ベトナム戦争を題材にした数多くの映画の中でも、この「フルメタル・ジャケット」は特異な作品である。監督は「2001年宇宙の旅」や「時計仕掛けのオレンジ」を世に出した鬼才スタンリー・キューブリック。
キューブリックその人が非常に個性が強く異能の映画人としても有名だが、それはベトナム戦争の映画の大半が東南アジアで撮影しているにも関わらず、この「フルメタル・ジャケット」がイギリスで熱帯のセットを利用し撮影されたことでもわかる。多分、キューブリックの意図はベトナム戦争は単なるモチーフで、主題はモチーフの奥にあるのだと想像できる。そうした仕掛けがやはりキューブリックならではだ。たとえば「地獄の黙示録」、「ディア・ハンター」、「プラトーン」は戦場の撮影現場が東南アジアだし、この3つの名作をCG技術のない時代にセットでやったとしたら失敗しただろう。またこの3作はベトナム戦争を否定的に描いており戦場の英雄などは存在しない。「プラトーン」の場合には監督オリバー・ストーンがベトナム帰還兵であり、監督自身の実体験が色濃く反映されている。「ディア・ハンター」はどちらかといえば、小市民だったアメリカ兵が戦争に巻き込まれた犠牲者として描かれている側面が強い。「地獄の黙示録」は戦争の混沌と狂気を執拗に舐めるように大迫力で描いている。この3作を視聴した後に戦争を肯定的に捉えられる感想を抱く人はまずいないだろう。
では「フルメタル・ジャケット」はどうなのか?この映画も同様に戦争を否定的に描いている。ゆえに戦場の英雄は不在。しかし他の3作よりもずっと奥が深く異質だ。この映画は前半と後半で明確に時間と空間が大きく変化する。前半は若者が兵士になる為の過酷な訓練の過程であり、後半は実際の戦場での兵士の行動だ。まず前半に訓練生を徹底的にしごく軍曹が登場。単なる鬼軍曹ではなく人間を支配する組織における巧緻な統治能力をも有する。情け容赦なく下劣な言葉で罵り体罰も敢行し、パワーハラスメントのオンパレードを繰り広げる。ただし罵倒する言葉が殆ど下ネタのギャグで、これがなかったら映画を鑑賞する者には前半の映像は耐え難いものになっただろう。この前半でキューブリックの意図が見えてくる。彼は相当に深く掘り下げて戦争を考察し、戦争を動かす組織、その組織に適応した人間に疑念の目を向けている。こうした視点は前述の3作にも感じられなくはないが、映画の主人公には希薄である。むしろ主人公は良心をもった語り部に近い。ここが重要である。戦争映画の主人公に善意や良心や正気が存在するからこそ、戦争が悲劇や惨禍に溢れた一大叙事詩と化してしまうからだ。
ところが「フルメタル・ジャケット」では全ての登場人物が、戦争という怪物によって精神を病む。そして前半の戦場へ赴く前の訓練の段階、若者の正気が狂気へと変質する様相を丹念に描いたことで、キューブリックはそれ迄の戦争映画にはなかった新しいメッセージを発している。それは、戦争を無くすには戦争を起こすメカニズムから疑えということである。単なる反戦では戦争は無くならない。それでは既にどこかで起きてしまった戦争を終結させることはできても、戦争そのものを無にすることはできないからだ。そもそも戦争を発生させることなく、完全な無にするには、きっと私たち人類の文明そのものを根底から改変させる必要があるのだ。そこがキューブリックの卓見であろう。
この映画には軍隊内部における陰湿な虐めも描写されているが、こういう嫌悪感を伴った卑しい現状は、意外と戦争とは殆ど無縁の私たちの身近な社会にもあるものだ。学校や職場でも頻度こそ違え、そこには多くの不条理が存在する。日本社会だと村八分という概念が非常にわかりやすい。要は集団内部での異端視された個人の排撃や削除である。恐らく戦争の始まりは日常生活の人々の心の中で、ひっそりと戦争のような不条理が生まれてしまうことだ。それは敵をつくり敵を滅ぼす戦争を容認し肯定する心であろう。そんな心をもった為政者は暴力による問題解決を躊躇しないし、そうした政策を支持する人民も心はその為政者と同じである。「フルメタル・ジャケット」に登場した若者たちも海兵隊に志願した段階で心の中に戦争が棲んでしまったともいえる。このようなメッセージは、「ディア・ハンター」、「地獄の黙示録」、「プラトーン」の映像からは感じられない。
映画の後半、つまり戦場の光景には衝撃的な切迫したシーンが多い。ヘリから眼下のベトナム農民を淡々と無差別に射撃し殺戮する冷酷な兵士の姿。小隊長の小石が落ちるが如くあっけなくも悲痛な戦死による部隊の焦燥と混乱。狙った獲物を必殺の技術で仕留める強靭で精巧な敵スナイパーからの攻撃。真綿で首を絞められるように敵に追い詰められ、戦場の恐怖が頂点に達した時に露わになったスナイパーの正体に驚愕する兵士たち。
映画のラストで、闇夜の中を歩行する兵士たちは、ディズニーのミッキーマウスの歌を朴訥と歌う。ミッキーマウスはアメリカ文化を良心的に象徴するキャラクターだ。正義感が強く、優しく陽気で礼儀正しいがルーズな面もある。そしてミッキーマウスを生み出したディズニーが創造する物語のコンセプトは、「自然との共生」、「異文化間の相互理解」、「信念を貫くことの大切さ」である。この最後の演出で、キューブリックが戦争を起こす人類に絶望しながらも、決して希望を捨ててはいないことがわかる。この映画を鑑賞すると私には夢物語ではなく、いつか遠い未来に人類が戦争を完全に放棄する日が来ることを、キューブリックが確信しているようにさえ思えるのだ。
