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「日本画の精髄とその伝統」 竹内栖鳳 (1921.3)

2021年04月20日 | 人物 作家、歌人、画家他

 日本畫の精髓とその傳統
             竹内栖鳳

 『凡そ筆を下 おろ すには、當 まさ に氣を以て主と爲すべし 氣到れば便 すなは ち力到りて筆を下すに便ち筆中に物あるが若し。所謂筆を下して神ありといふ者は此なり』
と古人もいって居るが如く筆墨は全く氣合 きあひ のもので、之を説明することは至難なことではあるが、先づ日本畫に於ける筆墨の發達に就て述べて見よう。日本畫に於ける筆墨は千二三百年來支那から繼承し來ったものである。而して其の發達を述ぶるに當って、順序として先づ日本畫を形式の上より類別して見やう。卽ち第一は色彩を主としたるもの、第二は筆墨を骨子としたるもの、第三は之等兩者を調和したるものと三種に大別する事が出來る。此内の筆墨を骨子としたるものといふのが、私の述べんとする所の題目である。裝飾的方面より古代の佛畫の如き、或は又藤原時代の繪卷物を見る時は其の信仰の對象として、瑤珞 えうらく 其の他に莊嚴されたる端嚴 たんごん なる佛畫、異常なる敏感さを示したる繪卷物の如き、西洋畫にも其の類を見ぬ程の精神的發達を見せたものがある。又描線と色彩との關係より之を見れば、強き線に對しては強烈なる色彩を、弱き線に對しては弱き色彩を施して、其の間離す事の出來ぬ調和を保って居ることが了解されるであらう。之等の事も日本畫の發達の跡をたどって行くには重要な事ではあるが、今は之等を除外して、專ら筆墨が如何にして日本人に感じられ如何にして、其の生命を保って來たかといふ問題に對して答へて見やうと思ふ。
 吾々の幼かりし頃は、繪を學ぶといふことは、筆墨の用法を學ぶといふ事以外の何物でもなかったといへる。卽ち先づ運筆を學び、次に模寫を事としたものである。斯くすること實に三年に餘るのが常であった。であるから、當時畫學生の
    念頭を離れない問題は
 如何にせば筆がよくたつかといふことであって、從って筆を選ぶといふ事にも亦相當に苦心したものである。さて此の筆は如何なるものか。曾て私は今より二十年前歐洲に遊びたる途次、伯林の美術工藝學校を參觀し、敎授等と意見の交換を爲したる後、日本畫の描法に就き、牛の繪を尻の方より筆をつけて描く事により、説明を試みた事があったが、ー之等の事より同校と京都の繪畫專門學校との成績品の交換を行ふた事であるー敎授等の第一の質問は筆は如何にして出來たものであるか、又價は何程 いくら かといふのであった。敎授等は筆の中に何等かの仕掛があるものとのみ信じて居るかの樣であった事を記憶して居る。古人の所謂『筆中に物あり』といふ事は筆に氣を籠めて千鈞の力と爲す處に着眼したもので、筆に籠った筆者の氣の走るがまゝに、神羅萬象が筆端に躍り出すの謂 いひ である。此の事に就いては私は敎授等に多少の刺戟を與へた事を信じて居る。然らば如何なる順序で以て筆を執るかといふに、一言にして之をいへば、決心である。此の點よりすれば、初め繪を學ぶに當ってとる所の懸腕直筆といふ事に、大なる意義の有するものなる事が了解出來る。充滿したる心力の、油然として湧き來る所、人間の精神は大なる力となって生動し、此の力は筆端より湧いて、木に躍り石に躍り絹楮 けんちょ の間に迸 ほとばし るのである。其處で私は次に筆の日本畫に於ける發達の順序をたどって見やう。
 古い日本畫を見れば、其の描線は割合に單純であって、正々たる心境の表現に適して居る。此の時代の繪畫は
    殆んど總てが宗教畫で
