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民主主義の炎

2020-12-28 14:20:37 | 日記
日本は民主主義の法治国家である。それゆえそこで暮らす私たちの基本的人権は原則として法により守られている。これはとても有難いことだ。しかしこれとて、法の解釈次第で悪用される危険性が皆無ではない。今、新型コロナウィルスの猛威で、多くの国々の医療現場は崩壊の危機に直面し、基本的人権も脅かされつつある。命の選別などはその最たるものであろう。この凄まじい疫病は天災だが、戦争のような人災においても、基本的人権はいとも簡単に吹っ飛ばされてしまう。

この未曾有の天災は情け容赦ないものではあるにせよ、大災厄に直面したことで、人類は目覚しく発展を遂げてきたこれまでの文明の進路を、いよいよ軌道修正する時機に来ているのではないか。そしてこの重大で切実な問題解決には、やはり選択肢の多い民主的な政府によって、その解決に向けての突破口が開かれるように思われる。なぜなら非民主的な強権的政府は、政策の意思決定が速く緊急事態に対処する能力も一見高そうだが、同時に多大な犠牲を伴う方向へと進む危険性も高いからだ。また日本において飲食を含めた数多くの業界が壊滅的な打撃を被っている中、敢えて飲食店の空間を閉じて食を外へ届けるサービスを始めるなどして、ピンチをチャンスに変えるような創意工夫も生まれつつある。しかしこうした前向きな民間の努力を過大評価して、政府が国民の自助努力に安易に期待するのは馬鹿げている。やはり政府はこの巨大な危機に際し、公助としての大規模な財政出動を国民に対し実施すべきであろう。それができないようでは、民の声に耳を傾ける民主的政府とはいえないからだ。

そしてここにきて次期米国大統領バイデン氏の動きが、就任前ではあってもこのコロナ禍の中、俄かに活発化してきたようだ。自身のコロナワクチン公開接種をTV中継して安全性を示したり、大規模な救済措置としての財政出動を発表してもいる。日本円にすると93兆円という破格な数字である。しかもこの93兆円は頭金でしかなく、コロナを克服するまでは今後も継続して支援を続けていく。多分バイデン氏の国民目線のこうした姿勢は正式な大統領就任後も変わらないであろう。歴代最高齢の大統領であることから、大統領職を2期務める可能性が殆ど無い為、捨て石となる覚悟をもって事に当たろうとしているようだ。新しい米国政府は、そのような長老の気概を周囲が尊重してサポートしつつ、様々なアイディアも提供しながら大統領を支えて、独断専横ではない政権運営をしていくように思われる。

このように官が民に対して共感力や想像力を持ち得る為には、やはり政府は民主的でなければほぼ不可能なのだ。さらには民主主義それ自体も、正常に機能させるには熟慮に熟慮を重ねるばかりか、地道で暫し難渋な道程を歩むことをも要する。なぜならヒトラーのような独裁者も民主的な選挙で選ばれて登場してきたのだから。そもそも独裁者を一方的に支持する民衆は騙されやすく、民主主義の実直な手続きを面倒臭がる人々だ。独裁者は英雄ぶった派手な演出をして扇情的にアビールする姿が特徴的だが、貧富の差が極端な格差社会においてさえ、こうした英雄を装った指導者の安直で感情的な主義主張が事態を好転させると妄信する人々は意外に多い。これはもう自ら進んで騙されているとしか思えないが、劇場型政治は古今東西の歴史において、残念ながら衆愚に好まれるものであった。

恐らく民主主義とは厳寒の地で希少な暖をとれる、灰の中で燻り続けながらも、確かな熱を放つ弱々しい炎のようなものなのかもしれない。特に民主主義を所詮は多数決だとする見方は、実に嘆かわしい偏見であり、本来ならば少数意見にも耳を傾けるところにこそ民主主義の価値が存在する。しかもさらにそこからなお注意を要するとすれば、選択肢が多いゆえに慎重な判断が大切なのだ。つまり選択をする場合に、進むべき道が本当に自分にとって誠実で正直な方向なのかどうかを真面目に自問自答するべきである。先に述べたヒトラーは第1次世界大戦後、最初は極論を主張する少数勢力であった。ところが敗戦で誇りを失った国民の大きな不安や不満を吸収しながら、ユダヤ人を諸悪の根源に仕立て上げ、敵外心を煽って急激に膨張してゆく。つまり民主主義社会に生きているからといって安心はできない。油断していればいつのまにか民主主義が全体主義に変貌しているという可能性は有り得る。

ここで私的な話に場を譲りたい。1980年代、大学3回生の時のことだ。同じゼミの4回生に米国から来た留学生が1人いた。彼は私にとって恩人ともいえる素晴らしい先輩である。とても身長が高く、礼儀正しい静かな人で、興味深いのはハリウッドの娯楽映画やTVのCMに登場するような陽気で爽快な男性的イメージとは程遠い印象の持ち主であったことだ。そんな彼がある日ある時、こんな質問を丁寧な日本語で投げかけてこられた。
「源氏物語は読みましたか?」
私は苦笑いで、読んでいないことを正直に白状したが、彼は驚くと同時に、あんな素晴らしい文学作品とは滅多に出会えないから是非とも読みなさいと熱心に薦めてきた。目を丸くした彼の清々しい笑顔は、私がいずれ必ず源氏物語を読むであろうことを確信していたように思う。実はこれがきっかけになって、私は源氏物語を手始めとして日本の古典文学に親しむようになった。彼は異国の人だが、日本の古典に目を開かせてくれた恩人である。この個人的な出来事で感じたのは、米国には日本よりも純粋な民主主義を体現している社会的土壌がより多く存在するということである。そうでなければまだインターネットも無かった時代のアメリカ大陸に住む若者が、アジアの東の果ての小さな島国の、それも千年以上も昔に紫式部という女性によって書かれた物語に興味や関心を示すわけがない。つまり選択肢の幅がとてつもなく広いのだ。

そして私の両親は、周囲から猛反対されたあげく大恋愛結婚しているのだが、1950年代の日本の結婚事情はお見合い結婚の方が主流であった。形式上は民主主義社会になってはいても、それこそ日本古来からの伝統を重んじる風潮は根強く、自由意志よりも自己規制を優先する人々が多かったのだ。尤も私の記憶の中の両親はお世辞にも夫婦仲が良かったとは言えないし、お見合い結婚をして末永く仲睦まじい夫婦も世の中には沢山いる。しかしながら民主主義の風が1950年代の日本社会にも弱々しく吹いていたことは事実である。だからこそ、私はこの世に存在し、ここでこのブログの文章を書けている。

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