Wind Letter

移りゆく季節の花の姿を
私の思いを
言葉でつづりお届けします。
そっとあなたの心に添えてください。

随筆「8月の思い」

2023-09-08 17:09:00 | 随筆

                  高安ミツ子


   異常気象が続いた八月が終わりました。日本の季節が変わってしまうのではな

  いかと危惧するくらいの猛暑は続き、体調も疲労感が増すばかりでした。それに

  つけても、猛暑と同様に社会の動きが暑苦しく感じます。ウクライナの戦争は続

  き、テレビの情報は稚拙で品位がなく、CMは人の欲望を煽っているように思え

  てなりません。欲望の追及は人に幸福感をもたらせるものなのかと問うてみたく

  なるのは私の年齢からくる所以でしょうか。変わりゆく時代の中で私の八月を記

  してみたいと思います。

   我が家の八月は猛暑と 愛犬「こむぎ」の介護と草花の水かけの日々そして私が

  インフルエンザにかかったことでした。

   愛犬「こむぎ」は一九歳と八か月が過ぎ、何とか頑張っています。今は歩くこと

  もままならずおむつを付けた状態です。横になったまま足をバタバタさせたとき、

  何を望んでいるか推察して対処している状態です。随分我が家の空気を癒してくれ

  ましたので、最後まで看取ってあげなければと思います。しかし、鳴き声を出せな

  いほど弱った様子を見ると、切ない思いになります。こむぎの生命が一九年も私た

  ちと重なっていたことに愛おしさが沸くばかりです。生命にはバーチャルと異なっ

  た重さがあるからこそ、愛おしさが増すのではないかと思うのです。

  今年の猛暑で庭の花々の葉がやけどをしたように茶色くなりました。朝夕水やり

  をし、しかも葉水もたっぷりあげていたのですが、この猛暑は花たちにとっても痛

  手のようでした。

   今年七八歳になる私は過去の思い出ばかりが多く蘇ります。さすがに、自分の未

  来への予測はできません。かろうじて未来を感じさせてくれるものが庭の草花です。

  来年咲くように花を植え替えたり、剪定をすることで、草花の生命を育てる現実の

  私と未来に咲く花たちへの思いがつながっていくように思えるからです。

   アメリカのボストン郊外の広大な庭で草花を愛でほぼ自給自足に近い生活をした

  絵本作家ターシャチューダーのことがいつも思い出されます。ターシャは「美しい

  庭は喜びを与えてくれる」とまた、「草原に咲き乱れる白いデイジーを想像してみ

  て。無数のデイジーが光を浴びて白く輝くの。ほかになにもいらない」と話してい

  ます。欲望のよる幸福感ではなく自然の中に生きる本来の人間の姿を見る思いにな

  るのです。ターシャの庭ほど広くはない小さな我が家の庭ですが、季節ごと私に多

  くの喜びを与えてくれています。

    今宵は大輪の夕顔が咲きだしました。涼風が吹くころになると、夕暮れから見ら

   

 

  れますが、暑いうちは夜にならないとみられません。一日花です。宵闇に咲く純白

  で気高い香りに満ちた夕顔の花には魅せられます。鉢植えをはじめ、地植えや、は

  たまた紫陽花に絡むように傍らに植えました。毎夜いくつ咲いたか幼児のように数

  えています。昨夜の満月の夕顔はくっきりと宵闇に浮き出たように咲いていました。

  また猛暑の中、けなげに咲いてくれた花があります。万葉植物の「檜扇」(色彩は

  緋色)と「南蛮ギセル」(色彩はキセルに似た部分がピンク色)です。強いから時

  代を越えて生き残ってきたのでしょうか。元気に咲いてくれました。ちなみに「

  南蛮ギセル」は万葉のころは「思い草」といったようですが南蛮人が吸っているキ

  セルに花の形が似ていることから、名前が「南蛮ギセル」に変わったようです。個

  人的には「思い草」のほうがよいと思っています。この二つの花は義母が作ってい

  たものを受けついだものですが、毎年咲いてくれます。思い出を運んでくれるうれ

  しい花です。そして今年は酔蝶花の種を庭のあちこちに撒きました。朝夕花火のよ

  うな形で咲きます。初冬になると色が鮮やかになって一日中咲いてくれます。

  猛暑の中でも秋の近さを知らせるように「吾亦紅」「ほととぎす」「秋海棠」も咲

  きだしました「中秋の名月」では活躍してくれる花たちです。

   初秋から咲きだす朝顔に「天上の碧」があります。蔓を伸ばし咲きだしましたが、

 

