。この父親は封建制社会のお上には逆らうなという倫理観を正しいと信じている保守的な人物ではあるが、それでも息子を見殺しにはできない親としての自然な気持ちを優先する。

「近松物語」は音楽の演出にも凝っている。特に太鼓等の打楽器のみの音楽を多用しており、私が過去に鑑賞した映画ではこのような映像世界はこれがはじめてであった。またそれが実に効果的に作用している。そして世界中の映画に影響を与えた溝口監督独自の長回しのカメラワークも健在だ。そのカメラが捉えた世界はモノクロ映像でありながら静謐な深みと悠然とした美しさを宿し、特に画面の中の白が一際映えているのは日本画や書道における余白の美にも通じるものがある。

溝口健二は戦前の全体主義社会においても映画監督として仕事をしているが、体制を擁護する国策映画では興行的に失敗したものが多い。恐らく彼自身が嘘をつけない、そして真実を表現したい反骨の人なのだと思う。近松門左衛門が得意としたのは江戸時代の町人社会における義理人情の世界だが、溝口健二にはそのような日本の伝統文化をベースにしながらも、映像表現において原作を超越した領域へ踏みこむ執念が感じられる。そして溝口健二が到達したその領域とは異文化や国境など無意味な地図の無い世界である。そこには普遍的な感動が存在する。仮にこの映画を字幕を無表記にした状態で、日本語が理解できない海外の人々が鑑賞したとしても、やはり心を打たれるのではないか。なぜなら映像とは世界共通言語だからである。

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