想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

見出された時

2016-10-06 16:12:01 | 日記
マルセル・プルーストは20世紀文学における巨人である。そして自伝的な大長編小説「失われた時を求めて」は後世に多大な影響を与えた文学史上の金字塔だとも云える。今回紹介する「見出された時」という映画はこの長い長い小説の最終篇を映像化した作品であり、1999年にチリ出身のラウル・ルイス監督の手により完成された。

原作が小説の場合、物語を読んでから映画を鑑賞すると、がっかりさせられることが多い。かくいう私も数多くの映画でこれを経験した口である。映画を存分に味わいたいならば、どんな文芸大作でも映画を鑑賞した後に、その原作となった小説を読んだほうが苦い思いをしなくて済む。だが、この「見出された時」は唯一の例外であった。

私が「失われた時を求めて」を読んだのは30代前半の頃である。元々フランス文学が好きな方ではなく、ヨーロッパの小説ならドイツやイギリスの方が口当たりが良かった為、2年近くかかってのろのろ運転で読破したわけだが、途中で投げ出さずに最後まで付き合えたのは「スワンの恋」という映画を事前に鑑賞していたからだ。これは「失われた時を求めて」の第一篇「スワン家の方へ」を描いたもので、真に素晴らしい内容であった。監督はカンヌ映画祭で最高賞を射止めた「ブリキの太鼓」で有名なドイツ人のフォルカー・シュレンドルフ。この映画がきっかけで小説「失われた時を求めて」の世界を曲がりなりにも最初の一歩、体験することができたのだ。これは私にとって幸福な流れであった。物語の舞台である第一次世界大戦前後のヨーロッパの時代背景や、登場人物の殆どが貴族や新興ブルジョア階級といった富裕層の人々であり、その生活の舞台である上流社会の美と退廃や、その他多くの情報量をも映像で入手することが可能となり、原作を読む程良い準備運動ができたわけだ。

小説「失われた時を求めて」の主要なテーマは無意志的記憶と恋愛の不毛性である。特に私個人は、無意志的記憶という概念をこの小説を読むまでは知らなかった。勿論、実人生において無意志的記憶を感じることは当然あったのだが、概念としては知る由もなかった。ではここで、その無意志的記憶について少し説明したい。私の実体験で語らせていただく。私が20代の頃、東京で仕事をしていた通勤途中、ある雨の日に感じた街路樹の匂いに、突然小学校の運動場に植えられた木の下で小学生の自分が雨宿りをしていた瞬間が蘇ってきた。これは私の意志とは無関係に感覚的に、過去のある瞬間がすっと空かどこかから降りてきたような感じなのだ。これが無意志的記憶である。誰しも大なり小なりこうした体験はあるはずだ。

映画「スワンの恋」においては、この大長編の第一篇であり、恋愛の不毛性が主題となり無意志的記憶については余り触れられてはいない。実際、小説「失われた時を求めて」の全貌は主人公の回想録という形をとっているのだが、映画「スワンの恋」には語り手である主人公は不在である。それとは対照的に「見い出された時」という最終篇の映画化では、無意志的記憶を主題に据えている。これは予想通りだったが、驚かされたのはルイス監督の離れ業であった。あくまでも映像でしかできないような表現でこれをやってのけたからだ。しかし考えてみるとこれはいたって誠実な表現手法であろう。なぜなら無意志的記憶は、作者と読者が一対一で接する小説だからこそリアリティが感じられるのだから。小説では作者の紡ぐ言葉を頼りにして読者が心で映像を生み出す。ところが映画はそうではない。鑑賞者は登場人物に感情移入することはあっても、他人が他人の視点でつくった映像を一方的に受け入れているだけだ。だから小説を読んでから映画を鑑賞すると、そのイメージの落差にがっかりさせられることが多い。これは冒頭でも述べた通り、まずは原作を読まずに映画を見ろである。映画を鑑賞する前の先入観は邪魔にもなるが、小説を読む前の先入観はいかようにも読者が料理可能なのだろう。