  猛暑のため咲ききれない花もあります。この花は朝だけでなく一日中咲き、初冬ま

  で咲いてくれます。名前のように上に上に伸び蔓の先端にいくつかの花を咲かせま

  す。嘗てサントリー美術館で琳派の日本画家鈴木其一の作品「朝顔」を見ました。

  その色合いそのものの朝顔です。他に類しない碧の色は、まさしくフェルメールブ

  ルーといえましょう。早朝花たちに水やりをするのですが少しずつ花には変化があ

  ります。その分私も色んなことができなくなっていくのでしょうが折りあいを付け

  て生活しなければと思う日々です。毎朝花を見ていると人間の心に響くものは理論

  ではなく情感ではないかという思いが募ります。ふと、同じ思いをしたことが蘇り

  ました。宮沢賢治生誕某年の記念講演が日仏会館でありました。二十代のころ「玄

  」の創刊同人であった亡き友「染谷比佐子」さんとでかけ、谷川徹三と草野心平の

  講演を聞きました。谷川徹三は宮沢賢治について論理的に解明しながらの講演でし

  た。詩人草野心平は詩の朗読でした。よろよろと登壇し何も語らず賢治の詩を全身

  で朗読しました。その時の朗読が心にしみわたり涙を抑えることができませんでし

  た。実に対照的な二人の講演で、私にとって草野心平の朗読は逸品だと今でも心に

  刻んでいます。花を見ているといろんな思いが交差し自分の心が洗われていく思い

  になります。

   八月の終盤インフルエンザにかかりました。高熱が続き苦しい日々でした。「死

  ぬときは誰でもいいから傍らにいてほしい」と高熱の中で思ったものでした。平安

  時代、阿弥陀如来が死者を迎えに来る「来迎図」が盛んに描かれたそうです。安ら

  かな死を願う平安時代の人々の思いとリンクする私のインフルエンザ体験でした。

  猛暑の中の私の八月が終わりました。時代が変わろうとしています。私の記した

  思いも時代の中では振り向かれないただの落とし物かもしれません。それでも書く

  ことで自分の立ち位置を定めたい思いに駆られるのは私のエゴイズムといえましょ

  うか。

 

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随筆 「思い出の絵画」

2023-05-18 15:25:36 | 随筆

                        高安ミツ子


         

   

 

