前回(11/11)は、作家光岡明による菊池寛『昭和の軍神 西住戦車長伝』の解説から、大人にとっての西住戦車長の魅力を三つ抽出しました。それは①戦闘場面、②人間としてのやさしさ、③父の教えと子としての態度、の三つでした。これらを手がかりとして、子供向けの作品を読んでみようとしたわけです。西住戦車長についてネットで検索してみますと、意外にもたくさんヒットしました。ウキペディアでも詳しく解説してあります。その参考資料で良いものを見つけました。服部裕子「子ども向け伝記『軍神西住戦車長』論──軍神の形成と作品の特徴──」です。出典は『愛知教育大学大学院国語研究』第19号です。この論文は副題にもあるとおり、軍神西住戦車長の形成と、各種作品を比較しながら特に富田常雄の『軍神西住戦車長』(大日本雄弁会講談社 一九三九.六──以下「富田本」と略す)の特徴を論じたものです。
私はこの服部論文を読んで自分の関心にとって有益な情報を得ることができました。私の関心というのはこうです。今は亡き恩師・庄司和晃が昭和十七年の十月(旧制中学二年)に「陸軍少年戦車兵学校」の学力試験に合格するのですが、庄司少年がこの学校を受験した理由を知りたいのです。これを推測するには、一つに庄司が少年戦車兵のどこに魅力を感じたのかを可能な範囲で調べる必要があります。そのために最初に当たるべき資料は、当時多くの高学年児童に読まれた「富田本」だと服部論文で教えられました。早速、芝公園にある三康図書館に赴いて「富田本」を手に一読してみました。この時の感想などを挿し挟みながら服部論文を紹介していきます。まず「軍神の形成」についてです。今回は途中まで。
≪西住小次郎陸軍大尉(在職時中尉。死後大尉に昇進)は、一九三八(昭和一三)年五月一七日、日中戦争徐州戦で戦死し、昭和の軍神第一号となった人物である。彼の出身地熊本県上益城郡甲佐町には「西住戦車長顕彰会」があり、西住公園には西住戦車長の胸像が建ち、命日には慰霊祭が催されている。
西住大尉が軍神となった経緯については、菊池寛が著書『昭和の軍神 西住戦車長伝』の中でつぎのように語っている。それによると、当時上官だった細見惟雄大佐が西住大尉を武人の典型として顕彰したいという思いから、一九三九年十二月一七日に陸軍省記者倶楽部向けの講演会で語ったところ、聴衆が感激し、翌日お一八日、西住大尉について新聞各紙が書き立てたことから始まっている。細見大佐自身は、西住大尉が自分の部下であったこと、他の将兵に対する配慮などから、講演では、西住大尉を「昭和の軍神」と言わず、典型的な武人という言葉に置き換えていたというが、「東京朝日新聞」でも「東京日日新聞」でも「昭和の軍神西住大尉」とたたえて彼の戦歴・母親の談話などを紹介し写真入りで大きく取り扱っている。見出しを紹介すると、「東京朝日新聞」では「昭和の軍神・西住大尉 陸軍全学校教材を飾る偉勲 鉄牛部隊の若武者」「戦傷も五度」、「東京日日新聞」では、「近代戦の寵児(チョウジ:時代の人)『戦車』に捧ぐ〝昭和の軍神〟西住大尉」「一戦毎に燃え上る猛然たる戦闘精神」「小次郎の霊よ大陸にあれ!母の膝元に帰る勿(ナカ)れ」などの語句が紙面を飾っている。この細見大佐による講演は二六日夜のラジオでも放送された。彼の戦死当時からすでに七ヶ月経っていた。
保坂廣志が、軍神の形成に新聞が大きく貢献したと指摘したが、後の九軍神の場合も同様、国民の士気高揚のために、西住小次郎を「昭和の軍神」という冠称を付けて崇(アガ)め、その軍人精神の普及に利用したのである。
西住と同じ戦車部隊に配属され同じく戦車小隊長に任ぜられた司馬遼太郎は、戦後に発表した「軍神・西住戦車長」の中で、西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいないが、軍神になりえた理由の一つは彼が戦車に乗っていたからだ、軍神を作って壮大な機甲兵団があるがごとき宣伝をする必要があったからだと分析している。当時、司馬は戦車学校でも、戦車部隊でも、西住の話を聞いたことがなかったという。それは、偵察中に流れ弾に当たって死ぬという、戦車長としての実務上あたりまえすぎる戦死であったからだろうと述べている。(以下は次回)≫(前掲服部論文)
昭和の軍神第一号・「西住戦車長」像は、部隊長の細見大佐の講演を契機として、まず、大新聞によって大々的にとりあげられたことがわかります。また、細見大佐の話はラジオでも放送されたことを初めて知りました。とくに、当時同じ戦車長だった司馬遼太郎が戦後発表した「軍神・西住戦車長」についての分析情報は意外でした。今日、ノモンハンの敗北以来、陸軍が近代兵器としての戦車の開発に力を入れたことは知っていても、それがあまり進んでいなかったのではないかという疑念を喚起するからです。その情報とは、「軍神を作って壮大な機甲兵団があるがごとき宣伝をする必要があった」というくだりです。つまり、陸軍は「軍神西住戦車長」という共同幻想だけではなく、「壮大な機甲兵団」という共同幻想もまた、そこに付随させていたと思われるのです。実際に「西住戦車長」という軍神が存在しなくても、「壮大な機甲兵団」が実在しなくても共同幻想は人々を惹きつけます。だから、この方面への興味・関心のほうが、理科系の学校である少年戦車兵学校への高学年児童や旧制中学生の憧れを吸収しやすかったのではないかと考えます。服部論文とは別に「壮大な機甲兵団」という共同幻想がどう描かれているかを視野に入れていきたと思います。