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世界遺産「富岡製糸場」 ~愛しの工女たち

2014年07月06日 | アート・文化

今日は群馬県の誇る世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の中でも、いよいよメインとなる「富岡製糸場」を紹介します!!
「富岡製糸場」はもはや言うまでもなく、日本の急速な近代化政策、殖産興業(しょくさんこうぎょう)を推進する、明治政府の建造した最初の官営模範工場です。
今回、「富岡製糸場」が世界遺産に晴れて選ばれた理由としては、まず、「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、「アジアで最初の産業革命」であったこと! そこに日本と西欧との素晴らしい技術の交流、そして革新が生まれました。
それによって、当時、ヨーロッパでもシルクは特権階級の人々だけが身に付けられるステイタスであったものが、多くの庶民の人々もシルク製のストッキングをはけるようになれ、世界の女性を幸せにできた? 
また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の建造物が、現在もそのままの形で残っている・・・
これらのことが、世界遺産に登録決定された理由にあげられると思います。
私も子供の頃にやった「上毛カルタ」では、「に」の札で「日本で最初の富岡製糸~♪」と読まれ、絵札は、生糸を持った可愛い工女さんたちの絵だったのを思いだします。
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私は、2年前の6月に「富岡製糸場」を訪れました。「富岡製糸場」は富岡市街地の中でも、昭和の面影残る町並みの奥にありました。
記事の写真はすべて2年前に撮影したものなので、現在の様子とは多少の変化があるかもしれません。どうぞご了承ください。
m(__)m
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これが「富岡製糸場」の顔となっている1872年(明治5年)に建設された「東繭倉庫」(ひがしまゆそうこ)です! 木骨とレンガで造られた、まさに和と洋の融合した美しい建物です。
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こちらは創業当初から、明治政府によりフランスより招かれた器械製糸技術の指導者、ポール・ブリュナ氏の家族が暮らした「ブリュナ邸」
さて、明治政府は日本で最初の官営工場を操業するにあたり、そこで働く工女さんの大募集を開始しました。繭から生糸を導きだす繊細な作業は、指の細くしなやかな少女たちの手が必要でした。
ところが・・・ 「フランス人の飲むワインは工女の血だ!」というちまたの噂も広まり、最初はなかなか人材を確保できませんでした。
長い間、鎖国の続いていた当時の日本人にとって、西欧人はまだ鬼のように怖い存在でもありました。
この噂を払拭しようと、初代工場長の尾高惇忠氏(おだか じゅんちゅう)は自らの娘、14歳の勇(ゆう)を工女1号として富岡製糸場に入場させ、各地の有力者へ説得に走ったそうです。
その後は、惇忠氏の努力の甲斐あって、士族の娘たちはじめ「お国のために!」と決意した10代の少女たちが、夢と希望を抱いて全国から集まってきました。
彼女たちは「富岡製糸場」というモデル工場で製糸技術を修得し、やがて、それぞれの故郷に帰った後には、各地に建設される器械製糸工場でリーダーとして周りを指導してゆくことになります。
国の将来が自分たちの双肩にかかっているという使命感を持って、彼女たちは、壮大な建造物の中で誇りをもって働きました。

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「富岡製糸場」 の心臓部、「繰糸場」(そうしじょう) 
ここに入って最初に感じたのが、室内が明るい!ということでした。
創業当時は電灯がなかったため、窓はできるだけ大きくして工場内に自然光を採光しているそうです。また、繭から糸を取るにはお湯を多く使用するので給湯システムとともに、工場内に蒸気がこもらないように、屋根には換気の工夫があるのも特徴です。
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こちらは当時の「繰糸場」の様子です。トラス構造の天井や大きな窓など、現在の建物も、当時とほとんど変わってないことが見受けられます。
工女たちの勤務時間は朝7時~夕方4時半までで、日が暮れると工場も暗くなって作業ができなかったようです。
「富岡製糸場」は決してブラック企業ではなく、実働時間は7時間45分、休日は年間で76日、食費、寮費は工場持ち、診療所完備という、当時としてはかなり待遇のいい労働条件でした。後の世の「女工哀史」や「ああ野麦峠」に見られるような、悲惨、過酷な労働はなかったと言われます。
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工女たちに、器械による糸取り技術を教えたフランス人女性教師の住居「女工館」 

「富岡製糸場」での工女たちの毎日は、いろんな面で充実してました。
しかし、どうしても西欧的な労働環境に慣れない者、競争社会についてゆけない者や、人間関係に悩む者。恐らく彼女たちは、現代に生きる私たち以上の多くのストレスを抱えながら、精一杯の毎日を生きていたんじゃないかと思います。
また場内は、現代と比べると衛生上よくない面もあり、機械の騒音や立ち仕事に疲れたり、栄養不足もあったりで、
残念ながら、胃腸病や脚気等の病気で毎年、何人かが亡くなっていったそうです。1880年(明治13年)にはチフスという伝染病で、最多の15人が亡くなった記録も残っています。またある者は精神錯乱を起こして井戸に飛び込み助けられ、ある者は着物のたもとに石を入れて入水自殺を図ったこともあったそうです。
官営時代の21年間だけでも、56名の若い乙女たちの命が失われました。

現在、富岡製糸場付近にある龍光寺の墓地には、30基ほどの工女たちのお墓が残っています。国の繁栄のために役立とうと遠い富岡の地にやってきた彼女たちでしたが、悲しくも異郷の地に散り、故郷には帰れずにそこに眠る彼女たちのことを思うと、なんとも切なくなります。
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そんな工女たちのひとつの心の支えとなっていたのが、製糸場の裏手に位置する甘楽第一教会(かんらだいいち きょうかい)でした。
「富岡製糸場」のある西上州には、同志社の新島襄師の影響を受けた海老名弾正師(えびな だんじょう)はじめとしたキリスト者たちによって、明治初期から各地に「組合教会」系のキリスト教会が設立されました。
甘楽第一教会は1884年(明治17年)に創立され、この教会に多くの工女がかよっていたとも言われています。イエス・キリストの教えが工女たちの新しい希望となって、ここで洗礼を受けた工女もありました!
聖書の中に次のようなイエス・キリストの言葉があります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイによる福音書11章28節)


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