    庭の花々の世話で飽きることのない日常を過ごしていますが、先が見えないコロナ禍の

 三年間は内省することが多くなり、そのうえ老いへの更新は止まることがありませんでし

 た。日々私のどこかが削られていく思いがありました。私の立ち位置から考えても未来を

 想像することより、過去の時間が多い所以でしょう。年齢を重ねた特権でしょうか数々の

 思い出が蘇ってくるのです。自己の感傷かもしれませんが、一枚の写真のように心の底か

 ら浮かび上がってくるのです。それは一種の懐かしさをさ迷い歩くような思いにもなりま

 す。 
  日常の合間に、季節の彩の合間に、私の心模様によっても思い出は蘇ってくるのです。

 私の心が漠然とした寂しさを感じるとき蘇る一つの絵画があります。日本画家横山操(よ

 こやまみさお)が描いた「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)そして「越後十景」です。

 確か国立近代美術館で開催された「横山操」展で見た絵画でした。もともと「瀟湘八景図」

 は中国の禅僧画家牧谿(もっけい)が、中国の瀟湘地方の風景八枚を巻物として描いたも

 のです。牧谿の水墨画は鎌倉時代の末期に日本に渡ってきたようです。室町幕府の足利家

 は美術品の収集をしたり、一芸一能に優れた人を阿弥と称する芸術家集団をつくったり、

 有能な人を抱え込んだりしました。そんな尊氏のもとに中国画家牧谿の絵が持ち込まれま

 した。尊氏は絵巻物「瀟湘八景図」を切断し大きな掛け軸に直し自らの落款を入れて所持

 していました。牧谿の水墨画はやがて日本の禅僧による水墨画として発展していくわけで

 す。

 「瀟湘八景図」は足利から朝倉、そして織田信長の手にわたり信長は家臣に「瀟湘八景図」

 を分け与えたようです。「瀟湘八景図」は時の権力者を渡り歩いた訳です。そして徳川の

 世になり八代将軍吉宗が「瀟湘八景図」に興味を示し、各大名家に散らばっていた「瀟湘

 八景図」を狩野派の絵師に模写させ、それらを巻物の形に再現しました。こうして歴史の

 中で翻弄された「瀟湘八景図」が曲がりなりにも元の形に戻ることができたわけです。

  後年、近江八景(琵琶湖周辺)や横山大観、横山操等が「蕭湘八景」を描いているよう

 に「瀟湘八景図」は日本の画家たちに大きな影響を及ぼしたことが伺われます。

 横山操の初期の絵は大きく荒れ狂ったような表現でした。後年、水墨画を描くようになる

 と絵画の雰囲気が一転します。横山操の「瀟湘八景」とは横山の心象風景であるのでしょ

 うか。一気につながる故郷ではなく、その感情は曲線のように揺れ動きその彼方にある故

 郷の越後を描いたのではないかと思われます。故郷越後の風景に、牧谿の描いた絵と同じ

 題名の「瀟湘八景」を描いたのです。これに更に二点を加え「越後十景」を描きます。

  私はこの絵を見た時、絵の前から動くことができませんでした。確か和紙を使っていた

 ように思える絵画でした。墨の濃淡、光の微妙さ、そして雨、漁村、日本海の寂しい雰囲

 気が胸に迫るものがありました。私は絵が泣いていると思いました。

 その時、ふと思い出したことがありました。以前荒川法勝先生が「君たちは悲しいと記し

 ているが書かれている作品が泣いていないですね」と話されたことがありました。作品が

 泣くとはどういう意味か私には理解できませんでした。横山の絵を見て「作品が泣く」と

 は、このようなことだと知らされたのです。後日横山と盟友であった日本画家加山又造が

 「横山の絵は泣いている。俺には描けない」ということをテレビで話しているのを見たこ

 とがありました。あの時私が感じた思いは絵の力であったと認識したのです。それは技術

 力を踏まえ画家の内面から溢れてくるものだろうと思いました。横山は不義の子として生

 まれ、実母は強制的に他家に嫁がされます。横山は養子に出され、その養子先の母親もな

 くなり孤独の中一四歳で故郷を捨て上京しました。ですから故郷への思いは複雑なもので

 あったと思います。

  更にシベリアにも抑留され捕虜生活という辛酸な体験後、三十歳で帰国します。数々の

 苦労を重ね、やがて熟成された精神の在処(ありか)としてたどり着いた世界が抒情性の

 ある「蕭湘八景」や「越後十景」を描かせたのではないかと勝手に推測しています。日常

 の中でふと寂しさを感じるとき「越後十景」が頭をよぎります。「越後十景」は既に多く

 の人に語りつくされたことでしょうが、私の心の底には影のように眠っていて、私の生を

 見守ってくれるまなざしのように思えるのです。「瀟湘八景」と「越後十景」は私にとっ

 て懐かしく特別な思い出の絵画となっています。

  年齢を重ねたせいか私の思い出袋は只今膨れ上がるばかりです。

     

        

  5月だというのに今日は夏のような暑さでした。体はまだ暑さの準備が
できていません。
 今年は少し早めに夕顔の種を撒きました。発芽を楽しみにしています。
発芽を見るたびに感動するのは私だけではないのですが、せっかちな
夫は種をまいた先から早く出ないかなと話しています。猿蟹合戦の蟹
が「早く目を出せ柿の種。出さぬとハサミでちょん切るぞ」
といった蟹の心境でしょうと笑ってしまいました。
酔蝶花(すいちょうか)も撒きました。
発芽率が高く、少しおろぬかなければならない状態になりました。
開花の期間が長い花です。暑いうちは朝晩だけしか花は見られません
が涼しくなると初冬まで一日中みられ、涼しさで色合いが深くなり
花火のように咲き楽しませてくれます。
 また我が家の近くにある岩川池の小山には野生の「定家葛(ていか
かずら)」が白い小さなプロペラのような花をつけ桜や杉に絡みつき、
龍のように天に昇る勢いで咲いています。その風景は圧巻で息をのむ
思いにさせてくれます。野生のだいご味ここにありと思えるほどの風
景です。「定家葛」には花の伝説があります。藤原定家が式子内親王
に恋心を抱いたがかなえられず内親王が亡くなるとその墓に定家葛と
なって墓に絡みついたという花だそうです。
花伝説も楽しさの一つに思えます。
 植物といえば植物学者の牧野富太郎が思い出されます。富太郎は
「雑草という草はない」という名言を残されました。知らない花を
見るとその思いが蘇ります。
今は亡き義父が「これは牧野さんが描いた植物採集図鑑だ」と古び
たモノクロの図鑑を大切そうに開きながら義父がわからない植物の
名前を調べていたことが思い出されます。

季節になるとひたむきに咲いている花々、そのみずみしさは年齢を
重ねる私の寂しさにときめきの灯をつけてくれます。

今年は紫陽花が早く咲き出しそうです。
季節の移ろいが早いようにおもわれます。

                          (2023.5.17)

