小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

田中正造 その2・・・Love is Action.聖書を実践した男

2020年08月02日 | 旅行記

優しい案内係のおば様と百日紅の花に見送られ田中正造旧宅を後にした私は、ゆかりの地巡りの次なる目的地、正造翁ゆかりの博物館「佐野市郷土博物館」に向かいました。郷土博物館は旧宅から佐野市街地方面に向かって県道を約4㎞、車ならすぐの距離でした。

佐野市郷土博物館・田中正造展示室

佐野市郷土博物館の田中正造展示室には直訴状、遺品などの関係資料約100点が常設展示されており、かなり見応えのある展示室になってました。展示空間中央に設けられた被害流域のパネル上に、蓑(みの)に菅笠スタイルの正造翁が気迫にとんだ眼でかなたを見据え、凛として佇んでます。

直訴状(複製)

こちらの展示室にも明治天皇への直訴状(複製)が展示されてました。本物は京都にあるようです。

夫人宛・直訴後の手紙

正造翁が直訴の一週間後、田中カツ夫人に宛てた手紙。「正造は直訴当時の決死の心がまえとその後の状況を伝え、体の弱い夫人をいたわり、あたたかく励ましています。」と説明書きがあります。

群馬県の「上毛かるた」に「天下の義人 茂左衛門」というのがあります。江戸時代に重い年貢と飢えに苦しむ民を救うために、幕府に直訴した者は死罪でした。杉木茂左衛門は妻子とともに磔の刑に処されています。明治の世に天皇陛下への直訴を企てた田中正造たちにしても、状況次第では切腹しなければならないまさに命を賭けた決断でした。

正造翁の遺品の数々

中央の白装束「三ッ紋付一重(みっもんつきひとえ)」は代議士時代に着用したもの。その左の「繻子袴(しゅすばかま)」は直訴当時から晩年にかけて着用した。何れも県重要文化財に指定されてます。

臨終の枕辺に残された遺品

「苦難にみちた正造の生涯が終わったとき、まくら元には、すげ笠と合切袋(がっさいぶくろ)が残されました。袋には、田中家伝来の大矢立1本、河川調査の原稿と新約全書各1冊、鼻がみ数枚、取ったままの川海苔、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本(がっぽん)、日記3冊が納められてました。小石の収集は、正造の数すくない趣味のひとつでした。」(展示室説明文より)

これが田中正造翁の全財産と言えるものでした。「新約全書」(写真右下の革表紙のもの)とは、現代の「新約聖書」。正造翁の愛弟子・島田宗三によると「この新約全書を田中に贈ったのは内村(鑑三)だったと思う。」と語られてます。

明治37年(1904)7月からの晩年の正造翁は、栃木県最南端に位置し明治政府による遊水地化計画に該当した悲運の村、谷中村(やなかむら)に移住して生活しました。強制的に立ち退きを命じられ、最後までその地で暮らす人々の人権を守るために、そして村を救うために闘争する毎日でした。泥沼のようなその苦境の中に、正造翁の精神的な支えになったのは聖書だったと言われてます。聖書をひたすら読み、日記には「聖書の実行のみ」という言葉が目立って書かれたそうです。正造翁の評伝を書いたことで知られる林竹二の著書「田中正造ーその生と戦いの根本義」の中に、「あれほど徹底した形で聖書を実行した人のいたことは、キリスト教会の中では全く知られていません。」と書かれているほどです。

「マタイ伝」(新約全書の左、「馬太伝」とあるもの)とは新約聖書の最初にある「マタイによる福音書」のことを指しています。「新約全書」を入手するまではこの「マタイ伝」を読んでいました。彼が初めて聖書に触れたのは、入獄中の明治35年(1902)7月であったようです。その頃は既に「神が天地と人間を創造された。したがって、あらゆる人間は神の下に平等であり、尊厳を有する。また、自然はまったき調和を有する」といった思想を自らの中に形成してました。

小石の一つに渡良瀬川特有の桜石がありました。黒地に白っぽい桜の花模様が見られます。自然、環境を愛した正造翁に取って、小石集めが休息のひと時になったことでしょう。田中正造・日記絶筆

大正2年(1913)9月4日、田中正造翁は渡良瀬川畔の庭山清四郎家で世を去りました。臨終遺品の日記絶筆には「已に業ニ(すでにすでに)其身(そのみ)悪魔の行為ありて悪魔を退けんハ難(かた)シ。茲(ここ)に於てざんげ洗礼を要す。ざんげ洗礼は已往(きおう)の悪事ヲ洗浄するものなれバなり。何とて我を」と書き残してます。既に自らの心に向かい働きかけている悪魔を退けるのは、(自分との戦いでもあり)非常に困難なもの。キリスト教の懺悔(ざんげ)、洗礼は既往の悪事を洗浄できるもの・・・というようなことを言われているものと思われます。正造翁はキリスト教の洗礼を受けられずに世を去ったため、一般的にはキリスト者としては語られてません。しかしキリスト者(クリスチャン)とは洗礼を受けていなくとも、主イエス・キリストを自分の救い主として信じて受け入れれば、その時点から立派なクリスチャンなのです。

そして最後の「何とて我を」という謎の言葉・・・これはマタイ伝の27章にある十字架に掛かられた主イエス・キリストが叫んだ最後の言葉「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」を書き写そうとしたが、正造翁は力尽きてしまったのではないか?という説があります。

主イエス・キリストは全き罪なき神の御子(みこ)であるのに、人々を罪から救うために身代わりとなって「十字架」で尊い血を流され死なれました。本当は父なる神に見捨てられるのは、罪ある私たち人間だったわけです。自分の罪を悔い改め、自分の罪を背負ってイエス様が十字架に掛かかってくださったのだと信じれば、その罪はすべて贖(あがな)われて帳消しにされその人は救われます。同時に主イエスが死から「復活」を遂げたという神の力を信じて「永遠のいのち」が与えられ、その人自身も復活し死後は天国に行けます。

田中正造も同じように、主イエス・キリストを信じました。元毎日新聞社編集委員、環境ジャーナリストでクリスチャンの川奈英之氏は「田中正造が晩年、聖書を徹底して読み、実践に努める敬虔なキリスト者になった。」と語っています。

 

佐野市郷土博物館前の田中正造翁の銅像と、正造翁作の和歌を記した歌碑

「世をいとひ そしりをいみて 何かせん 身をすててこそ たのしかりけれ」と歌われています。歌の意味は「厭世的になったり、他人のそしりを恐れてどうするというのだ。身をすててかかってこそ、生きがいのある人生をおくれるのだ」

弱い立場にある人々に寄りそい思いやり、苦難の中であっても、身を捨ててひるむことなく立ち向かっていった正造翁の強い精神力が現れた歌だと思います。

1946年のインド、「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けた修道女テレサは単身、カルカッタのスラム街に入ってゆきました。やがて「死を待つ人々の家」で貧困と病気の人々に寄りそい、あたたかく静かな最期を看取るようになりました。マザー・テレサの掲げた「Love is Action」(愛は実践)の精神ととった行動は、まるで田中正造と合わせ鏡のようです。行動者・田中正造の生涯は「Love is Action」そのものだったんじゃないでしょうか?