木村壮次著『日本には尊徳がいた』より
~心が狭く、ちぢこまっていると真の道理を見抜くことはできないんだ。
世界は広いから心も常に広くもたねばいけないな。
しかしその広い世界も、おのれといい、我というものを
その中に置いて見るようになると、世界の道理は、
そのおのれに隔てられて、見えるところは自分の方の
半分しか見えなくなってしまう。
おのれというもので半分だけ見ていると、借りたものは
返さないほうが都合がよいし、人の物を盗むほうが
最も都合がよいことになってしまうが、この時、おのれというものを
取り払って広い心になってみるときは、借りたものは返さねばならない
道理がはっきり見えてきて、盗むということは悪いことだということも
明らかにわかるんだ。だから、おのれという私物を取捨てる工夫が第一だ。
儒教でも仏教でも、このおのれの捨て方を教えるのが最も主なことになってるんだよ。
『論語』で「己に克ちて礼に復る」と教えているのも、仏教で見性といったり、
悟道や転迷といったりしているのも皆、このおのれを捨て去る修行なんだ。
おのれを取捨てることができさえすれば万事が不生、不滅、不増、不減の道理も
明らかに見えてくるな。~
人間にとって良ければ「善」という考えですから、人間が何を良いとするかが
極めて重要になってきます。
尊徳が繰り返し述べている、利己主義的な我をなくしていかなければいけないことは
確かなことです。
「幸福は人の為に生きる人生の中にあります。」