キューブリックその人が非常に個性が強く異能の映画人としても有名だが、それはベトナム戦争の映画の大半が東南アジアで撮影しているにも関わらず、この「フルメタル・ジャケット」がイギリスで熱帯のセットを利用し撮影されたことでもわかる。多分、キューブリックの意図はベトナム戦争は単なるモチーフで、主題はモチーフの奥にあるのだと想像できる。そうした仕掛けがやはりキューブリックならではだ。たとえば「地獄の黙示録」、「ディア・ハンター」、「プラトーン」は戦場の撮影現場が東南アジアだし、この3つの名作をCG技術のない時代にセットでやったとしたら失敗しただろう。またこの3作はベトナム戦争を否定的に描いており戦場の英雄などは存在しない。「プラトーン」の場合には監督オリバー・ストーンがベトナム帰還兵であり、監督自身の実体験が色濃く反映されている。「ディア・ハンター」はどちらかといえば、小市民だったアメリカ兵が戦争に巻き込まれた犠牲者として描かれている側面が強い。「地獄の黙示録」は戦争の混沌と狂気を執拗に舐めるように大迫力で描いている。この3作を視聴した後に戦争を肯定的に捉えられる感想を抱く人はまずいないだろう。
では「フルメタル・ジャケット」はどうなのか?この映画も同様に戦争を否定的に描いている。ゆえに戦場の英雄は不在。しかし他の3作よりもずっと奥が深く異質だ。この映画は前半と後半で明確に時間と空間が大きく変化する。前半は若者が兵士になる為の過酷な訓練の過程であり、後半は実際の戦場での兵士の行動だ。まず前半に訓練生を徹底的にしごく軍曹が登場。単なる鬼軍曹ではなく人間を支配する組織における巧緻な統治能力をも有する。情け容赦なく下劣な言葉で罵り体罰も敢行し、パワーハラスメントのオンパレードを繰り広げる。ただし罵倒する言葉が殆ど下ネタのギャグで、これがなかったら映画を鑑賞する者には前半の映像は耐え難いものになっただろう。この前半でキューブリックの意図が見えてくる。彼は相当に深く掘り下げて戦争を考察し、戦争を動かす組織、その組織に適応した人間に疑念の目を向けている。こうした視点は前述の3作にも感じられなくはないが、映画の主人公には希薄である。むしろ主人公は良心をもった語り部に近い。ここが重要である。戦争映画の主人公に善意や良心や正気が存在するからこそ、戦争が悲劇や惨禍に溢れた一大叙事詩と化してしまうからだ。
ところが「フルメタル・ジャケット」では全ての登場人物が、戦争という怪物によって精神を病む。そして前半の戦場へ赴く前の訓練の段階、若者の正気が狂気へと変質する様相を丹念に描いたことで、キューブリックはそれ迄の戦争映画にはなかった新しいメッセージを発している。それは、戦争を無くすには戦争を起こすメカニズムから疑えということである。単なる反戦では戦争は無くならない。それでは既にどこかで起きてしまった戦争を終結させることはできても、戦争そのものを無にすることはできないからだ。そもそも戦争を発生させることなく、完全な無にするには、きっと私たち人類の文明そのものを根底から改変させる必要があるのだ。そこがキューブリックの卓見であろう。
この映画には軍隊内部における陰湿な虐めも描写されているが、こういう嫌悪感を伴った卑しい現状は、意外と戦争とは殆ど無縁の私たちの身近な社会にもあるものだ。学校や職場でも頻度こそ違え、そこには多くの不条理が存在する。日本社会だと村八分という概念が非常にわかりやすい。要は集団内部での異端視された個人の排撃や削除である。恐らく戦争の始まりは日常生活の人々の心の中で、ひっそりと戦争のような不条理が生まれてしまうことだ。それは敵をつくり敵を滅ぼす戦争を容認し肯定する心であろう。そんな心をもった為政者は暴力による問題解決を躊躇しないし、そうした政策を支持する人民も心はその為政者と同じである。「フルメタル・ジャケット」に登場した若者たちも海兵隊に志願した段階で心の中に戦争が棲んでしまったともいえる。このようなメッセージは、「ディア・ハンター」、「地獄の黙示録」、「プラトーン」の映像からは感じられない。
映画の後半、つまり戦場の光景には衝撃的な切迫したシーンが多い。ヘリから眼下のベトナム農民を淡々と無差別に射撃し殺戮する冷酷な兵士の姿。小隊長の小石が落ちるが如くあっけなくも悲痛な戦死による部隊の焦燥と混乱。狙った獲物を必殺の技術で仕留める強靭で精巧な敵スナイパーからの攻撃。真綿で首を絞められるように敵に追い詰められ、戦場の恐怖が頂点に達した時に露わになったスナイパーの正体に驚愕する兵士たち。
映画のラストで、闇夜の中を歩行する兵士たちは、ディズニーのミッキーマウスの歌を朴訥と歌う。ミッキーマウスはアメリカ文化を良心的に象徴するキャラクターだ。正義感が強く、優しく陽気で礼儀正しいがルーズな面もある。そしてミッキーマウスを生み出したディズニーが創造する物語のコンセプトは、「自然との共生」、「異文化間の相互理解」、「信念を貫くことの大切さ」である。この最後の演出で、キューブリックが戦争を起こす人類に絶望しながらも、決して希望を捨ててはいないことがわかる。この映画を鑑賞すると私には夢物語ではなく、いつか遠い未来に人類が戦争を完全に放棄する日が来ることを、キューブリックが確信しているようにさえ思えるのだ。
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