 あって、信仰に充ち充ちた、正々たる表現である、實物に見る如き衣紋の組織凹凸とは、自 おのづか ら異なる感じを與へる。佛像の表現は彫刻に重きを置いたものであるが、又線を主とした毛彫の如きものがあって、當時の繪畫には之等の線と立體の佛像の線及び六朝より隋にかけての彫刻の中に見る衣紋の組織に見る線の樣式が明かに現れて居るのを見出す事が出來る。
 太細なき同大の線を均等的間隔に重ねかけて描ける如きー法隆寺壁畫其他ー見る物をして正々の感を與ふるもので、どこまでも眞面目なる調子を以て終止して居る。時代が少し下って來ると、細きながらの線に、其の線との間の間隔に廣狹を生じて來て居る。之が、寫實に近よる始めであらう。又黄 くわう 不動或は之に類するものゝ如き氣魄を要し、力の表現を第一とする佛像にあっては、力強き一本の大小のなき線により、感念の正直さを結晶せしめたる線によって之を表現して居る。黄不動は之によって、始めて生々の力を得て居るが如くである。日本畫の線が、心力を本とせる事は、之に依って窺 うかゞ ひ知る事が出來る。
 奈良朝より藤原時代にかけては唐の佛像に於ける寫實の影響であらうが、日本畫は次第に寫實的の傾向をたどるに至り、其の線も廣狹均等等を用ひ
    追々柔かな時代精神を
 表現するに至って居る。かくて筆墨の發達に第二期を劃する事となるのであるが、佛畫を離れたものに、線の抑揚、太細等の新しき表現形式が、繪卷物を舞臺として、現れて來るのである。鎌倉時代初期伴大納言の應天門の火事の繪、其の他志貴山緣起、鳥羽僧正の獸戲卷の如きは、筆の氣勢を以て物の體勢を貌 えが くといふ、新機軸を出すに至って居るのである。
 伴大納言は最も此の表現に長じ、當時の風俗、人情恰も眼前に見るが如くである。殊に子供の喧嘩せる繪に於いて、髪の毛のむしり合 あひ などせる所の如きは、氣合と線と渾然として融合一致して居るのを見るのである。一方之に反して、靜かなる殆ど消えんばかりの線を以て描けるものがある。淸盛の嚴島に納めたる經卷の見返しの繪の如き、其の好例であって、平家時代の優美でありながら、又一味の哀愁を帶びたる如き、どうしても、其の時代の反映と見なければならぬものである。此の外源氏繪の引目鈎鼻の如く、眠るが如く憂ふるが如き繪は、それが色彩の繪なるに拘らず、全く其の細い線の效果を無視することは出來ぬ。
 又藤原時代のあしで繪ー純粹の繪ではないけれどもーなども、流麗
    優美な時代精神の反映
 と見るべきものであらう。其の他又所謂惠信僧都の来迎佛の類の繪なども、かういふ調子のものがある。
 さて線は如何なるものをよしとすべきか。私は心持の透達といふことに、其の歸結を置かふと思ふ。ー樹石は本定形なく、筆を落して便ち定まる。形勢豈に窮相あらんや、觸るれば則ち窮まり無し、態は意に隨ひて變じ、意は觸るゝを成り、宛轉關生遂に妙趣に琫 いた る。意は筆先に在り、趣は筆を以て傳ふれば、則ち筆は乃ち畫を作る骨幹なりーと古人もいって居る。澁滯躊躇は禁物であって、筆に籠った筆者の氣の走るがまゝに、樹 き も出來、石も出來るのである。冬枯 ふゆがれ の柳の枝、梅の古木等を凝視すれば、此の間の消息自 おのづか ら釋然たるものがあらう。次に私は墨にいて述べよう。卽ち墨が筆に加はることになるのである。歷史の順序はおきて、墨は如何なるものかといふ事より述べて行かう。墨に死活あり、濃淡あり、墨色とは卽ち濃淡の事であって筆と同じく心持の表現より來るものである。墨を最もよく現したものは支那の米元章に始まる米點山水である。潤ふた墨を以て、山を描き、雲煙を表す。巧妙なる墨の働きであって、唯
    一色を以て萬象の色を
 象徴する、卽ち墨は色、色は墨といふべきである。筆を氣合のものとすれば、墨は情合のものとも見るべきか、日本畫は此の墨が這入ってから、線にも柔か味を添へ、筆に圓味 まるみ を帶び來ったものである。支那の梁楷の繪の如きは、氣合を主としたる繪であって、又牧渓の繪は、雄勁の内而も慈潤の氣を有して居る。
 日本では兆殿可 てうでんす 、可翁、相阿彌 そうあみ 、蛇足、永徳、元信、山樂、雪舟等相前後して出て居るが、之等は卽ち牧渓、梁楷等の面目を傳ふるものであって、簡單に其の特長を述ぶれば、蛇足は臨濟と徳山との禪問答の繪に見る如き氣合の充實に其風貌を窺ふべく、相阿彌は墨を以て牧渓の響 ひびき を傳へ、元信は一筆々々釘そ打ち込むが如き線に、氣合の充實を企圖し山樂、永徳は豊臣時代の豪華なる氣分を、緃横淋漓の筆に傳へて居る。雪舟の繪は元信程の堅さはない、其處に筆墨の呼吸を活用して、自然の趣 おもむき を躍動せしむ。私は雪舟に筆墨の本來面目を見得るが如くに思ふ。破墨山水といふのは、專ら雪舟より來れるものであって、
    筆と墨と渾然融和した
 ものゝ例である。割りたる筆に筆者の精神をやって、山水を表現するのである。水墨山水は簡約されたる純粹なる心力の充滿を、山水に表現するもので、之に淡墨を用ふる。從って墨の死活濃淡の調子が第一となる。雪舟のそれと多少趣は異るも、相阿彌等を行ふた所のものである。探幽は雪舟、蛇足、相阿彌等を取入れて、之を生かした人であって彼の偉大なるは此の點にある。時代は少し下るが、光琳の繪は色彩を主としたものであって、筆墨とは緣の薄きものなるかの如くであるが、始め常信に學び、其の傳統を生かして、彼の藝術を大成したもので、彎曲ある流麗なる線も、實に必然的效果を持って居る。俗に光琳の水と稱する模樣化したる線の如きも、彼獨特の線の力に生きて居る。一見槪括的の如くにして、而も自然の核心に觸れたる所、彼の偉大は此處にある。又浮世繪に於ても、初期の師宣、長春には明かに其線に傳統の影がある、懐月堂の遊女の衣紋の線の如きは、太き活達なる線を以てして、而も柔かなる女の姿態を巧に生かして居る如き、線は
    心持一つで如何樣にも
 表現し得る事を證するものである。光琳の後應擧出て寫實畫風を興し、それより文晁でて南北合宗といふ如き畫風を興して居る。而して大雅、蕪村は、南宗系の畫家といふべく、此の南宗系には自らの心境を畫面に表す事を主としたものである。中にあって蕪村は大雅に比し自然の觀察に重きを置いたかの觀がある。
 大雅、蕪村の繪は之を敍するに、口や文章で以ては十分に傳へることが出來ぬ。其の腕中に天地生物の光景を具有するが如く、洋々灑々、其の出づるや、滯るなく、心手筆墨の間靈機妙緒湊 あつ まって之を發するの槪がある。將來の日本畫の進むべき道も、或はこゝにあるのではなからうか。此の問題に就ては、しばらく考察を他日にゆづる。四條家の呉春は、柔かなる筆を用ひて描く。されば其の線には水氣ありて、筆の枯れたる所はない。未だいふべきことの多くがあるが、今は之を他日にゆづるの外はない。
 只最後に私は次の事を言ひたい。それは傳統といふことであるが、最近私は支那に遊んで、此の傳統といふ事に就き、之は頗る大切なる事の如くに考へた事である。傳統は人によってのみ傳はるが如くであるが、實は地の底に深く嚴存して居るかに思はれる。
    國家は亡びても傳統は
 亡びざるものではなからうか。吾々はどうしても傳統を基礎として、其の上に他の長所を持ち來すことにより、傳統の光を明かにしつゝ進むのが、其の進むべき道ではなからうか。日本は國威が發揚されて、而も却て傳統が亡びんとするが如くで、現在の支那は之に反し國亡びて傳統が光を增しつゝあるが如くに思はれる。元より筆墨は表現の一方法であるけれども、日本畫家の現在に於ては、此の傳統を無視する事は出來ないだらうと私は信じて居る。その時代を通じて傳統を生かすといふことが賢明なる事ではあるまいか。

 上の文は、大正十年三月一日発行の雑誌 『繪畫淸談』 第九卷 三月號 に掲載されたものである。



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