蔵書目録

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「張之洞の逝去」 他  (1908)

2022年04月10日 | 医学 1 医師、軍医、教育

 〇淸國大官の病患 二十日張之洞は病氣の爲に休假を請ひしが、五日間の許可を得、二十五日再び五日間の休假を請ひ、三十日更に十日間の續假を得たり、二十一日川田醫士往診の際には、神經亢進して不眠病に襲はれ且つ腹部に痛處ありしが、施藥に由つて殆ど平癒せりと、然れば其後連日の請假に就ては外間種々の煩言あり、單り病氣の爲にはあらざるが如し、
  〔『燕塵』 第二年第八号(第二十號) 明治四十二年八月一日發行 の 雜報 北京通信(自六月三十日至七月三十一日) 葱嶺生 より〕
  
 〇張中堂の病氣未だ癒えず、更に二十日間の休假を賜ふ旨の上諭十九日に出づ、先是吾が川田醫師を聘して診察を受け居りしが二十五日に至り更に吾が下瀨軍醫正、二十八日に至り平賀軍醫正及下瀨軍醫正の診察を受けたり、齡既に古稀を越えたる同中堂が、健康狀態に恢復する迄には尚ほ多少の時日を要すべしと推測せらる
  〔『燕塵』 第二年第九号(第二十一號) 明治四十二年九月一日發行 の 雜報 北京通信(自八月一日至八月三十一日) 蓑蟲菴 より〕

 〇張中堂續假 張中堂は八日引續き復又二十日の休假を許るされたり、吾が平賀軍醫正は九月二日以來天津より晋京滯在し、當地下瀨軍醫正と共に自ら後門外なる張中堂の邸に就きて中堂を診察し、投藥しつヽあり、病勢大に良好なりと、十五日の如きは起き出てゝ作詩を試み、其翌日は誕生日に當りたるが、病中の事とて祝儀を辭する旨の書狀を認めたりと、以て其一班を察するに足る
  〔『燕塵』 第二年第十号(第二十二號) 明治四十二年十月一日發行 の 雜報 北京通信(自九月一日至九月三十日) 蓑蟲菴 より〕

  

  故張之洞之書

  軍機大臣張相國
南皮張相國、自患病以來、中外名醫、接踵盈門、而相國服藥、雖見略痊、時而反復、盖相國憂心國政、毎致忘疾、以致不得靜心攝養、雖和緩再生、亦當束手、遂於八月二十二日(陽曆十月五日)夜間九鐘三刻、相國遽行易簀、聞相國囑其公子曰、受 恩深重、何天不假以歳月、俾鞠躬報稱也、此亦數耳、復囑公子、居官當奉公潔己、勿爲濁世所溷、囑畢、急索遺摺閲視、因欲更改、彼時已不能言、但指示而已、旋時而卒、時年七十三歳、相國爲朝廷棟樑、倐然崩折、豈不哀哉、
按相國籍直隷南皮人、癸亥探花、號香濤、入翰林、學識有泰斗之稱、時人呼南兪北張、蒞官以來、爲四代勲舊老臣、光緒六年奏叅中俄劃界大臣崇厚、損失地土、後擢遷外任、轉授兩廣、兩江、湖廣等省疆臣、政績昭著、中外咸欽、於督廣時、製造廣甲廣乙廣丙等十隻兵船、以備海防、設水師武備等學堂、造就人才、嚴禁賭風、立廣雅書院、萃集英才、振興學務、創建虎門砲台、改鑄銀元、以便交通等事、於湖廣、訓練第八第十一兩鎭新兵、建造槍砲工廠、安設彩票、以維財力、飭統制張彪、捕除匪黨唐才、常製造軍艦、巡閲江防、組織學堂、講求武備、於兩江任内、政績尤多、難以枚擧、茲奉朝廷改革舊政、百度維新之令、惟相國所任之省分、新政舉行、成效獨甲於他省、年前蒙 先朝調入中央、叅贊樞機、輔成立憲、造民福於後也、徳業蓋世勲功千古實爲罕有矣、    (順天時報)

 〇張中堂の逝去 四日張中堂へ上諭あり、大學士張之洞は居常國を體し夙に功勞顯る、茲に病氣久しく癒えざるにより、朕深く軫念す、再び休暇を與ふるに付き安心靜養せよとの主旨なり、此上諭出づるや早く既に張中堂の死を傳ふるものあり、果然仝氏は四日午後九時に至り遂に溘逝せりと、仝氏の死は淸國社稷の爲めには洵に限りなきの痛事たらん、朝野訃を聞いて惋惜措く能はざる亦宜なりと謂ふ可し、聞説、張中堂は前號の本通信に述べたる如く病勢大に怠りしが、其痊癒を急ぐの結果遂に吾平賀、下瀨二軍醫正の診察に加ふるに、英國の醫師二名に依賴し、尚ほ進んで漢方醫一名をして投葯せしむるに至れりと、それかあらぬか、病は猝かに革りて中堂は遂に不歸の人となりぬ、痛ましからずとせんや、悲しからずとせんや吁、張中堂は臨終に至る迄精神明亮にして總べての公務を後人に遺言し且つ諸子を臥床近く召し寄せて品學並び立たざる可がらざる事を懇諭したりと以て中堂の生平を知るべき也、七日追悼の上諭下る、是に由りて彼の子、張權張仁侃孫張原璟には夫々官を授け以て篤く藎臣を念ふの至意を示されたるは、餘澤子孫に及ぶものと謂ふ可し、

附録  故張之洞の訃聞

 〔『燕塵』 第二年第十一号(第二十三號) 明治四十二年十一月一日發行 の 口絵、雜報 北京通信(自十月一日至十月三十一日) 蓑蟲菴 より、附錄〕

 〇張之洞病中の上諭 
張之洞は今夏以來病によつて屡賜暇を請ひ療養に務めしも病勢日に增し全癒の見込みなきを自覺するや辭職を懇請したるに十月四日左の上諭あり
 大學士張之洞は公忠國を體し夙に勤勞顯はる茲に病久しくして癒えざるにより朕深く厪念す再び休暇を與ふるにつき期日に拘泥することなく安心靜養し病癒ゆるに及んで直に出仕せよ並に人參二兩を賞給し攝養に資せしむ請ふ所の官職開缺の一條は議するを要せず
 〇張之洞の逝去と哀惜の上諭
張は此上諭を奉じて感泣せしも老躰已に病深く醫藥效なく同四日午後九時溘然長逝す年七十三歳、同月六日朝廷哀惜の上諭あり曰く
 内閣上諭を奉ず、大學士張之洞公忠國を体し廉正無私、先朝特達の知を荷り翰林より内閣學士に游升し、山西巡撫を簡授せられ兩廣、湖廣に總督となり兩江を權理(代理總督)し凡そ施設する所皆新政を提倡し、國に利し民に便す庚子の變、大局を顧全し東南を保障す其功甚だ偉なり次で總督を以て綸扇に晋陟し(湖廣總督在任中恊辦大學士に任命せられたること)入つて機要に參し(北京に入りて軍機大臣となれること)學部事務を管理す宗旨純正、勤勞懋著たり、朕即位の後深く倚界に資し晋めて太子太保銜を加ふ、在官四十餘年擘畫精詳、時艱を匡濟し經猷の遠大なる久しく中外の共に見る所なり、近頃病を患ふるに因て屡暇を賞して調理せしめ並に人參を賞賜し、方に克く遐齡を享け長く輔弼に資せんことを冀へり、茲に溘逝を聞き軫惜殊に深し、著して陀羅經被を賞給し郡王銜貝勒載濤を派し待衛十員を帶領し即日前往して、奠醊せしめ並に一壇を賜祭し恩を加へて文襄と諡し太保を晋贈し大學士の例に照して䘏を賜ひ賢良祠に入祀し銀三千兩を賞して喪を治め廣儲司より給發せしむ任内一切の處分は悉く開復を予へ、應に得べき䘏典は該衙門にて例を察して具奏せしむ、靈柩回籍の時は沿途の地方官をして照料せしむ其子禮部郎中張權は四品京堂を以て候補たらしめ、郵傳部學習員外郎張仁侃は郎中を以て補用し其孫選抜生張厚璟には主事を賞給して分部補用せしめ以て藎臣を篤念するの至意を示す此を欽め

 〇張文襄公靈柩回籍 張中堂の靈柩は、直隸省南皮縣の原籍地に回送せらるゝ爲め、三日未明後門外の自宅を出で、東單牌樓大街より崇文門を經て、北京停車塲に至り、搭車の上、天津まで送られたるが、そこよりは民船に上せ運河に依りて郷關に回る筈也

 〔『燕塵』 第二年第十二号 明治四十二年十二月一日發行 の 雜報 ◉重要なる上諭及上諭旨集(九月一日至十月十日) 不倒菴 、北京通信(自十一月一日至十一月三十日) 蓑蟲菴 より〕



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