高安ミツ子
子供のころ私はよく熱を出した。当時は往診してくれる診療所の医師がいて
私が高熱を出すたびに往診してくれた記憶がある。先生は玄関を入るたびに
「またか」というのが口癖で熱が高くても、その声を聴くと子供ながら安心感が
わいたものだった。
「先生は軍医であったから口は悪いけれど優し先生だよ」と話す大人たち
の評判を聞いていたから不安はなかった。先生はやさしく聴診器をあて、熱
にあえぐ私の様子を見ながらペニシリンとブドウ糖の2本の注射をするのが
定番であった。ブドウ糖の注射器はとても太くペニシリンの注射器の方が細
い注射器であったが痛さは遥かにペニシリンの方が勝っていた。診察後はに
こやかに洗面器のお湯で手を洗いながら、口の悪さを駆使して家族の心配を
拭うように笑わせて、そして忙しそうに帰っていった。
先生の手当の後、熱が下がってくると普段は食べない桃の缶詰を母は食べ
させてくれた。喉が腫れて痛みがあるから、するっと口に入るものを食べさ
せようとしたのであろう。そんな記憶からか、今でも桃の缶詰は病気の時に
食べるものと思っている節がある。
また、喉の痛さを和らげる民間療法だろうが、塩を鍋で焼いて熱いうちに
新聞紙に移し塩をくるくる巻いて、更に手拭いで包んで細い筒状にして喉に
あてるのである。最初は熱くやがてホカホカとなる。そのホカホカが実に心地
よさがあって眠りにつくことができた。目覚めると塩はすっかり冷えていてごわ
ついたものが首の周りにあると気づいたときは、たいてい熱が下がった証であ
った。当時の寝るときに着たものは、季節ごとに母が縫った着物であった。夏
は浴衣、真冬は綿が入った着物(綿入れ)を着て眠ったものだった。
パジャマを着たのは中学生になったころだろうか。時代の変化とは実に面白
いものである。快適でないものはすたれていく一つの例であろう。
村の人々から慕われていた診療所の先生はその後奥様が病気で早く亡く
なり、一人暮らしが続いたそうである。その後医者になった息子が診療所に
赴任してきたが、先生が行う村の診療方法に否定的で先生と息子のそりが合
わず、息子は老いた先生に辛く当たったそうである。
その様子を知った村の人々は先生に同情しているという話を聞いたのは私が
村を離れて随分経ってからであった。戦争が終わり新しい生き方と古い生き方
が衝突していく時代の挟間を暗示しているように思えてくる話であった。。
あんなに優しく患者に接してくれた先生が辛い思いをしていたことを知り、変わ
りゆく時代の裏側には寂しさと虚しさもあることを知らされたような気持ちになっ
た。
歴史は勝者の歴史であるといわれるが日常生活でも勢いがあるものが強く
正当性があると思いがちであるが、消えゆく者にも一理はあるのではないか
と思える。
今にして思うと私は百日咳や肺炎を患いひきつけを起こしたらしいので先
生には随分お世話になったことだろう。親も私が育つまで大変だったろうと思
われる。子供を育てて初めて親の大変さがわかったがそれでも、何か照れくさ
くて母に感謝の言葉を直接言うこともなく年を取ってしまった。
中学時代は母に反抗的なところが多かったので今にして詫びたい思いに
なって辛くなることがある。母は膵臓癌で72歳の生涯を閉じた。
母と同居していた弟夫婦が孝養を尽くしてくれ、母を看取ってくれた。私の
中では返すことができない弟への借りが今でもあると思っている。
亡くなる前に母の人生を書いた内容の原稿用紙100枚が弟から手渡され
た。母が私に渡してくれと遺言していったとのことだった。おそらく名もない自
分の生涯を娘の私に受け止めてほしいという願いがあったのだと思える。小さ
いけれど一つの命の物語を受け止めることは、今私ができる役目だと思ってい
る。
医療は格段の進歩で病巣を発見し治療もでき、人の寿命は遥かに延びて
る。人生100年ともいわれている現状であるが、私にはそんな時間はないよう
に思われる。近頃体調が悪い日が続き不安を覚えることが多くなったからとい
えよう。そんな時、幼いころ往診してくれた武骨でぬくもりあった診療所の先生
がとても懐かしく、故郷を思い出す一つの明かりとなっている。
スピード感のある今の時代に中々着いていかれない私故、緩やかな時の
流れに懐かしさを感じてしまうのだろう。故郷の思い出話には奇をてらったも
のは何もない。ただ多くを語らず懸命に生きた人々のそれぞれの人生が蘇っ
てくるのである。
敗戦後の日本人は必至に働いていた時代だから、村のどこの家庭でも贅
沢な品はなかった。小学校の授業でアメリカでは各家に自動車があると聞き
驚いた。当時は各家に自転車くらいはあったが、自動車など想像できなかっ
た。使用する物の相違からも日本は貧しく戦争にも負けたのだからと西欧へ
の憧れとコンプレックスが重なっていたことが思い出される。西洋が正しいを
前提にした思考が日常を覆っていった。私たちの生活は便利さを求め西洋
に憧れ追いかけるように暮らし始めていった。確かに生活は快適になり個人
の自由が尊重され、西洋化が蔓延していった。
私たち世代は新しい便利さに目を見張りながら、敗戦を境に失っていく過去
の文化を気づかないふりをしながら快適さに比重をかけていったように思える。
いつの時代も得る物と失う物との繰り返しで進んでいくのであろう。
この頃、風の通り道の少なくなった新築住宅を目の当たりにすると自然の風を
受け入れることなく人間主体の住処へと変化していることを如実に知らされる。
秋の終わりになると柿の木に実った最後の柿の実を「施しの柿」といって鳥
たちのために村の人々は残していた。その心模様が快適さに包まれた日常から
消えていくことにどこか寂しさを感じるのである。ただ、これらの現象から人間も
生き物の一つであることが忘れられてきた証のように思えてならない。
郷愁だけでは今は生きていかれないといわれたら言葉もないが、日本人の
根底に流れていた自然との共存の言葉はやがて死語になってしまうのではない
かと危惧してしまうのは私だけだろうか。
人生の終盤を迎えた私は、小学校6年まで過ごした村の記憶は懐かしく私を
包んでくれる。近年は過疎になり人口を減っているようだ。しかし、どこの市とも
合併せず今でも村の名前が残っているので、私にとって懐かしさを手繰り寄せ
る力となっている。
山に囲まれ川の流れに沿った村は私にとって今でも郷愁の扉をいくつも開
けてくれるのである。思い出は懐かしさというフィルターをかけているから、そ
ぎ落とされている部分が多々あり、事実とは異なっていることもあるかもしれな
い。ましてや、現在の村は今を生きているから私の思い出の村とは当然違い
はあろう。しかし私の思い出の村は今もって記憶の中ではそのまま映像のよ
うに生きているのである。
時々村の思い出を振り返るとき、風景や空気が蘇り暮らしの中で日本人の
内面に受け継がれている一本の生きる筋のようなものを感じさせてくれる。
そして、老いていく私の気持ちを優しくしてくれるのである。