原作では主人公に名前はなく広大な物語世界の話者になっている。ところが映画の「見い出された時」では、マルセル・プルーストのそっくりさんの無名俳優を出演させ、あろうことか彼は登場人物達からマルセルと呼ばれてしまう。まさに大胆不敵。しかもそれだけではなく、マルセルの少年期、青年期、壮年期といったそれぞれの時期で別人の俳優を用意し、おのおのが余り似ていないのも小技が効いていて面白い。定石ならば、少年期はともかく青年期を演じるマルセル・プルーストのそっくりさんを亡くなる迄使ってしまうところだが、そうしないことで原作では主人公に名前がないという神秘性に接近しているのだ。特にラストの美しい砂浜の場面では、病による死が近いマルセルが海へ歩みを進めるところで、少年時代のマルセルや青年時代のマルセルが時を超えて同じ場所に存在している。まさにこれは壮年期のマルセルが遭遇する無意志的記憶の映像表現だと解釈できようが、こうした小説と映像でのアプローチの違いがこの映画では見事に成功している。

そしてこれは最終篇の映像化であり、全篇の様々なエピソードが万華鏡のように散りばめられているのだ。そう、まさに映像の万華鏡である。そのエピソードの中には、私が個人的に描いてほしかった部分も確りと存在しており、ここはルイス監督に深く感謝したい。特に最も衝撃的なエピソードは、登場人物の中でも一際個性が強く怪しいシャルリュス男爵が娼館の一室で男娼に鞭を打たせて苦痛に悶えながらマゾヒズムに浸っているシーンである。しかもこの光景を主人公が覗き見ている。一見すると非情にグロテスクな場面なのだが、私はここに腐敗したヨーロッパ白人種の富裕層が持つ捻じれた良心を発見した。なぜならその娼館で働く男娼の多くは貧困層の若者で、しかも植民地からフランスに移民した有色人種の人々であり、さらに戦争が始まればフランスの為に戦地の最前線で兵役に就かねばならない。事実、彼ら男娼が娼館の控室で仲間と交わす会話は故郷の貧しい家族の有様か戦場の悲惨な現実である。退廃的な行為が終わった後に男爵は男娼に金を支払うわけだが、その金を何に使うのかを訊ねる。そこで男娼はこう答える。家族に仕送りをすると。そしてそれを聞いた男爵はぞっとする。なぜ、ぞっとするのか?理由の一つはフランスを含めた帝国主義国家群が戦争産業で領土を奪い合い植民地から収奪と搾取を繰り返している以上、そのような暴走や暴虐から生まれた富の享受者である支配階級の自分自身が後ろめたいからだ。そしてもう一つの理由は男娼と身分の差こそ違え男爵にも家族愛が存在するからである。シャルリュス男爵は老いた独身の同性愛者であり、一族の中では奇怪な人物像のレッテルを張られている。しかし饒舌で辛辣ではあっても、彼はスノビズムに陥ることなく隣人への思い遣りや配慮の心遣いを忘れない。物語の主人公はこの身内の男爵から愛情を含んだ多くの助言を受けているのだが、その一端は映画の中でも確認することができる。当のシャルリュス男爵を演じているのは名優ジョン・マルコヴィッチ。

この映画は小説「失われた時を求めて」をこれから読もうと考えている人には大変お薦めと云える。特に、近現代のヨーロッパ史の知識が乏しい場合には、格好の水先案内人になってくれることは必定である。実際、興味があったにも関わらず、時代背景等に違和感があり、素晴らしい物語に出会う機会を逃してしまうのは、誠に残念な話ではないか。恐らくルイス監督もそれを考慮して制作したのではないだろうか。何よりも監督の「失われた時を求めて」への愛が詰まっており、この固有で独特な物語世界を是非体験してほしいという願いが感じられる。

この長い長い小説のラストでは、語り手である主人公が小説を書く決意をするところで終わる。だが、そのラストに読者が長い長い読書時間を費やして辿り着いた時、主人公によって書かれるべきその長大な小説を読者はやっと読み終えたところなのだ。その読後感は隔絶している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする