goo blog サービス終了のお知らせ 

尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

昭和の軍神第一号の形成

2016-11-18 12:52:48 | 

 前回(11/11)は、作家光岡明による菊池寛『昭和の軍神 西住戦車長伝』の解説から、大人にとっての西住戦車長の魅力を三つ抽出しました。それは①戦闘場面、②人間としてのやさしさ、③父の教えと子としての態度、の三つでした。これらを手がかりとして、子供向けの作品を読んでみようとしたわけです。西住戦車長についてネットで検索してみますと、意外にもたくさんヒットしました。ウキペディアでも詳しく解説してあります。その参考資料で良いものを見つけました。服部裕子「子ども向け伝記『軍神西住戦車長』論──軍神の形成と作品の特徴──」です。出典は『愛知教育大学大学院国語研究』第19号です。この論文は副題にもあるとおり、軍神西住戦車長の形成と、各種作品を比較しながら特に富田常雄の『軍神西住戦車長』(大日本雄弁会講談社 一九三九.六──以下「富田本」と略す)の特徴を論じたものです。

 私はこの服部論文を読んで自分の関心にとって有益な情報を得ることができました。私の関心というのはこうです。今は亡き恩師・庄司和晃が昭和十七年の十月(旧制中学二年)に「陸軍少年戦車兵学校」の学力試験に合格するのですが、庄司少年がこの学校を受験した理由を知りたいのです。これを推測するには、一つに庄司が少年戦車兵のどこに魅力を感じたのかを可能な範囲で調べる必要があります。そのために最初に当たるべき資料は、当時多くの高学年児童に読まれた「富田本」だと服部論文で教えられました。早速、芝公園にある三康図書館に赴いて「富田本」を手に一読してみました。この時の感想などを挿し挟みながら服部論文を紹介していきます。まず「軍神の形成」についてです。今回は途中まで。

  

≪西住小次郎陸軍大尉(在職時中尉。死後大尉に昇進)は、一九三八(昭和一三)年五月一七日、日中戦争徐州戦で戦死し、昭和の軍神第一号となった人物である。彼の出身地熊本県上益城郡甲佐町には「西住戦車長顕彰会」があり、西住公園には西住戦車長の胸像が建ち、命日には慰霊祭が催されている。

 西住大尉が軍神となった経緯については、菊池寛が著書『昭和の軍神 西住戦車長伝』の中でつぎのように語っている。それによると、当時上官だった細見惟雄大佐が西住大尉を武人の典型として顕彰したいという思いから、一九三九年十二月一七日に陸軍省記者倶楽部向けの講演会で語ったところ、聴衆が感激し、翌日お一八日、西住大尉について新聞各紙が書き立てたことから始まっている。細見大佐自身は、西住大尉が自分の部下であったこと、他の将兵に対する配慮などから、講演では、西住大尉を「昭和の軍神」と言わず、典型的な武人という言葉に置き換えていたというが、「東京朝日新聞」でも「東京日日新聞」でも「昭和の軍神西住大尉」とたたえて彼の戦歴・母親の談話などを紹介し写真入りで大きく取り扱っている。見出しを紹介すると、「東京朝日新聞」では「昭和の軍神・西住大尉 陸軍全学校教材を飾る偉勲 鉄牛部隊の若武者」「戦傷も五度」、「東京日日新聞」では、「近代戦の寵児(チョウジ:時代の人)『戦車』に捧ぐ〝昭和の軍神〟西住大尉」「一戦毎に燃え上る猛然たる戦闘精神」「小次郎の霊よ大陸にあれ!母の膝元に帰る勿(ナカ)れ」などの語句が紙面を飾っている。この細見大佐による講演は二六日夜のラジオでも放送された。彼の戦死当時からすでに七ヶ月経っていた。

 保坂廣志が、軍神の形成に新聞が大きく貢献したと指摘したが、後の九軍神の場合も同様、国民の士気高揚のために、西住小次郎を「昭和の軍神」という冠称を付けて崇(アガ)め、その軍人精神の普及に利用したのである。

 西住と同じ戦車部隊に配属され同じく戦車小隊長に任ぜられた司馬遼太郎は、戦後に発表した「軍神・西住戦車長」の中で、西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいないが、軍神になりえた理由の一つは彼が戦車に乗っていたからだ、軍神を作って壮大な機甲兵団があるがごとき宣伝をする必要があったからだと分析している。当時、司馬は戦車学校でも、戦車部隊でも、西住の話を聞いたことがなかったという。それは、偵察中に流れ弾に当たって死ぬという、戦車長としての実務上あたりまえすぎる戦死であったからだろうと述べている。(以下は次回)≫(前掲服部論文)

 

 昭和の軍神第一号・「西住戦車長」像は、部隊長の細見大佐の講演を契機として、まず、大新聞によって大々的にとりあげられたことがわかります。また、細見大佐の話はラジオでも放送されたことを初めて知りました。とくに、当時同じ戦車長だった司馬遼太郎が戦後発表した「軍神・西住戦車長」についての分析情報は意外でした。今日、ノモンハンの敗北以来、陸軍が近代兵器としての戦車の開発に力を入れたことは知っていても、それがあまり進んでいなかったのではないかという疑念を喚起するからです。その情報とは、「軍神を作って壮大な機甲兵団があるがごとき宣伝をする必要があった」というくだりです。つまり、陸軍は「軍神西住戦車長」という共同幻想だけではなく、「壮大な機甲兵団」という共同幻想もまた、そこに付随させていたと思われるのです。実際に「西住戦車長」という軍神が存在しなくても、「壮大な機甲兵団」が実在しなくても共同幻想は人々を惹きつけます。だから、この方面への興味・関心のほうが、理科系の学校である少年戦車兵学校への高学年児童や旧制中学生の憧れを吸収しやすかったのではないかと考えます。服部論文とは別に「壮大な機甲兵団」という共同幻想がどう描かれているかを視野に入れていきたと思います。


「天保七・八年一揆・打ちこわし」 はじまりの予感

2016-11-17 13:35:16 | 

 前回(11/10)は、天保四年(一八三三)の「巳年のけかち」と呼ばれる大凶作を原因とする「天保四・五年一揆・打ちこわし」の二つの政治史的意義を学びました。一つは一揆・打ちこわしによる全く正当な低価格米要求が、諸藩の穀留政策やこれに便乗した米商人によって米穀流通における停滞現象を招き、回り回って全国的な米価の暴騰を招いたことでした。二つは米価暴騰の全国的波及の主因が諸藩の殖産政策にあったことを明らかにしたことです。これによって他の諸物価をもつり上げ、いくつかの藩では殖産政策が撤廃に追い込まれました。私は、天保四・五年の一揆・打ちこわしが、諸藩ばかりか幕府の政治改革をうながす運動であったことをその政治史的意義だと受け取りました。

 さて、今回は天保前半期の一揆・打ちこわしの、残りの一半を構成する「天保七・八年一揆・打ちこわし」の政治史的意義を学びます。以下の引用は、天保五年夏の作付けの話からはじまります。この年はこれまで見てきた「天保四・五年の一揆・打ちこわし」の話と重なるのではと思われるかもしれませんが、この場合は天保五年の二月までに起きた一揆・打ちこわしについて論じていましたので、天保五年は重なりません。一揆・打ちこわしが、その年の凶作に淵源をもっていることもあるでしょうが、大抵は翌年にかけて一揆・打ちこわしが発生し、全国的に波及する場合にもタイムラグを考慮しなければならないようです。今回はポイントとなる年表記に下線を引き、混同を防ぎたいと思います。

 

天保七・八年一揆・打ちこわしの政治史的意義

 天保五年(一八三四)の夏は、平年並に近い気象に戻った。しかし、飢饉と領主の対応の不備から生まれた被害は甚大で、とくに、農業生産をはじめその他の諸産業に多大な影響を及ぼすこととなった。そのため、能登七尾町近郊の中挟村百姓が、この年に『久宝元年』(浅香年木『北陸の風土と歴史』)という私年号をつけ、豊作を祈願したにもかかわらず、実際は各地で「去巳(去る巳年)の凶作にて、悪食の上、着物薄く寒気引込候ゆえ、去暮(天保四年暮)より疫癘(エキレイ:疫病)流行」(『大町念仏講帳』)という、粗食などによる流行病からの病死者増大による労働力不足が、「手入れ行届き、こやし入候田は豊作に候得共、夫は十が一もこれなき程の儀、実に残念之事に候」(同)といわれるほど農耕に大打撃を与え、「自然人勢弱まり、田畑耕耘(コウウン:耘は雑草除去の意)届かざる者多し」(『飢饉懐覚録』)とみすみす不作にしてしまったというのが、各地の状況であった。そして、食糧を得るのにせいいっぱいであった百姓には、質入れしていた田畑を質流れにせざるをえなくなった者が続出していたので、世相は依然、深刻であった。そのうえ、翌天保六年から七年にかけて、奥羽・関東両地方を中心にふたたび異常気象に見舞われ、「七年出来(デキ)秋もまたずして」凶作は歴然たるものになった。この「巳年のけかち」に劣らない凶作の連続は、政情をさらに深刻なものにした。

 しかし今度は、「秋田候ハ此前ノ凶作ニコリテ春コロヨリ夏ヘカケ大ニ米ヲカヒコミタリ。ソレユエ国サワガズ」(『三川雑記』)とか、「米沢ハ巳年ノ凶作(巳年のけかち:天保四年)ヨリ毎年米タクハヘテ、今年ニテハ大ニ蓄アリ。タトヒ今年明年トモ皆無ニテモ人ヲコロサヌトゾ」(同)といわれたように、奥羽の諸藩は、「巳年のけかち」の教訓から早くより凶作に備え、とくに積極的な穀留(米穀確保)を推進した。このような迅速な対応策を打ち出した主な理由は、諸藩内において、一揆・打ちこわしが続発する危険性を、ともかく抑えることにあったのはいうまでもない。しかし実際は、秋田や米沢などのいくつかの藩以外はすぐさま「ソノ外ハ油断シテ蓄(タクワエ)ナケレバ必今年は又々死人アルベシ」(同)という状況におちいったので、各地で一揆・打ちこわしが激発するにいたった。そして各地で、「乱の萌(キザシ)あるべき勢」とか「一揆ナドサハゲバ」といわれる状況が醸成されるや、豊作であった九州・四国の諸藩にまで「世間の様子を聞きて、他邦へ米を出す事はなく、その国々にてことごとく津留(ツドメ:領内港での移出入禁止措置)する由なれば」(『浮世の有様』)と穀留現象が波及し、ついには「穀物は、日本国中大津留なり」(『野田家日記』)という状態に立ちいたった。

 この結果は、ほかでもなく、これらの地帯からの廻米などの流出米に消費量の大半を依存していた江戸・大坂の町民に多大な影響を与えただけでなく、その江戸・大坂を通して食糧を確保していた周辺の在方町や宿場の住民にも多大な影響を与えずにはおかなかった。とくに、幕府が面子にかけて江戸・大坂での打ちこわしを阻止するために命じた強力な穀留による都市内人民の食糧を確保策が実施されるや、周辺諸都市は、たとえば「市中続きの在領福島・北野・曾根崎新地・難波新地などの在丁等は、市中よりは売らず、在々よりは出さる事ゆえ、何(イズ)れも米の手当難しく」(『浮世の有様』)と苦境に立たされた。そして、さらに両都市に近い宿場町、また他領米の購入に多くを頼っていた特産物の生産地帯は、天保四年(一八三三:巳年のけかち)のときにもまして、米価の暴騰と特産物需要の減退による生産停滞から生ずる収入減という二重の圧迫の下で呻吟(シンギン)することになった。たとえば、上州桐生の周辺では、「桐生近辺機織渡世ノ者大半休ミ、織女十一月三十日ニ暇ヲ出ス、絹類不捌織工別シテ困ム」(『赤城神社神官年代記』)という状況があり、武州八王子周辺でも、「諸色高直(値)也、蚕一流半毛織もの至て下直(値)に相成、織ちん弐三百位也、誠に人々難渋に暮し候」(『八王子市史』附編)と、とくに製糸・織物などの農村工業地域の農民層の生活を圧迫したのであった。

 そして、この停滞現象が長引くと、今度は都市住民の生活を圧迫することになった。つまり、江戸では「諸色直(値)段ノボリテ酒ハ一升五百文、油ハ五百八十文となる。炭モアガリ一切上ラザルハナシ。麦モ四合百文也。今ニテ第一ヤスキハ米也」(『三川雑記』)と諸物価高騰現象となってはねかえってきたので、結局、ふたたび住民生活を圧迫したのであった。しかも、この冬まで米価暴騰のために江戸を離れ、「イズレモ田舎ヘ引コムベシ。サレバ江戸ノ人減ズベキナリ」(同)といった現象が、「第一ヤスキハ米也」となると、今度は「近年ハヲビタダシク田舎ヨリ江ヘ出カクル也」(同)と人口の逆流現象となって流入人口が増したのであった。かれらは「江戸人ニテサエ世ワタリ辛キ時節ナルニ新ニ田舎ヨリ来テハ口ヲヤシナフ事デキガタク、ソレユヘ、イロイロノヒガ事(ヒガゴト:心得ちがい)ヲシテ富ノ世話シ、或ハ御ハナシトリ次ナドシテ正直ノ世ワタリハセヌ也」(同)というきびしい状況下に置かれたので、社会不安を醸成する原因となり、都市生活者全体を圧迫したのであった。≫(青木美智男『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九 二四〇~三頁)

 

 「天保四・五年の一揆・打ちこわし」が政治史的にどんな意義があろうとも、凶作によって米価が高騰することの根本矛盾を解決しないことには、同じことは凶作が続く限り発生します。しかし、困窮する百姓や都市民に米を安く提供するには、ともかく米を確保しなければなりません。互いに米を確保する行動に出れば、流通における停滞現象が起き長引くと米価だけでなく他の生活必需品の価格も暴騰するという矛盾は、気候的に良好な年にも発生するという事実が衝撃的です。前年の凶作が多くの労働力をも破壊することによって、良好な気候的条件を満たすことが出来ない事態が天保五年の夏以降に起きたことがわかります。

 衝撃はこれにとどまりません。幕府が面子にかけて江戸・大坂における打ちこわしを未然に防ごうとして、江戸・大坂という大都市の困窮住民に対する救援のための米確保策は、大都市を通して米を買っていたその周辺の在方町や宿場の住民にも多大な影響を与えずにはおかなかったのです。なぜならば、もちろん米は村方からは入ってこないし、大都市住民ではないゆえに幕府の恩恵にもあずかれない事態になっていたからです。米ばかりではなく他品種の価格が暴騰し困窮に陥る事態は、職種を超えてより広範に拡がってゆくだろうという予感がやってきました。


ハナシの発生 経済的事情

2016-11-16 08:21:42 | 

 前回(11/9)は、ハナシの発生に関する文芸的事情を知ることができました。それは、特別な日にしか鑑賞出来なかった説話が日常的に楽しめるようになってきたことです。ところが、この面での展開・変遷は、「人の機嫌(きげん)を取るもの、どこかにおかしいところがあって笑わせなければならぬもののごとく、解せられるような先入」観を生み出すことになります。なぜそういう偏りが生まれることになったのか。柳田はこの理由を「経済的事情」として説いていきます。先に言ってしまえば、人にハナシを聴かせるのを職業とする者の誕生です。彼らは「咄の者」「咄の衆」と呼ばれました。時代は室町期です。さっそく見てゆきましょう。

 

 ≪つまり話術がやや偏(かたよ)ったる発達をしていたのである。それにはこの第二の文芸的事情と並べて、今一つ第三の経済的事情というものの参与を考えてみなければならぬ。関東東海の荒しこ(アラシコ:武家及びその小者)どもが、都に入って来て政治上の実権を握るようになってから、急に存在を認められて来たのは、咄(はなし)の者と称する一種の職業であった。昔も人間には退屈という者があったろうから、ピエロが入用ならばもっと早くから現われてもよかったのであるが、京の悠長なる生活に馴れた人よりは、田舎者の方がはるかに気ぜわしなかった。一方の和歌とか管弦とかに該当する者は、こちらでは狩であり漁であったが、そんなものは旅先では断念させられる。それに女の気なしに夜おそくまで、集まって番をしている必要が多くなって、咄はおそらく食物に次いでの、欠くべからざるものになったのであろう。室町若い将軍は同朋(どうぼう)と名づけて、わざとやや年を取ったおしゃべりどもを、数多く扶持(ふち)していた。その中には連歌や能芸、碁、双六(すごろく)のように一つの技に秀でた者も交っていたろうが、元々彼等の用途は晴の日のためではなく、ふだんの何でもない閑の時を潰(つぶ)すにあったゆえに、別に一役ある者でも片手には話を心掛けていた。沼の藤六とかうそつき弥二郎とかいう類の話上手は、師匠もなくまた練習もなくして、ひとりでに生まれるような簡単な技能ではなかった。彼等も最初は数多い古来の物語を学び、それを昔話とし又笑い話に改作して、方々の家庭に流布せしめたかも知れぬが、一人を主と頼んで毎夜の伽(とぎ:徒然を慰める)相手を勤めていると、そんな話はたちまち古くさくなり、二度いうと風を引くなどと言ってたしなめられた。我々の世間話がハナシの一派として、次いで現われてきた偶然の原因はここにあった。これも咄の衆なる者が職業の意識から、苦心して集めて来て巧みに話したのが始まりで、決して単なるお互いの知識の交換でなかった。だから最初から題目に選択もあり、又話さずにはいられぬというような率直なものも少なく、当然に今日我々が新聞などに向って予期するものとは別であった。≫(「世間話の研究」一九三一、ちくま文庫版『柳田國男全集』第九巻 五二四~六頁)

 

 まず「咄」や「噺」と書くハナシとは、人に聞かせようとまとめた事柄で、物語やおとぎ話や落語などを言います(広辞苑第五版)。ここでは職業として人に聞かせるために編集された説話のことです。さて「咄の衆」の仕事は、将軍や有力大名の日常を退屈させない、面白いハナシを聴かせることでしたので、そのネタについては相応な準備をしたはずですし、将軍らに聴かせるには話術の工夫もあったはずです。これらの準備をどうしたのか。彼らは「最初は数多い古来の物語を学び、それを昔話とし又笑い話に改作して」仕事に励んだようですが、毎回同じハナシをするわけにはいきません。なんとか将軍らの機嫌をとれる内容で、どこかにおかしいところがあって笑わせられるハナシを見つけなければなりません。内々になければ外部に求める必要が生じてきます。ここにハナシの一派としての「世間話」が出現する原因があったのです。とはいえ、この世間話、当初は「咄の衆」の苦心の産物にほかならず、彼らのあいだで交換されることはありません。その結果、「最初から題目に選択もあり、又話さずにはいられぬというような率直なものも少な」かったのです。ここに出現した世間話が、我々が現在新聞に期待するような興味関心に応えられるまでには、また成長と変遷があったにちがいありません。これが最後の第五節につながっていくと思われます。

 ここで、ハナシの発生に関して柳田が展開した三つの事情の説明が終りましたので、整理しておきましょう。まずハナシの発生についての①歴史的事情は、それまでの気心を通じ逢える簡単な口言葉からハナシの誕生には、近代における正岡子規らによる「写生文」の新技術が役立ち寄与したこと。②文芸的事情とはなにか。かつての特別な日にしか聴くことができなかった説話が、話しやすく聴いて面白いものに改良されて日常でも楽しめるようになったこと。③経済的事情とはなにか。「咄の衆」の誕生により、人の興味・関心を呼ぶ面白い話題が意識的に外部から集められ話術の工夫がなされたこと。これが世間話出現の原因になったこと。私の印象ですが、ハナシの発生に関する三つの事情は、中世・近世・近代にはピッタリとは対応していないと思われます。つまり、①が近代篇、②が近世篇、③が中世篇といっていいのかどうか、あいまいです。あいまいでもいいのであれば、①の歴史的事情、②の文芸的事情、③の経済的事情、それぞれの「事情」の意味を再考する必要があります。


子どものインテリ派をどう評価するか

2016-11-15 09:25:03 | 

 前回(11/15)は、自然交渉における体験的な対象認識そのものが人間の幹にあたるハラを育てること、そのような認識が<知>の創造を促すのではないか、という私の読み取りを書きました。今回は庄司和晃が「インテリ派」と呼ぶ子供の傾向性をどう評価するか、そして教育実践上の手だてをどう工夫するか、ここを説いた箇所を紹介します。

 

Ⅴ 応対のしかたのことなど

 子どもの体験派のところでわたくしの言いたいことは、いくらか浮かびでたようであるが、次ぎにもうすこしおし進めてまとめあげたいと思う。

 2年生の子どもをインテリ派、幼児派、体験派の三つにわけてみたが、どこまでも便宜上のものである。子どもひとりひとりをそう簡単にかっきりとわけられるものではない。ひとりの子どものなかにインテリ派の部分もあれば幼児派の面もあり、体験派のところもある。

 ただ、わけてみて都合のいいのは〝これはこのましくないコトバづかいだ〟とか〝これはホンモノのコトバづかいだ〟とか〝これはまだ赤チャン的心づかいだ〟とかをおさえてみることできやすくなる点である。

 現場にあってだいじなことは、子どもに話しかけられたり、子ども同士の語り合いやつぶやきを耳にしたとき、その子どもが〝何を満足したいのか〟を見ぬくことである。見ぬくことができればこちらの態度もおのずからきまってくるはずだ。そうすれば適切で無駄のない応対ができようというものである。そればかりか、好ましい方向へ向けさせてやることもたやすくなってくる。

 子どものインテリ派、幼児派、体験派をつぎのように書きかえてみることもできる(一部変更──尾﨑)。

幼時派 → インテリ派 → とくいになりたがる

幼時派 → 体 験 派 → ほんとうの満足

 幼児派の心づかいとおこないの取りあつかいかたいかんによっては、インテリ派の子どもにしてしまうことになるし、体験派の子どもにもちあげうることにもなる。したがって、ここがいちばんの心しなければならないところである。取りあつかいかたいかん、などというといかめしい教育的所作を思いおこさせるかもしれないが、そう固苦しく考える必要もない。まわりのひとの受け答えという軽い意味にとってもらえばよい。

 たとえば虹がかかったとき、幼児派の子どもが問いかけもしないのに、虹のかかるわけをくだくだしく説明してやるとインテリ派の子どもにしてしまいやすい。このばあい、たいせつなことは説明することではなくて虹そのものをとっくりと見せることなのだ。

 また、すでにできあがっている知識を教えこんでふやしてやることが教育の眼目だ、と考えて子どもに接するひとはインテリ派をつくりやすい。

 そして、すこしでもインテリ派になりかかっている子どものコトバにたいして、こちらからおほめのコトバでもかけようものなら、たちまちモノシリヤに仕立てることになる。

 このモノシリヤの子どもというのは、じつにやっかいなものである。なぜなら、ことに当たってじっくりとみつめるということをしない。これでは、ホンモノの知識(というよりも、見方、感じ方、考えかたといったほうがよいかもしれない)をまなびとることはできない。

 とにかく、ほかの子どもより知っているということでとくいになりたがる。とくいになりたがるということは、反面、ほかの子どものすなおな〝みつめごころ〟をかきみだしてしまうということである。

 2年生の子どもに、

「先生、カエルは両棲動物だよね」

なんていってもらわなくてもいいのである。

それよりは、むしろ、

「カエルは水のなかにはいっても、おかにあがっても平気なんだね」

「あっ、そうだ。カニだって、そうだ。ザリガニはどうかな」

というぐあいに気づいてくれることがのぞましいのである。

 そのとき、両棲動物だ、ということを教えてもいいだろうし、また教えなくともいっこうにかまわない。そういうたくさんの経験と〝あれもそうだ、これもそうだ〟という類推のつみかさねこそ、1、2、3年のしごとである。

 それならば、とくいになりたがることをもって身上とするインテリ派──すでにそうなっている子ども──をどうすればよいのであろうか。

 消極的な処置のしかたは──インテリ派のコトバにたいして──〝そうか〟といってタンタンとして聞くのみで、けっしてほめあげないことである。

 積極的ないきかたとしては体験の道をあゆませることだ。

「あれ! 地面からユゲがあんなにでるよ、さわってみよう・・・なんにも感じないや」といった子どもの方向へともっていく指導をすることである。

 しかし、〝実物を見ること〟〝事実を見聞することが〟がナゼ子どもにとって(とばかりはいえまいが)必要なのか、のもんだいはとり残されている。一言にしていえば、復元する力が子どものばあいとくに弱いからである、といえようか。≫(『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三一八~九頁)

 

 当時(一九五六年頃)の庄司和晃「小学生のコトバ研究」をどう受けとめるか。ポイントになるのはインテリ派と呼ぶ子どもの傾向性をどう評価して彼らの成長と発達に寄与するかという問題です。庄司は小学2年生のこの傾向性にはやや冷淡であるかに読めます。これと後年の「認識の三段階連関理論」と比べると、感覚・表象・概念という認識のどの段階にもそれぞれの価値があり、その三段階を相互に「のぼり・おり(抽象化と具体化)」することによって人間の認識は発展するという理論と矛盾するように見えます。概念は一つの知識を意味します。ここをどう考えればいいか。


事件の発生から解決まで半年 意外に早い

2016-11-14 09:45:27 | 

 前二回(10/31、11/7)で、鈴木伝蔵以外の事件関係者の処分(仕置)を、通信使らの要望通り朝鮮国へ伝達したいとする幕府に対する対馬藩の意見書草案を紹介しました。白紙撤回を求める論点は三つありました。①対馬藩を飛び越しての外交交渉は前例がなく問題が生ずること、②仕置を「伝達」する必然性のいないこと、③丁寧すぎてはこれまで日本の「武威」で押えてきた朝鮮に弱みを見せることになる、というものです。以上の三点について述べる文体からは迫真・必死の趣がありました。さて、「伝達」問題はどうなったのでしょうか。宝暦十四(一七六四)年四月七日の発生した崔天宗殺害事件は、終息間近に幕府による「伝達」問題が起き、同じ年の十月四日(六月に改暦があったので明和元年)にはすべてが解決します。そこを著者はどう書いているか、見ていきましょう。

 

 ≪崔天宗殺害事件の犯人が確認されて以後、幕府は以酊庵を介した朝鮮との直接交渉を試み続けた。それは、日朝外交交渉の最前線での衝突と殺人事件への発展──こうした日朝両国の友好関係を阻害しかねない要素を、幕府が主体的に解決しようとする試みである。しかしそれは同時に、対馬藩と朝鮮通信使とのある種の癒着を排除する意図を含みこんでいた。四月二二日に大阪町奉行所与力を介して対馬藩にもたらされた幕府の意向[慶応115]などによれば、対馬藩士であろうと厳正に処分できるような環境の整備が必要だと述べており、それを保障するのが以酊庵僧を介した吟味だというのである。

 対馬藩国元は幕府側の真意を測りかねていた[慶応119]が、しかし今回の「伝達問題」は宗家の家業にかかわる問題でもあったゆえに先ずは強硬な反対意見を陳述するのである。しかしその一方で幕府の推進する方針の骨抜きをも謀っていく。以酊庵を通じた朝鮮との連絡が具体化する前に、対馬藩自身が朝鮮の現状──崔天宗事件の後遺症の有無の確認──を把握し、幕閣の不安を取り除くに足るような返答を引き出すことに努めるのである。その際あくまで以酊庵僧には内密で、朝鮮側には崔天宗事件の後遺症は無いこと(朝鮮順和之事情)を確認し幕閣へ伝達したかった。そうした意図が、国元家老から釜山の倭館館守戸田重左衛門の伝えられ[慶応119]、九月上旬から東萊府(倭館の監督官庁)の任訳を倭館に招じて交渉に入った[対馬(b)](第二章)。

 ところで、明和元年九月から一〇月にかけての時期は、江戸で対馬藩家老処罰の問題と朝鮮への「伝達」中止の問題が集中的に扱われる時期である。大坂で多田監物が詰問され、藩の不取締を明記した返答書を提出するのが九月一三日であった。おそらくそれが江戸に達するのは同月の下旬頃であろう。家老等の「押込」の裁決が下されるのが一一月半ばであった(第一節(2))。一方、国元の意向を受けて「伝達問題」の白紙撤回を要求する運動が、江戸家老古川大炊によってなされるのが九月以降である[慶応119]。対馬藩側の攻勢の前に幕府が折れるのが、一〇月四日であった。

    右近将監様より仰出さるる写

鈴木伝蔵一件に係わった者たちの御仕置状況についての文書は、朝鮮通信使一行が帰国してしまった以上、もはや朝鮮国へ達するには及ばない。かつまた、これまでに定められた書翰以外に対馬藩を介さずに朝鮮へ書翰を送ることは先格にないから、新規の義については対馬藩へまず伺い出るように以酊庵長老へ伝えるように。

  十月

「伝達」は行わない。脇筋から朝鮮へ書翰を送ることは先格に無いことを確認する。もし「新規の儀」に及ぶ場合には対馬藩へ伺うよう以酊庵長老へ伝えるように。こうした内容が老中から通信使用掛役人(古坂与七郎・曲渕勝次郎・大田三郎兵衛・一色安芸守・大井伊勢守)に伝えられ、右の内容が以酊庵僧のもとへ届くのが一〇月二九日のことであった[慶応119]。対馬藩へ伺った上での「新規の儀」ではありえない。手続き論における対馬藩側の意向を全面的に認めた恰好である。たしかに家老たちは「押込」になるが、対馬藩側はその処分を軽く済んだものと受けとめたのであった。≫(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九 四七~八頁)

 

 上の引用中の難しそうな語句について。「先格」とは、先例を意味すると思われます。「東萊府(トウライフ)」とは、朝鮮における倭館の監督官庁のことです。また「任訳(ニンヤク)」とは、朝鮮政府の通訳のことだと思われます。さらに「倭館(ワカン)」とは、海外への往き来も居住も禁止されていた江戸期に、唯一の例外として朝鮮の釜山に幕府公認の日本人町のこと。十万坪におよぶ敷地に四百~五百人の日本人が住んでおり、対馬藩が管理していました。(以上は、田代和生『倭館──鎖国時代の日本人町』より)

 さて、事件が起きてから処分がきまり「伝達」問題の解決まで半年。意外に早いという印象を受けます。幕府が中心なってのすばやい一連の動きには、朝鮮外交に対する幕閣の「配慮」が感じられます。つまり対馬藩単独による朝鮮外交への介入です。しかし、そのような意図をもった幕府の論拠を骨抜きにしようと対馬藩は必死です。それまでの倭館を介した朝鮮との交渉で、対馬藩に有利な材料を獲得しようと努力します。つまり「朝鮮側には崔天宗事件の後遺症は無いこと(朝鮮順和之事情)」を幕府に理解させることです。これが功を奏したのでしょう。老中松平右近将監からの「仰出さるる写」に結びつくわけです。異国について、どこに居てどんな情報を得るかは、それぞれの異国像を知るうえで需要です。少なくとも朝鮮に関して手持ちの情報網から言えば、幕府は対馬藩に及ばなかったと言えます。

 これで第一章「崔天宗殺害」は終りです。次回から第二章「事件をめぐる人々のこころ」を読みます。いよいよ「置かれた立場の違いによって異なる姿を見せる事件像のズレ」を読み取っていきます。


「入門期」論の欠落

2016-11-12 07:38:40 | 

 前回(11/5)は、大学の英語教育論争を例に、人と人が論争する論理について少し気づいたことを書いてみました。もちろん一例だけでは思いつき以上ではありえません。今回は英文科そのものの問題に入ります。いつもお世話になっている大著『資料 日本英学史2 英語教育論争史』(大修館書店 一九七八)の編著者・川澄哲夫氏の分かりやすい解説を使わせていただこう。

 

≪英文科出身者が、英語教師としての資格を問われてから五年後の昭和三六年(一九六一)に、英文科そのものの価値が問題となった。それは東京大学教授平井正穂が、Shakespeare News(シェイクスピア協会会報)(昭和三六年八月二十日)に、「シェイクスピアと学生」〔資料215〕を書いたことにはじまる。まず彼は、自らの目に映った新制東京大学の英文学科学生を次のように描写する──

 東京大学で、教養学部から英文学科に進学する学生が、英文学科について何も知らず、ただ就職に便利な学科としか考えていない。彼らにとって、研究の場としての英文学科など、問題にもならないのである。新制大学になって学生たちははっきり変ってきた。講義中、「先生は何か我々を誤解しておられるのではないか。我々が英文学者となるとでも思って広義をしておられるのではないか」という質問をうけて愕然とすることがある。ある年の口述試験で、論文や口述の内容があまりひどいので、突っ込んで質問すると、一流会社に入社のきまった学生が、「今後は絶対に英文科出身ということは申しませんから出すだけ出して下さい」とユーモラスに懇願したこともあった。こうした学生たちが今や英文科の主流を占めていて、英文学を専攻しようと思っている学生や教師は、アウトサイダーにすぎない。ここでかれは。「今は本当は日本におけるイギリス文学研究の危機」であり、「私たちの世代の者が先輩からうけついだ伝統を、私たちが逆にゆずってゆく相手の者は意外に僅少」なことを嘆息する。

 さらに彼は、『中央公論』十二月号でも、英文科の学生の大多数が、法、経学部の卒業生と同じ方面に就職して行くこと、そうして英文学の演習で、翌週の担当者となった女子学生の一人が、「両手を合わせて拝むような恰好をして断わる旨を申し出た」という例をあげて、「こと、ここにいたる」と絶望感にひたっている〔資料216〕。≫(前掲書 七九三~四頁)

 

 なんだか、私の昭和四〇代後半頃にも身に覚えのある行為が引用されているので、いささか恥ずかしくなりましたが、大学の権威はもうすでに昭和三〇年代後半において下り坂を転がり始めていたことがわかります。今回は引用しませんが、東大教授平井正穂の二本のエッセーに綴られている、新制大学になって英文科が就職の手段になっていることへの嘆きは、英文学という異文化研究そのものへの危機感に裏打ちされていると思われます。しかし、将来、英文学研究者をめざす学生が全くなくなってしまったわけではありません。平井正穂の嘆きを日本における英文学そのものへの危機感と捉えることにとどまらず、もう少し広く異文化摂取の問題と捉え直すと、異なる光景が見えてくるのではないでしょうか。

 私の受けとめはこうです。異文化とは学習者にとっては未知なる領域です。だれでも最初は未知・無知であるはずです。とすれば学習者にとっての未知性・無知性は、異文化領域を超えて、学ぼうとするすべての文化領域にあてはまります。では、この文化ですが、これが伝統的なものであればあるほど、あるいは特定集団に担われていればいるほど、その内容の専門性は相応に蓄積されているはずの存在です。さらに専門領域と後継者づくりのための入門期のプログラムが相応に蓄積されているはずです。つまり、ある程度の歴史性を持った文化領域には、専門性とそこに到達するまでの入門性が二つとも備わっていることはごく当たり前の事柄に属します。例えば職人と呼ばれる集団が従事する仕事領域をみればあきらかです。よく言われる「職人の世界で親方は親切に教えたりしない、弟子はただ見て覚えるだけだ」という習得論も一つの入門期のプログラムであることに違いはありません。

 このように考えてみると、異文化摂取の問題ひいては英文学の問題にも、「専門性」と「入門性」の両方が不可分に備わっていることは先に述べたとおりです。ならば、二つを分離して論じては見当を失います。先に「大学の英語教育」問題や「中学校の英語義務教育化」問題における論争を見て来ましたが、これらはいずれも専門性と入門性を分離しあるいは一方を否定した議論であたったことがわかります。ですから、専門性と入門期性の二つを分離して扱う発想を棚上げし、英語あるいは英文学そのものにおける入門期から専門段階にいたるまでの、いわばその歴史的な蓄積から「上達論」を再発掘し編集し直すことが必要なのではないでしょうか。以上のことは、誰かがもうすでに考えているに違いありません。現在もまた当時のような「英語教育論争」が再燃しているのだとすれば、「入門期」論や「上達」論の構築がけっこう難儀なのかもしれません。


西住戦車長のやさしさと、父からの親密丁寧な助言

2016-11-11 11:06:00 | 

 前回(11/4)は、菊池寛『昭和の軍神・西住戦車長伝』(一九三九)を紹介しました。菊池寛全集第二十巻(一九九五)の解説を書いた光岡明によれば、この伝記の魅力を大きく二つあげていた、と思っていたら見落としていました。「激烈な戦闘における行動」と「人間としてのやさしさ」に、もう一つ「父の教えと子」を加え、計三つの魅力が説かれています。今回は残りの二つをとりあげます。

 

 ≪西住戦車長の天晴れ武人振りが浮かび上がってくる。そしてその像を裏打ちするのが、西住戦車長のやさしさである。この『西住戦車長伝』のなかで、菊池寛は嘆息のように何度か「二十四、五歳といふ青年」と書く。『西住戦車長伝』を書いたとき、菊池寛は五十一歳。「純文学に成功し、通俗小説に勝利し」、文藝春秋を興し、文壇の大御所になっていた菊池寛が、西住戦車長の年齢に似合わぬやさしさに感嘆するのである。

 後方にあるとき、傷病兵の見舞いと激励は西住戦車長の日課であったこと、将校は兵のものを(とって)食うのでなく、兵のものを将校が(次に)食うのであって、その順序は変ることがなかったことは、『西住戦車長伝』のなかに登場するあらゆる兵、同僚、上官によって異口同音に語られる。走馬塘クリークの戦闘のあと、段列(補給隊)が遅れて三日ばかり若干の乾パンで、小隊全体が食いつないだことがあった。小隊長の所から当番兵が、飯盒(ハンゴウ)いっぱいのご飯を持ってきた。小隊長はもう食べられたのかと聞くと、小隊長は乾パンを食べておられます、と言う。「私は急に腹が立つてきた。まして当番は私の初年兵だつた高松一等兵であつたから『馬鹿! お前はそれでも当番か!小隊長がご飯を食べずに乾パンを食べておられるのに、兵隊が食べられるか、考えて見ろ』と呶鳴つたら、高松が慌てて帰つて行つたが、又直(す)ぐやつて来て『何(ど)うしても食べろと云われます。井手上上等兵には、少隊長の命令だと云へと、小隊長が云はれました』と云つた。私達は、その飯盒を貰って、暫く茫然としてゐた。そして止め度なく涙があふれてきたのであった」と部下だった井手上上等兵は手記に残す。そしてさすがの菊池寛が「食事は兵隊本位だと云ふ言葉は、実にありがたい立派な言葉である。殊に出征兵士の家族の方達は、この言葉を読んで感激されるだらうと思ふ。またその言葉を常に実践している同大尉の行動は、何人も涙なくして、読み得ないと思ふ」と涙ぐむのである。

 西住戦車長のやさしさは、部下だけに向けられたのではない。南京へ向かう常熟城外で野営した際、付近の民家で中国婦人のお産があった。その婦人は足に貫通銃創(ジュウソウ:銃にうたれた傷)を受けていた。兵の報告でこのことを知った西住戦車長は、軍医を呼びに兵をやった。中国人と聞いた軍医は、はじめけげんな顔だったが、『何(な)んだ、西住中尉か、あの人らしいことを云ふ』と言って出てきた。西住戦車長は先にその民家に来ていて、治療の準備をしていた。中国婦人は両手を合せ、「大人大人、謝々」と西住戦車長を拝んでいた。治療が済むと、西住戦車長は貴重なミルクをやった。夜が明けると、その婦人の姿はなく、赤ん坊が凍死していた。恩知らずと怒る兵たちに、西住戦車長は「赤ん坊に罪はない。昨日(きのふ)は主婦も感謝したに違ひないのだから、今から赤ん坊に墓でも造つてやらうぢやないか」となだめ、さっそく穴を掘って赤ん坊を埋めた。戒名をなんとしようかと、わいわい騒ぐ兵たちをしり目に、西住戦車長は「無名子(むなこ)の墓」と棒ぐいに書き、両掌(リョウテノヒラ)を合わせた。「小隊長が静かに合掌さるれば、兵隊達は子供達は子供がまねる様に皆合掌した」。さきの井手上上等兵が軍曹になって書いた手記である。これに対して菊池寛は「赤ん坊に罪は無い。昨日は主婦も感謝したに違ひないのだから、と当時、わずか二十四歳の青年士官としては、なんと云ふ豊かな言葉であろう(中略)大尉の慈悲の手に背きて逃げ去つた主婦を憎まず、母に依(よ)つて捨て去られた、小さき生命を弔ふ。大尉の心は光り輝いてゐると思ふ」と絶賛するのである。戦闘場面に感想がないのに比べて頂きたい。その文学のように、まっすぐ健康な庶民の感覚を大事にした菊池寛の生身がのぞくのではないか。≫(『菊池寛全集』第二十巻 六三〇~一頁)

 

 光岡明による、西住戦車長の「人間としてのやさしさ」が表れた二つのエピソードと菊池寛の感想でした。このようなエピソードが大人に対してはともかく、当時の少年たちにどの程度の影響を与えたものか、未だはかりがたいところがあります。次いで、「父西住三作の教え」についての魅力です。

 

 ≪(父西住三作氏が)わが子(西住戦車長)が出した手紙に「細大洩らさず返事をするばかりでなく、自分の意見や感想を述べ、処世の方針、修業の覚悟を示しながら、子を教へ導いているのであるが、その一句一句に現はれてゐる」温かな慈愛は、こんこんとして尽きざる泉の如きものがある」と菊池寛が評するように、なまなかな〝親業〟にある者が書ける手紙ではない。原文はぜひこの『西住戦車長伝』本文で当って頂きたい。親が子に、子が親に手紙を書く習慣、礼儀がほとんど絶えた現代、西住親子の往復書簡は、人間の原型を示すものと言っていい。菊池寛ならずとも、すべての親子が渇望する本音がある。御奉公の本義の教えはもとより、列車の乗り方、手土産持参の仕方、汗を出さない方法など、「嚙んでふくめて親心」である。

「一つの立派な人格は、それを産む、母体があり、それを培(つちか)う周囲が必要だと思ふが、西住大尉は、父三作氏から、肉体ばかりでなく、精神的なものも、多分に受け継いだ」という菊池寛の断定は、まことにもっともだと思う。

 以上、この『西住戦車長伝』は、必要条件を全部持ったノン・フィクションとして、菊池寛文学のなかできわめてユニークなものであり、かつ今読んでも西住小次郎という若竹のように育って散った武人を見事に造形した伝記と言えよう。個人的に言えば『講談社の絵本 軍神西住大尉』の絵の間が、きっちりと埋められて行ったことを、深い感慨で眺める時間であった。≫(前掲書 六三三頁)

 

 手紙で丁寧に人生のアドバイスを送る父と、それを素直に受け容れ短すぎる生涯を貫いた子。このような父子関係は、当時を生きた無名の父と子にとってどれほどの理想だったのでしょうか。この伝記に表れた理想視の限りでいえば、現実はこのような父子関係は少なくてあたりまえな時代だったと考えられます。私は、理想的な皇国兵士をつくり出すのに親密な父子関係まで引き合いにだされなければならなかった時代の、切迫した気分を想像します。以上、光岡明による解説から得られた大人にとっての『西住戦車長伝』の魅力を「激烈な戦闘における行動」、「人間としてのやさしさ」、「父の教えと子」の三つとおさえたうえで、当時の子供たちにとって『西住戦車長伝』の魅力はどこにあったのか。子供向けの本を読んで比較してみたい。


困苦の主因 諸藩の殖産政策

2016-11-10 10:20:19 | 

 前回(11/3)で、青木美智男「天保一揆論」(『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九)における「天保四・五年の一揆・打ちこわしの政治史的意義」の二つのうちの一つめを確かめました。それは一揆打こわし側が、領内が米価高騰するなかで安い米を要求することの重要性にありました。なぜなら、諸藩が低価格米の要求に応えるためには何はともあれ米穀を確保しなければなりません。ところがこの政策が米穀流通の停滞現象を生み、更なる米価高騰を招いたばかりでなくその他の諸物価をも高騰させるに至り、貧農ばかりでなく都市の困窮民の暮しをどん底に落したからでした。かくてこのような現象は全国的に波及してゆきました。つまり、諸藩が米穀確保政策を実行したことが米価高騰の全国化を招いたという点に、一揆・打ちこわし側が「安い米を要求したこと」の重要性があったわけです。これが「天保四・五年の一揆・打ちこわしの政治史的意義」の一つです。今回はもう一つの意義を紹介します。一言でいえば諸藩の殖産政策への批判です。

 

