想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

近代絵画の父セザンヌ

2018-04-30 23:05:07 | 日記
セザンヌはゴッホやゴーギャンと並びポスト印象派の代表的な画家として有名だが、ゴッホとゴーギャンの二人とは友人関係にはない。また年齢もこの二人よりも10歳ほど年上で、謂わばポスト印象派の流れに身を置いた画家達の中では先輩に当たる。そして今日紹介するセザンヌの絵は、前回のゴーギャン、前々回のゴッホと共に同じ美術館の同じ壁面に仲良く三つ並んで展示されている「りんごとナプキン」という静物画だ。美術館内のレイアウトでは、このセザンヌの「りんごとナプキン」が丁度左端にあり、通路の順番からいくとこの「りんごとナプキン」をじっくり鑑賞した後に、中央のゴッホの「ひまわり」を、そして右端のゴーギャンの「アリスカンの並木道:アルル」を鑑賞者は目に入れていくことになる。私はこの三つの作品を鑑賞する時には、非常にゆっくりと一つ一つの絵に対峙しているが、右端のゴーギャンの絵に別れを告げた後に、いつも振り返ってセザンヌの絵を再度確認していることが多い。これは恐らくこの三人の絵の中では、セザンヌがもっとも情報量の多い絵を描いていたからなのだ。ただし、それは決して絵が饒舌でお喋りだというわけではない。

ゴッホとゴーギャンの絵には宗教性が感じられるが、セザンヌの絵にはそうした要素は希薄である。むしろ宗教よりも自然科学的な印象を受ける。彼は堅牢な絵画空間の構築を目指しており、絵そのものが論理的ですらあるだろう。そして印象派の絵画の多くは、少なからず科学的要素を含んでおり、それは光に対する認識に一番良く表れている。印象派以前の絵画は室外に広がる風景もスケッチ等の習作以外は、アトリエという室内空間で描いていた。それとは逆に印象派の画家たちは室外に出て現実の風景と相対し、それをキャンバスに描いていく。この為、リアルタイムで太陽光の影響を受けざるを得ない。当然、光の動きと変化の質感を研究することになる。絵は全体的に明るくなり、色彩が豊富に、そして筆触は荒々しくなっていく。その制作行為は感性に赴くまま描いていたとしても、科学の実験精神に近いものが作用しているように思われる。セザンヌもまたそのような試行錯誤を繰り返していたのだ。ただしセザンヌの場合、それはセザンヌ固有の独特な絵画世界の構築であると同時に、生前の評価は低くとも後世に多大な影響を与えるスタイルでもあった。

セザンヌは具体的で分かり易く核心をついたような名言を残している。その代表的なものに次のような言葉がある。

「自然は円筒体と球体と円錐体という形態で構成されている」
「自然はその表に現れている姿よりもずっと奥が深い」

この二つの言葉は美術史においても非常に重要だ。そして前者の言葉の影響を強く受けた最も有名な画家は、ポスト印象派からさらに後の20世紀を生きたピカソである。ピカソはカメレオンのように制作スタイルを変化させた画家だが、このセザンヌの自然の形態の捉え方を忠実に模索した時期がキュビズムに相当する。考えてみればキュビズムはセザンヌの手法をさらに還元し、描く対象を幾何学的に構成した世界であった。円筒と球と円錐という基本形状の存在がより明確に感知できるからだ。

「自然は円筒体と球体と円錐体という形態で構成されている」

これは現代のデジタル表現におけるCGというコンピュータグラフィックスの世界にも適応できる指針である。今やCG技術の進歩は目覚しく解像度が益々巨大に精細になっていることから、現実世界と見紛うほどの精緻さを感じさせる。だが初期のCG技術を確認すればわかることだが、ゲームでも映画でも古いCG表現ほど、解像度が荒く色数も少ない為に幾何学的である。そしてCG技術が、2次元から3次元に進化した段階で、3次元表現においては円筒と球と円錐を含めた基本形状を変形させて自然物や人工物を造形していくことになる。ただここで興味深いのは、フルCGで創造された映像世界において、生身の人間をどんなに精緻にリアルに再現させる方向性を追求しても、必ず不気味の谷と呼ばれる違和感を生んでしまうことだ。それとは逆に、ディズニーの映画のようなデフォルメ表現をした、目が大きく鼻の穴がないような可愛いキャラクターの方が鑑賞する人は感情移入し易いという事実が厳然として存在する。なぜなのか。それはディズニーのようなセンスのCG技術を駆使して制作された造形物は幾何学的であり、円筒や球や円錐に近い形をしているからだ。ここでもセザンヌの偉大さに私たちは感服するしかない。要は20世紀にコンピューターが登場し、コンピューターを使用した視覚表現が行われる時代になって、セザンヌの存在感や影響力はさらに揺ぎないものになったと云える。そこで後者の言葉の重みを私たちは再認識することになる。

「自然はその表に現れている姿よりもずっと奥が深い」

これは画家が対象を描く時には、まずその形を幾何学的に還元した方がその本質に肉薄できるということではないだろうか。セザンヌはりんごを描くに際し、りんごの匂いも表現したいと述べている。そしてこの作品で描かれたりんごは文字通り匂いを感じさせる。りんごへの純粋な愛さえも感じる。描いたりんご全てに愛を込めて違う色と形と個性を与えている。セザンヌにとってりんごが好物だったかどうかは知らないが、絵からりんごへの愛情が滲み出ているのだ。それは対象の表面だけではなく、その奥の深いところにある本質に辿り着いているからである。そしてこの絵における静物は、りんごも含めて数多くの視点から描かれているという大きな特徴も述べておきたい。りんごもその数だけ視点が違う。シンプルな構図なのに、りんごが生き生きと見えるのはそのせいである。たとえば、写真の場合は被写体を捉えたカメラの視点だけで構成されている。だから写真は現実そのものを一瞬で切り取っても、私たち人間の目の視点とは明らかに違う。人間の視界はもっと曖昧で複雑だからだ。それゆえ写真は写真の世界として、私たちは優れた写真作品を鑑賞した時に感動するわけだ。そしてこの言葉の影響を最も強く受けたのはゴッホとゴーギャンだろう。セザンヌの絵に比べると、ゴッホの絵はどこか悲しく、ゴーギャンの絵には不安が感じられるのだが、セザンヌを礎にしてこの二人もまた描く対象の本質に辿り着いた偉大な画家といえるだろう。

セザンヌは裕福な銀行家の家庭で育った為に、経済的な苦労を殆どすることなく画業に専念できた人だ。この点で、ゴッホやゴーギャンよりも恵まれた環境にあった。生前は美術界で認められなかったセザンヌだが、彼は経済的に恵まれた環境に甘んじることなく、粉骨砕身して大きな仕事を成し遂げた。それは端倪すべからざる難事業の末に打ちたてた金字塔といっても過言ではない。近代絵画の父のみならず、現代CGの父と称したいくらいである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゴーギャンにとってのアリスカン | トップ | コメダ珈琲と名古屋の合理的精神 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事