 

 

 

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随筆「よもぎ摘み」

2023-03-03 11:16:34 | 随筆

             

                         高安ミツ子


     

 

    寒さの中でも、少し暖かい日があって、紅梅が一二輪咲きだし、庭に萌黄色のふきのとう

   を見つけると春の前触れを感じます。

   「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」と百人一首の歌が思い出され

   ます。 


    我が家(夫と二人)の春を呼ぶイベントによもぎ摘みがあります。摘む場所は義母の生家

   の方が教えてくれました。犬も人も入らないよもぎ摘みに最適な場所でした。摘んだよもぎ

   のごみを取り,茹で、蒸したもち米と混ぜ餅つき機に入れます。つきあがると草餅が出来上

   がります。草餅を丸めますが、形は一定にはいきません。それでも、草餅は春の色合いと香

   りをもたらせ華やいだ気分にさせてくれます。出来上がった草餅は春便りと称し子供や兄弟

   に送っています。終わるたびに、来年は無理かもしれないと言いつつ新しい春を何回か迎え

   てきました。しかし、体力の限界が近づいていることは間違いないでしょう。 

   よもぎ摘みの楽しさは、枯れた草木の中で陽に当たったよもぎが、両手を広げたようにや

   わらかく育っているのを見る時です。辺りを鶯の囀りが響き渡り、太陽とよもぎと鶯と私は

   空間でなじんで、のどかな時間になります。

    しかしながら不思議なことに、よもぎ摘みの場所の鶯は「ホーホケ」と鳴くのです。最初

   は力を抜いているのか、面倒なのかと思いその省略した囀りに笑ってしまいましたが、どう

   も鶯は場所により囀りが違うことがあることに気づきました。子供が住んでいる成田市の鶯

   は「ホーホケキ・ヨ」とキ・ヨを強く鳴くのです。我が家に聞こえる鶯の鳴き声は一般的に

   言われる「ホーホケキョ」です。ある時叔父にその話をすると「京都から江戸に嫁いだお姫

   様が江戸の鶯は訛っているからと京都から鶯を運ばせて江戸で放したところ鶯はきれいに囀

   るようになり鶯の名所になった」という話を叔父から聞き囀りの違いあることを認識したわ

   けです。刷り込みという話を聞いたことはあります。鳥類のヒナが孵化直後に初めて見た動

   くものを追いかける現象だそうです。鶯も親鳥の囀りを聞いて育つのですから囀りの刷り込

   みがあることは当然でしょう。寧ろ囀りの違いがあるからこそ、それぞれの親鳥が示す子供

   への慈しみの証のようにも思え温かい心持なります.

   私は時代の恩恵を受けながら、便利さ包まれて日常生活を過ごしています。ですから生活

   のうえでの必然性からよもぎ摘みをしている訳ではありませので、他者から見たらお遊びだ

   と思われるかもしれません。確かに仕事ではないので遊びといえなくはないのです。それで

   も、実生活の中でのどかさを感じる時間は少ないかと思えるのです。のどかさとは便利さで

   も不便さでもなくほのかな命の明かりをゆったり灯せる瞬間ではないかと思えるのです。

   よもぎ摘みは私にとってのどかさとの出会いかもしれません。

   子供のころは意識することなく移り変わる四季に包まれ遊んでいました。自然には無言の

   優しさと荒々しさが共存していることを遊びを通し子供心に感じたからでしょうか。四季の

   移ろいをできるだけ受け取りたいという願望が私の根底にあることは否めません。よもぎ摘

   みもその願いの一端であるといえましょうか。確かに年とともに記憶の曖昧さは増えていき

   ますが、それでも私の中に潜む感情を喜びに変え、はかなさも含めた情感を受け止めてく

   れる自然は鶯の親鳥の慈しみに似ているように思えてくるのです。

   まもなく黄金色にミモザが庭に咲き春到来となりましょう。

   今年のよもぎ摘みが始まることでしょう。

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随筆 「コロナ禍の日々」

2022-03-05 16:50:08 | 随筆

                       高安ミツ子


 

    

 