≪第二に、この両年(天保四・五年)のいくつかの一揆・打ちこわしにおいて決定的に重要な点として、すでに天保二年(一八三一)の防長大一揆の要求にみられていた寛政期以降「国益」の名分の下に生産の奨励が行われながら、現実には「是迄農商の利とせし事は悉く上の益となりて、下々大に困窮に及びぬる」(『浮世の有様』)とか、「物産取上の義は全く上の益筋のみ取計」であり、「百姓共は無益之労費を払ひ候様心得」(『秋田県史』)とみられるにいたっていた諸藩の殖産政策に対して、それが凶作により即座に困苦のどん底に突きおとされてしまう主因であるとして、その撤廃や転換をかち取った点をあげておかなければならない。それは、表3にかかげた一揆発生月表にみられる蜂起のうちで、播磨加古川一揆(姫路藩政転換)、下野烏山藩領一揆、羽州秋田藩北浦一揆、奥州八戸藩稗三合一揆、同南部藩領一揆などに如実にみられるものである。多くの場合、殖産政策のなかで農民的商品生産にかかわる生産物への課税や、流通過程への課税撤廃と産物会所機能の停止や、それに結託する豪農・商の追放を求めている場合が多い。その際、同時にこれらの殖産政策のみならず、「無天保=無鉄砲」(『野沢蛍』)といわれるほどに、飢饉に便乗して高利を貪ろうとした藩政改革屋(たとえば八戸藩野村軍記ら)や、飢饉に対して無策な領主に対して「南部ノ農民ハ君ヲ恨ミ、アノヤウナ君ナラバ打コロスト待テ居ルト云リ」(『三川雑記』)とはげしい憎悪の念を抱くにいたったのであった。

 この結果は、すでに本年貢=本途(ホント:検地に基づいた基本の年貢)のこれ以上の増徴が限界にあった諸藩の財政状況をますます圧迫するようになった。そして、そのしわ寄せはいうまでもなくは藩家臣団に向けられざるをえなかったわけで、そこからすでにくすぶりつづけていた藩内抗争の矛盾がいっそう深刻化することになったのであった。≫(青木美智男前掲論文 一九九九 二三九~四〇頁)

 

 この時期、一揆・打ちこわしがはらむ「政治史的意義」の二つめは、諸藩の殖産政策こそが、「凶作により即座に困苦のどん底に突きおとされてしまう主因であるとして、その撤廃や転換をかち取った点」にあります。諸藩の殖産政策が根本的批判にさらされたわけです。年貢増徴政策はすでに限界に達しており、なんとか殖産政策によって財政再建を成し遂げたい諸藩にとって、一揆・打ちこわし勢力の殖産政策批判は相当な痛手だったのはないかと思います。また、南部の殿様に対する「南部ノ農民ハ君ヲ恨ミ、アノヤウナ君ナラバ打コロスト待テ居ルト云リ」とあるような激しい憎悪は、将来に武家政治の終焉を予想させます。近世においては、武士への「威厳」があってこその政治的権力でした。藩主や家臣団が引用のように憎悪されては、もうはっきりと「武威」は地に落ちていたといっていいかもしれません。やがて幕府が憎悪の対象になる時代がやってきます。「天保前半期の一揆・打ちこわし」の歴史的意義の叙述はまだ続きます。次回は「天保七・八年一揆・打ちこわしの政治史的意義」を読んでみます。


ハナシの成立ち 末は高笑いの爆発に

2016-11-09 06:00:00 | 

 前回(11/2)は、ハナシの発生に関する文芸的事情の導入で終りました。ハナシが誕生した頃はその活用も限定的で切迫したものではなかったので、勢い我々の心を楽しませることに、すなわち文芸的方面に発展していったことを知りました。今回は文芸的事情の本論ともいうべき箇所を読んでいきます。

 

 ≪これ(文芸的事情)が私の列挙してみようとする第二の事情であるが、それはただ間接にしか世間話の現在の状態に影響しておらぬゆえに、ここでは略してそのよう要領のみを述べる。説話が日本の言語技術の上に占めた地位は、酒が日常の飲食物の中に入り込み、歌舞が人間の娯楽に大きな部分を取ったのと、かなりよく似た関係を持っている。三者はいずれも元生活の最も正式な行事であって、年に一度か二度また若い頃の一盛(ひとさか)りに、生涯の想い出としてこれに携わり、すなわち忘るべからざる印象を残したものであったが、人がわがままになり、かつその尊厳を軽視するようになってから、いつでも欲しいと思うときに取り出して、その楽しみを味わおうということになったのである。酒や歌舞の方にも宗教から出たむつかしいいろいろの儀式法則があって、長い間かかってそれをちっとずつ脱却して来たのだが、上代の物語の方でも、一度には「話」に変わってしまわなかった。いまでも本を読みまたは芝居を見て来て子供などに話す場合と同じように、第一にあまりに長々しい部分は切り棄て、忘れた部分などは重要でないからよい加減に補充するが、ここは面白かろう悦ぶだろうと思う箇所、また自分にもぜひ伝えてやりたいと思う点だけは、できるだけ正確に時としては本文をも引用する。これがコントというものの近代の語法を用いながら、なお折々は意外に古風なる形式をまじえ保存している理由である。その内にちょうど雛祭(ひなまつり)の酒が甘い白酒になったように、聴衆が幼い者ならば童話となって、彼等をよい児ならしむるに必要なる箇条に重きをおき、相手が『狂言記』の大名のようなただの享楽派ならば、ふざけた部分だけを捜して笑話にも猥話(わいわ)にもしたので、そうなると一段と古い約束が薄くなり、ついに小説などは自分一人で作ったもののごとく、信ずる者を多くしたのである。戦国以来の世の中の動揺から、新たに特殊の興味が目の前の実事談に誘導せられるまでは、ハナシというものにもこの種の昔話が多かった。都は仮に兵火の巷となっても、村の夜話にはこれ以外のものを、求めることは不可能な時代もあった。ことに庚申講その他の日待(ひまち)の夜、または御伽と称して人とともに起き明かす際などは、ちょうど長夜の酒宴に歌の数が不足するごとく、いくらあっても話の種は入用であった。それで始めのほどは真面目なる村の話、又は世間話の新しいものを珍重していても、夜が更け子供が寝てしまう頃から、だんだんといわゆる大きな話が現われて、末は高笑いの爆発に帰せずんば止まなかったのである。

 これなども考えてみると、人の感覚がまだ粗野であり、そのくせ慣例にはもっとも忠実で下品な笑いが伴わぬと何か物足らぬように、思っていた頃からの順序を守っているのかも知らぬが、お蔭で話というものは人の機嫌(きげん)を取るもの、どこかにおかしいところがあって笑わせなければならぬもののごとく、解せられるような先入主ができた。そうして猪口才(ちょこざい:小利口)で少しく厚顔な男子のみが、罷(まか)り出て座を待つようになって、情の濃(こま)やかな考え深い人たちは、かえってその所懐(しょかい:所感)を微笑とささやきとの間に託することになり、なかでも女などは物を言えばすぐにハッサイだと評せられるうき目を見た。≫(「世間話の研究」一九三一、ちくま文庫版『柳田國男全集』第九巻 五二三~四頁)

 

 これまでにも「説話(せつわ)」という言葉が出てきました。どこかピントがぼやけた印象が拭えない言葉ですが、このさい意味をはっきりさせておきます。説話とは、「音や文字で伝わってきた昔話・世間話・伝説・神話などの総称」と受けとっておきます。もちろんハナシも咄も噺も話も含まれます。単にそこで消えてしまう話ではなく、我々に伝えられてきた観賞用(文芸的)の表現をさします。

 さて、日本の民俗を調べる上で「ハレとケ」という考えかたがあります。我々の暮しを一日、一週間、一ヵ月、一年、一生というモノサシでふりかえると、特別な日があることが分かります。命日、誕生日、法事、各種祭礼などがそうですが、これを「晴(ハレ)」と呼びます。これに対して日常の暮しの営みを「褻(ケ)」と呼びます。長いケの暮しの間にハレの日が挟まり、ケ→ハレ→ケと循環するという考えかたです。晴と褻はもともと衣服の用語です。晴着は特別に日に着るもの、褻着(けぎ)は普段着のことです。

 それで、この考えかたで説話の歴史をみてゆくと、日本の言語技術の上で説話は古代においてはハレの位置にありましたが、同じ酒や歌舞と同様、時代が下ってくるにしたがって「ケ」化してきたと柳田國男は説いています。ハレの「ケ」化とは、言ってみれば「特別事の日常化」という意味です。お酒ならばハレの日にしか口にしなかったのに、いつのまにか日常的に飲まれるようになってきました。説話も特別の日にしか鑑賞できなかったのに、時代が新しくなると日常の誰もが楽しめるようになってきたというわけです。特に引用中、説話がハナシの発生(ハレのケ化)として描かれる場面では柳田の文章もケ化したように楽しそうに躍っています。特別な日にしか鑑賞出来なかった説話が日常的に楽しめるようになってきたのです。これがハナシの発生に関する文芸的事情です。ところがこの面での展開・変遷は、「人の機嫌(きげん)を取る物、どこかにおかしいところがあって笑わせなければならぬもののごとく、解せられるような先入主」を生み出していきます。これが次の段落で「やや偏っていた」と書かれるのです。

 話によって人を笑わせる技術ができ、だれもが肚の底から自由に笑うことができる時代が生まれてきたということ。このような変化に至るまで何が媒介してきたのか興味は尽きませんが、「ことば遊び」が無関係だったとは思われません。


自然交渉のなかで生まれたコトバが肚をつくる

2016-11-08 06:00:00 | 

 今回も、庄司和晃の「子どものコトバと行動についての諸考察」(一九五六)の第五章「うらおもてのあるコトバとほんもののコトバ」の続きです。第三節「子どもの幼時派」と第四節と「子どもの体験派」を続けて紹介します。

 

≪Ⅲ 子どもの幼児派

 これは幼児色の濃いコトバをはく2年生の一群のことである。きびしくいうなら、素朴な体験派といってもいい。

○ 犬は子どもの犬とどうやっておはなしするんだろうね。(真)

○ アヒルがよちよちあるきおはなばたけをつついているの。(美恵子)

○ ハエの子どもはどこにいるの。(聖子)

○ アリはどうしておさとうのなかにみなを呼んでくるの。(行絃)

○ このキアゲハにお母さんいるの、きっともっと大きいわね。(由紀子)

○ チョウチョウやセミはどうして生まれてすぐに食べることがひとりでできるの、えらいわね。(由理)

○ 犬ははだかであるいておかしいね。(高明)

ここには、いわゆる子どもらしいコトバがある。1年生以下の子どもたちに数多く見られるものだが、2年生にもまだ色濃く残っていることは注目していいことだ。自分というものが、あくまでも主体になって、それからぬけきっていないところに幼時色の幼時色たるゆえんがある。

 こちら中心の考えかたにへばりついているのだ。しかし、その部分はかくれて表にあらわれていない。いま、かくれている面をおぎなってみるなら、こんなことになるであろうか。

△ あたしには家がある、チョウチョウのお家はどこなのか。

△ ぼくはちゃんと洋服を着ている、犬ははだかであるいておかしいね。

△ あたしにはおかあさんがいる、キアゲハのお母さんはいるのか。

△ ぼくはお母さんお父さんと自由に話しあっている。親犬は子どもの犬とどうやって話しあっているのか。

 〝あたしには〟〝ぼくは〟がかくれているにせよ、あらわれているにせよ、このいい方こそ幼時色のこちら中心をいかんなくあらわしているとみることができよう。

 ここから子どもをどういった方向へみちびくことがのぞましいのであろうか。

 

Ⅳ 子どもの体験派

 自信の体験に根ざしたコトバをはくこどもたちを、いま、かりに「体験派」といってみたい。

○ かさをさしても影が足の下にしかないわね、朝あんなにあったのに。(正子)

○ お庭の花がちっともゆれていないのにあの松の木あんなにゆれているわ。(孝子)

○ あのコイ、どうしてあんなにとびあがるの、きのうはちっとも飛びあがらなかったのに。

○ セミって鳴いているとき、おしまいに「チッ」というね、「おれさまがさようならするぞ」っていうのかな。(正道)

○ ハトのおすっておこるとはねをふくらますのね、ここんとこ(胸)に丸い玉がはいっているみたい、大きく見せようとするのね、大きいと強そうだから。(鋼一)

○ チョウチョウハ夜こないのにガはどうしてくるのかしら。(泰子)

○ スイカのはっぱのかたちはちょっとキクのはっぱににているのね。(牧子)

○ ヒツジの毛ってほどいた毛糸みたいにチリチリチリッとちぢれているよ。(信夫)

 このコトバ群には、うらもなければおもてもない。

 インテリ派の〝どうです、よく知っているでしょう、えらいでしょう〟の言外の心づかいもなければ、幼児派の〝おれがおれが〟〝あたしには、ぼくには〟のこちら中心のつよ心づかいもない。

 五感によってつかみえた正真正銘のコトバだけである。これこそが子どもの自然交渉からみてホンモノのコトバというものではなかろうか。≫(『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三一七~八頁)

 

 引用には「心づかい」という言葉が出て来ます。これは配慮という意味と捉えては、ここでの意義を失います。庄司和晃によれば、「心づかい」とは、心=認識の外部への表出を意味します。つまり認識から表現へという過程の動的な把握のことです。柳田國男から「言葉は心のつかい」と聞いたという庄司の経験にもとづいています。

 さて、前回(11/31)とりあげた「Ⅲ 子どものインテリ派」では、庄司和晃の<知>に関する一般的な見方を「体験からの会得」と「成長・発達した心」の二つによって構成されるものだと書きました。ここを踏まえれば、庄司が「ホンモノのコトバ」として捉えているのは、「五感によってつかみえた(体験から会得される)」ものであって、しかもコトバの裏にどんな心づかいも干与しない対象認識そのものをさしています。短く言い直すならば、「ホンモノのコトバ」とは、体験(五感)から会得される対象認識そのものだということができましょう。

 私の言葉で言い直せば、このような「ホンモノのコトバ」こそが、自分の本当の気持を表わす「ハラの言葉」を養うのではないでしょうか。ただひたすらな対象認識は子どもの肚に得がたい、その子に固有な感情や表象や疑問を立ち上げるはずです。このことは、引用の「子どもの体験派」のコトバ群が証拠立てています。もっと言ってしまえば、子どもの「肚」を養うのは、庄司が捉えたような自然交渉のなかで生み出されるコトバ群なのです。

 もう一つ見逃せないことは、<知>は成長・発達するものだと庄司が捉えている点です。このことは「ホンモノのコトバ」についても新たな視点をもたらします。それは、五感にもとづいた対象認識によって子どもの肚が養われ、やがて「ハラのコトバ」が新たな<知>を作り出すという構図です。この頃の庄司にとって小学生のコトバ群の研究は、ホンモノの<知>を生み出すための道標がしだいに輪郭を鮮明にしてゆく過程だったのではないかと想像したくなります。