ひげ爺さんのお散歩日記-3

日々新た、今日は今日、明日は明日の風が吹く

「幸治君へ」

2020-09-24 15:58:01 | 日記
                   「幸治君へ」



今朝の最低気温は午前6時の21.5℃。    最高気温はお昼正午の26.5℃。
今日は終日曇り空。 お天気はイマイチですが、暑くも寒くも無く、過ごしやすい一日でした。


幸治君、ありがとうね。 幸治君が私のブログを読んでくれているのはお母さんから聞いて
知っていました。 でも君たち兄弟が私たちの事をここまで思っていてくれたとは…(感謝。
今日リハビリから帰ると、幸治君からお見舞いの群馬県名物の “天狗印の枝豆” が届いていました。
添えられていた私を気遣う優しい手紙にも感激したよ。
そうかぁ幸治君ももう45才かぁ、大竹の社宅に居た頃、幸治君や英治君が
幸ちゃんや真君と(私の子供たち)と仲良く遊んでくれていたのを懐かしく思い出すよ。


幸治君、英治君は大竹時代の先輩、Mさんのお子さんです。

Mさんにまつわる過去の思い出日記です。
2013-01-22  今日は母のデイケアの日。 妻は昼前から元社宅のお友達と昼食会の予定です。
朝は散歩して、昼から私一人で1週間分の食材の買い出しに行く予定でしたが、雨が降って いるので
先にスーパーへ買い出しに行って来ました。 帰宅すると妻が…
「お父さん、たった今、Mさんが今朝亡くなったって幸治君(息子さん)から電話が有ったよ」
Mさんは私の人生で、良きにつけ悪しきにつけ、一番影響を受けた4歳年上の職場の先輩です。

大竹時代、社宅が同じ階段の上下の部屋だったことから親密になり、以後、家族ぐるみの お付き合いでした。 
囲碁を教えてもらい、サツキ(盆栽)を教えてもらい、25歳まで 1滴のお酒も飲めなかった私を
こんな呑兵衛に仕立ててもらった…。 
私が船を持っていた 事も有り、良く魚釣りや貝堀りにも行きました。 
まるで兄と弟、兄弟の様な付き合いでした。
Mさんはいち早くマイホームを建て、社宅を出ていかれると、私もMさん宅の筋向いに 土地を確保しました。 

そこへ降って湧いた様な大竹工場の閉鎖。 
Mさんはまだ2~3年 住んだばかりのマイホームを置き、私は土地を置き、一緒に大阪に転勤して来ました。 
しかも同じ職場。 更にはその後の社内の移動先も同じ職場でした。 
Mさんが定年退職して大竹のマイホームに帰る時、「お前、定年したら、絶対大竹に帰って 来いよ。 
また一緒に釣りに行くど。 ワシが船を買うけぇ、お前はエンジンを買え」 って言っていたMさん。 
私は子供たちがこちらで結婚し、孫が出来、大竹へは帰れなく なりました。 
確保していた土地も売り払い…。 約束は果たせませんでした。 昨年11月、義母を見舞う為、
岩国に行った帰りに大竹に寄り、Mさんに会ったのが最後に なりました。 
病気の事などおくびにも出さず、にこやかに近況を話しておられました。 Mさん、安らかに…。
散歩していてもMさんとの思い出が走馬灯のように浮かんでは消え、浮かんでは消え…。
ただただ俯いて歩いていただけの散歩でした。


Mさんが亡くなった後も、奥さんとは交流が有り、春のアサリが美味し季節には “大野の小貝” を
秋には美味しい “ブドウ” を 冬にはMさんが好きだった “干し柿” 送って下さいます。


2015年03月17日   Mさんの思い出…
宮島口の近くに住んで居られるMさんからカキ(牡蛎)が2kg送られて来ました。
Mさんのご主人は私より4つ年上で、大竹に工場が有った時の職場の先輩です。
そして社宅も上下に住んでいました。 Mさんの趣味はサツキの盆栽と魚釣り。
植物好きの私はすぐにMさんと親しくなり、サツキの手ほどきを受ける事に…。
Mさんは傍らに焼酎を置き、チビチビやりながらサツキに針金を掛けて行くのです。
こんな事も…  有名なサツキ盆栽の師匠に弟子入りし、近くでサツキの盆栽店を開いている主人を
「この人(Mさん)の針金掛けは美しい」 と唸らせるほどの腕前でした。

私はMさんと親しくなる前は1滴のお酒も飲めなかったのです。
それがMさんにサツキの手ほどきを受けながら… お酒の手ほどきも… (汗。
当時私は小さなモーターボートを持っていたので、良く一緒に釣りも行ったものです。
Mさんはその近くに家を新築し、社宅を出ました。 私もMさんのすぐ裏手に土地を
確保して、何年か後に家を建てるつもりでいたのです。


そこに降って湧いた様な大竹工場の閉鎖話。
Mさんは悩んだ末、新築した家を置いて、家族で大阪へ転勤して来たのです。
私も一緒に大阪に転勤し、配属された職場が同じ職場でした(希望した訳では無いのに。 
大阪で2度職場を変わりましたが、いずれも同じ職場に配属されました。
まさに腐れ縁です。 当然私より4年早く定年を迎え、置いていたもう新築とは
言えない家に帰られました。
大阪を去る時、 「お前も定年したら必ず帰って来いよ、また一緒に釣りをするぞ。
ワシが船を買うけぇ、お前はエンジンを買え」 と言って…。
が、帰られてすぐに身体を壊されて身体が不自由になられました。
それでも小皿に入れた大豆を箸で隣りのお皿に移したり、マッチ棒を手でつまんで並べ替えたり、
懸命にリハビリに励んでおられたのですが…  数年前に…。  
今はその家に奥さん一人で住んでおられます。  人生って分からないものですね。


私も定年後は大竹に帰るつもりでいましたが、子供たちがこちらで結婚し、
孫が出来ると… 帰れなくなりました。 
すでにMさんちの近くに確保していた土地も手放し、ここが終の住み家となりました。
Mさんの奥さんから立派なカキが届き、夕食にそのカキフライを食べながら、
Mさん夫婦との思い出を妻と語り合った事でした。

幸治君、感謝を込めてバラの花(写真ですが)を贈ります。 ありがとうね。
コメント (4)
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