 コロナ禍で生活していると外とのかかわりが少なくなるので自分の心探しをする時間が
増えていくように思える。思い出巡りが格好の時間となっている。私の年齢になると思い
出が多くなり、その中でも覚えているものと忘れているものがまじり合って時は過ぎてい
る。
 しかし、ふとした出来事で、過去が私に握手をしてくるような思いに駆られることがあ
る。その一つの出来事を記してみたいと思う。歌舞伎役者の中村吉右衛門が昨年の11月に
逝去された。ほぼ私と同世代の77歳であったことを知った。まさしく、吉右衛門の死は私
の思い出の一つを蘇らせてくれたのである。~太宰治の作品集より~「太宰治の生涯」と
銘打った、作品を通した太宰の生涯の芝居を東京の芸術座で見たことがふいに思い出され
た。昭和四二年の公演で太宰治役は中村吉右衛門であった。演じる役者は吉右衛門を襲名
したばかりで初の現代劇出演であったようだ。演じる吉右衛門も見る私も20代の若さで
あった。若いころは太宰文学に引き付けられるものであるが私もそんな生きにくさを感
じていた時期であったのだと思う。公演の中で、作品「津軽」からの場面があった。太宰
を三歳から八歳まで育てた女性「たけ」に太宰が会いに行く内容がとても印象に残ってい
る。病弱だった母代わりに太宰の幼少期を慈しんでくれたのが女中「たけ」であった。本
を読んでくれたり、昔話をしてくれた「たけ」への母性を求める旅であり、故郷を知る旅
でもあった。それが作品「津軽」である。この作品からは、素の太宰を感じられたのであ
る。見る私には「たけ」役の三益愛子と吉右衛門の演技に心動かされ、無性に涙があふれ
たことを思い出された。吉右衛門について逝去された後知ったことだが四歳にして吉右衛
門は「播磨屋」の養子となり歌舞伎への苦しい精進をしたそうである。「播磨屋」は実母
の生家であったという。太宰の「たけ」への思いと同様の物が吉右衛門の内部にもあり、
その思いが見る私にも伝わってきたのだろうかと今にして思われるのである。太宰の思い
出つづりはまだ続いていくようだ。
 今から一〇年は経っているのだろうか。「White Letter 」の同人四人で文学散歩をした。
同人の田村きみたかさんが企画して三鷹にある禅林寺の太宰治のお墓を案内してくれたこ
とがあった。若い人に人気がある太宰の命日の「桜桃忌」の時期ではなかったので静かにお
参りができた。また同寺にある森鴎外のお墓もお参りすることができた。更に太宰が山崎富
栄と入水自殺したという玉川上水沿いを四人で歩いたことが思い出された。太宰が亡くな
ってからの長い時間の経過で風景も変わっただろうと思われた。しかし、玉川上水沿いに
「エゴ」の大木があり茂るように小さな白い花がたわわに咲いていた。感情移入であろうが、
太宰のつぶやきのように思え、その白の美しさを見上げながら通り過ぎたことが蘇ってく
る。田村きみたかさんを先頭に佐藤真理さん、高安義郎、私の四人にとって、それぞれの思
い出深い散策となったことが懐かく、田村さんに感謝したい思い出となっている。その後同
人の佐藤真理さんは青森県金木にある太宰治の生家「斜陽館」を訪れたことを知った。私は
いまだ訪れる機会がないままである。このように、思い出をまさぐることは、自分の心の
「なごり雪」を捜しているようにも思えてくる。そういえば、太宰の作品「津軽」の本文に
入る前ページに津軽の雪という題名があり  こな雪 つぶ雪 わた雪 みづ雪 かた雪 
ざらめ雪 こほり雪 と雪の種類が記されていたことが蘇ってきた。私のなごり雪は勿論そ
の中には含まれてはいない。コロナの時期だからこそ、津軽の雪の種類になごり雪も加えて
私の懐かしさを上乗せさせてみたくなってきた。そうすることで雪景色がはるかに広がっ
ていくことを感じた。
 思い出にふけりながら窓の外を見やると庭の餌台にはヒヨドリが餌をついばんでいる。
雀はボケや梅の木にとまりヒヨドリが飛び去るの待っている。体の小さな雀は絶えずおど
おどして餌をついばむのである。このような僅かな時間経過を知らせる一コマでも、何故か
今日を生きている証のように思え、愛おしくなってくるのである。また、朝、雨戸を開けた
途端、裸木となった冬の欅の背後から昇る朝日の輝きは、まさしく「覆された宝石のやうな
朝」(西脇順三郎作品 天気より)とうたわれたことが思い出され、まぶしさと神々しさが
交り合い生命の喜びを感じさせてくれる一コマである。このように今ある小さな出来事と思
い出を交差させながら格別なことはないまま、コロナ禍を過ごしている。しかし、これから
の日常はコロナ前の日常とは異なってくるかもしれないが、同人の皆と心置きなく語られる
例会を心待ちにしているの私である。           

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随筆  「若木山」作品との出会い

2021-12-02 18:24:04 | 随筆
    随筆
               
                                       高安 ミツ子 
                      

       

      
                                    日本画家 若木山 「芙蓉」
 
         
         私は昨年の九月に「今日の風」と題した詩集を発行しましたが、発行にあたり日本画家若

          木山氏の作品「芙蓉」を表紙絵に使わせて戴きました。使用にあたり、ご遺族であるお嬢様

          道守友視さんからは快いご承諾の賜り、心から感謝したい思いでおります。

           作品「芙蓉」は嘗て義父が若木山氏から直接購入したもので、私が結婚した当初から我が

          家に飾られておりました。我が家には若木山氏の作品が三点あります。一点は夫高安義郎が

          出版した詩集「母の庭」の表紙に使わせていただいた「紺春」と題された絵で、二本の木蓮

          の花の背後から白や桃色や赤の椿がこぼれんばかりに咲いて、輝くように咲く春のまぶし

          さが表現されています。二点目が「芙蓉」で、夏の日差しを浴び、風を受け花よりも花らし

          くと思えるほど夏を鮮やかに咲いています。三点目は大きな作品の下図で「島の椿」と題さ

          れ、より造形色が強く感じられる作品です。独創性を求め新たに挑戦された作品だと思えま

          す。この絵は現在義姉が所有しています。

           この三点の作品は若木山氏の独特な構成で描かれており、将に我が家の営みと共にあっ

          た作品だといえましょう。

           義父は若い頃画家になりたいという思いがあったそうですが美術学校には行かず博物

          (生物)学の教員になりましたが、プロとして表現している若木山氏のアトリエを訪ねるこ

          とは、この上ない楽しみであったと思われます。

           夫が詩集の表紙に作品「紺春」を使わせていただく際、若木氏宅のある町、土気に訪れま

          した。この時若木山氏の夫人が私どもを迎えてくださり、周りが山野草に囲まれたお茶室で

          手持ちの遺作である色紙作品を拝見させて下さいました。また、義父がアトリエをよく訪

          れたことも覚えていてくださり、二代に渡りご縁があったことを嬉しく思いました。

          夫人が他界され、連絡が取れなくなっていましたので、著作権の関係から、氏の作品使用

          は困難かとも思われましたが、以前訪れた折夫人が「若木の作品はほとんど千葉県立美術

          館に収納されています」と言われたことを思い出したのでした。そこで一縷の望みを託し

          て千葉県立美術館に連絡を取りましたところ、学芸員の相川順子さんが相談に乗ってく

          ださり、現在著作権を継承されているのはお嬢様の道守友視さんであることを紹介くださ

          ったのでした。お陰で友視さんからは作品使用の快いご承諾をいただきました。

          出来上がりました詩集「今日の風」をいち早く道守友視さんにお送りしたところ、友視

          んから若木山夫人の歌集「山の家居」が送られてきました。それを拝読し若木山ご夫妻の

          生き方と、御両親を思う娘さんの心根に打たれました。

           我が家にあった三副の絵に加え、歌集「山の家居」と出会った縁から、この日本画家の人

          物像を記しておきたい思いに駆られたものでした。

           画家若木山は一九一二年(明治四五年)熊本県に生まれました。同県出身の堅山南風に師

          事し、その後横山大観の内弟子になり四年近く日本画を学びますが、そのさなか召集され敗

          戦後シベリア収容所で二年間捕虜生活を送りました。一九四七年(昭和二二年)シベリアよ

          り復員後の翌年一九四八年(昭和二三年 三三回日本美術院展に「常陸乙女」が初入選しま

          す。一九七〇年(昭和四五年)日本美術院展「池の春」奨励賞受賞。一九七一年(昭和四六

          年)「夏の水」日本美術院賞大観賞受賞し一九七四年(昭和四九年)六十代の若さで逝去さ

          れました。没後一週間後日本美術院同人に推挙されました。

          若木山夫人は若木山氏の死から三十三年後に逝去されました。夫人は若木山氏との生活

          の中で茶道の教授をし、また短歌を書いておられました。

          若木山氏は生前、自らの絵を添えて夫人由枝さんの短歌集を出してあげたいと語ってい

          たそうですが叶いませんでした。それを実現されたのがお嬢様の道守友視さんでした。

          若木氏が夫人の歌集を出そうとした訳は、絵を描くことがすべてで、それをさせてくれ

          た夫人に対する感謝の気持ちであったことをご存じであったお嬢様の友視さんは亡き父の

          代わりに母の歌集 発行をしたいという思いがあったようです。

          夫人逝去後の一周忌に、若木氏の絵を添えた短歌集「山の家居」が出版されました。表紙

          絵にかたくりの花をあしらった歌集から画家若木山氏と夫人由枝さんの人間像が伝わって

          まいりました。友視さんは夫人の姪御さんで若木ご夫婦の養女になられた方です。ご夫妻の

          清廉な生き方がお嬢様に受け継がれていることを感じました。

          友視さんが遺稿集としてまとめられたこの歌集には父母への思いを次のように記されて

          います。

          「父六三歳母八六歳、それぞれの生涯を見事に生き、私たちに立派なお手本を残してくれま

          した」(歌集 山の家居 父と母の逝き方)と記されています。

          また、平成十八年に夫人が入院した数日後、友視さんを病院に呼んでこんなことを話され

          たそうです。その話の内容は、

          「今は普通に話せるけれど、これから先どうなるかわからないから、若木山の最期の様子

          をあなた達に伝えておきたい」と話されたそうです。

          若木山氏は、

          「描きたいものはまだ沢山あるけれど、絵描きとしての生き方に悔いはない。他のことに

          思い煩わされることなく絵を描くことに専念させてくれてありがたかった。また生まれ変

          わったら絵描きになる」と強く言われたのだそうです。さらに、

          「今生では体が弱かったから、生まれ変わったらお医者さんにと勧めたが、やはり絵が描き

          たいから絵描きになる。次の世もまた大変かもしれないが私の奥さんになってほしいと」と

          由枝さんに言われたそうです。夫人も、

          「あなた(若木山)が感謝してくれるように私も今までの生活は何ものにも変えがたく幸せ

          でした」と共に歩いた最期をお嬢様に語り、その生き方を次世代に託されたようです。更に、

          「与えられた環境の中で慎ましく、心豊かに若木山が残した小さな茶室と山野草の庭を大

          切にした生活には、何も思い残すことはない。死なない人はいないのだから悲しんではいけ

          ない」と諭すように母由枝さんは友視さんに語られたそうです。「安らかに父の許に旅立っ

          たと信じています」と友視さんは語ります。さらに、

          「縁あってそういう二人の身近で生活できたことをありがたく思い、父母の人生に関わっ

          てくださった全ての皆様に心より御礼申し上げたいと存じます」と結ばれています。

           最期の別れを迎え、自らの生きた姿勢を愛情深く子供に語る若木山夫人。そして、ひたむ

          きに、これを受けとめる子供の姿には、悲しくも美しさを感じさせる一文章した。まさしく

          「幸せとは」という問いの一つの答えを見る思いがしました。

          若木山氏はスケッチ旅行で外房線を利用した時、土気の駅に山百合が美しく咲いている

          のを見てここを住処にしようと思われたそうです。若木山氏にとって縁も知人もない土地

          へ東京からの五〇歳過ぎての転居でした。友視さんによると、

          「土気の地は父が最も作画三昧できた場所であった」と記しています。           

         夫人の歌集「山の家居」にもその出来事が歌集の冒頭に記されています。

         ・この町に住みたき願い一途なる

             夫と小さき 駅に降り立つ

           若木山氏とほぼ同年代の画家でシベリアに抑留された洋画家香月泰男はシベリアの記憶

          をたどり、極限状態に置かれた苦痛や死者への鎮魂の思いをシベリアシリーズとして多く

          作品化されています。若木山もシベリアに抑留され、その過酷な体験を背負っているはずな

          のに我が家にある若木山の絵は陽光の輝きにあふれています。おそらく細い体でシベリア

          の抑留生活を乗り越え日本に帰ってきた若木山は過酷な体験があったからこそ、それ等の

          影を飲み込み光の方向へ生きる輝きを表現していかれたのでなないかと思われます。表現

          する作品内容は洋画家香月泰男とは実に対照的であると思えます。

           大矢著「画家たちの夏」より抜粋の文。

           「確か昭和二十一年の夏の終わり頃だったと思う。彼は私たちのそばに在っていつも暇を

          みつけては絵を描いていた。色鉛筆で、小さな紙に日本をなつかしむように、緑の林の中に

          一すじの滝が流れている日本画であった。私は彼の気持をそらさないように気配りしなが

          ら、毎日後ろから見せてもらった。『あなたも好きなら描きませんか』と言ってちびた色鉛

          筆を五色くらい頂いた。小柄で私より十歳くらい上かなと思われる人であったが、やさしい

          目にホッとしたものを覚えて心が和んだ。この邂逅以来払は、自分を取り戻したような思い

          であった。絵というものは、こんなにも人を変えていく力があるのか。この人のまわりだけ、

          恥ずかしくも醜く、狂人の殺気みたいなものは感じられなかった。春の花々に囲まれたやさ

          しさみたいな落ちつきが漂っていた」

           この一文からも若木山氏の人柄と作品の根底に流れている優しい息吹を感じます。

          復員した若木山氏は翌年一九四八年(昭和二三年)三三回院展に出品した「常陸乙女」が

          初入選し、一九五一年には「安房ノ海処女」と題した若い海女たちが海に潜る準備をしてい

          る健康的な姿を描き、一九五二年はサザエやアワビを収穫した海女が日焼けした体で岩場

          を歩く姿を描いた「海女」が出品されました。一九五三年「波上海女図」では灼熱の太陽の

          下、褐色の肌の海女たちが力強く、たくましく小舟をいきいきと漕いでいます。 

          これらの作品からは働く女性のたくましさと大らかさが、豊かな海の恵みに包まれている

          思いになります。更に岩の間に漂う水は光を反射しているように美しく感じられ、その波の

          描き方はやがて若木山の独特な造形方法を駆使した作品「島の椿」や「夏の水」につながっ

          ていくことを暗示しているように思えます。

         このように。絶えず新たなものへ作品追及する傍らで、氏を支え続けた夫人の短歌を紹介

         いたしましょう。


          ・椿活け茶の花さして足らいおり

             山の家居はつつましくして

 

          ・靴音をききし錯覚いく度か

             出てたる夫の帰り待つ夜  

     

          ・真夜中に醒めて構図を決めたりと

             画を描く夫の瞳すがしき 

           これらの作品から若木山氏を支えている夫人の思いとともに、山の生活と相まって澄んだ

          落ち着いた時間の経過が伝わってきます。二人の深い精神の結びつきを見る思いになります。

          また、若木山氏の師であった堅山南風の夫人に関しての短歌も有ります。

          ・画家の妻としての心得かくかくと

             吾をやさしく導きくれし   

       

          ・逝きてなお近々と添うわが妻と

             残されし師のことば身にしむ

       

           と若木山氏の師堅山南風夫妻への深い尊敬の思いが記されています。

          また若木氏が作品「池の春」で日本美術院展奨励賞を受賞した時は、これまで二人で乗り越

          えてきた時間が堰を切ったように流れ出し、その喜びの歌を詠っています。

 

          ・暑き日も休むことなく描きつぎし

             夫の受賞の 絵は会場に

 

          ・早き見たき心と恐れ入り乱れ

             夫の絵の前行きつ戻つ

 

          作品「夏の水」が日本美術院賞大観賞受賞時は、

          ・夫の絵が大観賞を受けしとう

             しらせに受話機ふるえつつ置く

 

          ・皇太子ご夫妻立ちて見給えり

             受賞の作品 テレビニュースに 

           また、戦争を境にして失った若木氏の作品も多くありましょうが、若いころ描いた絵を
           大事に持っていてくださる方への感謝の思いも夫人は綴られています。

          ・吾知らぬ若き日描きし夫の絵を

             開けて友は吾に見せくるる

 

          ・数少なき若き日のわが夫の絵を

             持つきみ家人さえなつかしき

          若木氏の人柄を含め堅山南風、横山大観という日本画における大家の下で学べたことは、


          若木山氏にとって大きな力となり、描く姿勢は師達の高みの世界に近づく思いであったと


          推測できます。淡々と自らの世界を追求し人、花、水を描き続けることが若木氏の世界で

          あったと思われます。

         夫人の短歌からも窺えるように夫人はその生き方を受け止め若木山という画家を支えな

          がら寄り添い続けました。

          若木氏が生み出す作品のすべてを優しく温かく包み、描かれた世界に喜びを見つけていっ

          た人生だったと思います。

          まさしく、忘れかけている日本人としての美しい姿を見る思いがします。

           現在若木山の作品一八点は千葉県立美術館に所蔵されています。いつかその全作品を拝

          見したい思いに私は今駆られています。 

          歌集「山の家居」のあとがきで友視さんは、

          「梅雨入り前のほんの一時、さわやかな風が通り過ぎてゆきます。はじめての経験で父と

          母の思いを一つにしたく遮二無二まとめあげてしまいました。」と記しています。

          若木山氏ご夫妻の一つの生きた証を見る思いがする歌集でした。

           ご遺族の友視さんが手がけた歌集を拝読し、若木山氏ご夫妻の人生が見事に完結された

          思いになるような穏やかな一時を味わえた思いになりました。清廉な若木山ご夫妻の歩み

          の中から生まれた作品「芙蓉」が私の詩集の表紙を彩ってくださいました。この出会いに、

          今、心から感謝したいと思います。

          そして、我が家にある若木山氏の作品は義父の思い出と共にこれからも大切にしていきた

          いと思っております。     

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