Wind Letter

移りゆく季節の花の姿を
私の思いを
言葉でつづりお届けします。
そっとあなたの心に添えてください。

随筆「8月の思い」

2023-09-08 17:09:00 | 随筆

                  高安ミツ子


   異常気象が続いた八月が終わりました。日本の季節が変わってしまうのではな

  いかと危惧するくらいの猛暑は続き、体調も疲労感が増すばかりでした。それに

  つけても、猛暑と同様に社会の動きが暑苦しく感じます。ウクライナの戦争は続

  き、テレビの情報は稚拙で品位がなく、CMは人の欲望を煽っているように思え

  てなりません。欲望の追及は人に幸福感をもたらせるものなのかと問うてみたく

  なるのは私の年齢からくる所以でしょうか。変わりゆく時代の中で私の八月を記

  してみたいと思います。

   我が家の八月は猛暑と 愛犬「こむぎ」の介護と草花の水かけの日々そして私が

  インフルエンザにかかったことでした。

   愛犬「こむぎ」は一九歳と八か月が過ぎ、何とか頑張っています。今は歩くこと

  もままならずおむつを付けた状態です。横になったまま足をバタバタさせたとき、

  何を望んでいるか推察して対処している状態です。随分我が家の空気を癒してくれ

  ましたので、最後まで看取ってあげなければと思います。しかし、鳴き声を出せな

  いほど弱った様子を見ると、切ない思いになります。こむぎの生命が一九年も私た

  ちと重なっていたことに愛おしさが沸くばかりです。生命にはバーチャルと異なっ

  た重さがあるからこそ、愛おしさが増すのではないかと思うのです。

  今年の猛暑で庭の花々の葉がやけどをしたように茶色くなりました。朝夕水やり

  をし、しかも葉水もたっぷりあげていたのですが、この猛暑は花たちにとっても痛

  手のようでした。

   今年七八歳になる私は過去の思い出ばかりが多く蘇ります。さすがに、自分の未

  来への予測はできません。かろうじて未来を感じさせてくれるものが庭の草花です。

  来年咲くように花を植え替えたり、剪定をすることで、草花の生命を育てる現実の

  私と未来に咲く花たちへの思いがつながっていくように思えるからです。

   アメリカのボストン郊外の広大な庭で草花を愛でほぼ自給自足に近い生活をした

  絵本作家ターシャチューダーのことがいつも思い出されます。ターシャは「美しい

  庭は喜びを与えてくれる」とまた、「草原に咲き乱れる白いデイジーを想像してみ

  て。無数のデイジーが光を浴びて白く輝くの。ほかになにもいらない」と話してい

  ます。欲望のよる幸福感ではなく自然の中に生きる本来の人間の姿を見る思いにな

  るのです。ターシャの庭ほど広くはない小さな我が家の庭ですが、季節ごと私に多

  くの喜びを与えてくれています。

    今宵は大輪の夕顔が咲きだしました。涼風が吹くころになると、夕暮れから見ら

   

 

  れますが、暑いうちは夜にならないとみられません。一日花です。宵闇に咲く純白

  で気高い香りに満ちた夕顔の花には魅せられます。鉢植えをはじめ、地植えや、は

  たまた紫陽花に絡むように傍らに植えました。毎夜いくつ咲いたか幼児のように数

  えています。昨夜の満月の夕顔はくっきりと宵闇に浮き出たように咲いていました。

  また猛暑の中、けなげに咲いてくれた花があります。万葉植物の「檜扇」(色彩は

  緋色)と「南蛮ギセル」(色彩はキセルに似た部分がピンク色)です。強いから時

  代を越えて生き残ってきたのでしょうか。元気に咲いてくれました。ちなみに「

  南蛮ギセル」は万葉のころは「思い草」といったようですが南蛮人が吸っているキ

  セルに花の形が似ていることから、名前が「南蛮ギセル」に変わったようです。個

  人的には「思い草」のほうがよいと思っています。この二つの花は義母が作ってい

  たものを受けついだものですが、毎年咲いてくれます。思い出を運んでくれるうれ

  しい花です。そして今年は酔蝶花の種を庭のあちこちに撒きました。朝夕花火のよ

  うな形で咲きます。初冬になると色が鮮やかになって一日中咲いてくれます。

  猛暑の中でも秋の近さを知らせるように「吾亦紅」「ほととぎす」「秋海棠」も咲

  きだしました「中秋の名月」では活躍してくれる花たちです。

   初秋から咲きだす朝顔に「天上の碧」があります。蔓を伸ばし咲きだしましたが、

 

  猛暑のため咲ききれない花もあります。この花は朝だけでなく一日中咲き、初冬ま

  で咲いてくれます。名前のように上に上に伸び蔓の先端にいくつかの花を咲かせま

  す。嘗てサントリー美術館で琳派の日本画家鈴木其一の作品「朝顔」を見ました。

  その色合いそのものの朝顔です。他に類しない碧の色は、まさしくフェルメールブ

  ルーといえましょう。早朝花たちに水やりをするのですが少しずつ花には変化があ

  ります。その分私も色んなことができなくなっていくのでしょうが折りあいを付け

  て生活しなければと思う日々です。毎朝花を見ていると人間の心に響くものは理論

  ではなく情感ではないかという思いが募ります。ふと、同じ思いをしたことが蘇り

  ました。宮沢賢治生誕某年の記念講演が日仏会館でありました。二十代のころ「玄

  」の創刊同人であった亡き友「染谷比佐子」さんとでかけ、谷川徹三と草野心平の

  講演を聞きました。谷川徹三は宮沢賢治について論理的に解明しながらの講演でし

  た。詩人草野心平は詩の朗読でした。よろよろと登壇し何も語らず賢治の詩を全身

  で朗読しました。その時の朗読が心にしみわたり涙を抑えることができませんでし

  た。実に対照的な二人の講演で、私にとって草野心平の朗読は逸品だと今でも心に

  刻んでいます。花を見ているといろんな思いが交差し自分の心が洗われていく思い

  になります。

   八月の終盤インフルエンザにかかりました。高熱が続き苦しい日々でした。「死

  ぬときは誰でもいいから傍らにいてほしい」と高熱の中で思ったものでした。平安

  時代、阿弥陀如来が死者を迎えに来る「来迎図」が盛んに描かれたそうです。安ら

  かな死を願う平安時代の人々の思いとリンクする私のインフルエンザ体験でした。

  猛暑の中の私の八月が終わりました。時代が変わろうとしています。私の記した

  思いも時代の中では振り向かれないただの落とし物かもしれません。それでも書く

  ことで自分の立ち位置を定めたい思いに駆られるのは私のエゴイズムといえましょ

  うか。

 

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