蔵書目録

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『翠渓歌集』 (前田純孝) 1 (1913.8)

2020年06月17日 | 人物 作家、歌人、画家他

  

 翠渓歌集

 

 指折り數へれば、もう一昔にもなる、東京高等師範學校の教室に、予は日々前田君を見たのであつた。其時の印象は今もなほ鮮やかに殘つてゐる。あまり濃くはない眉が長く曳いてゐて、眼の涼しい、唇のいかにもいゝ色をした細面に才気の溢れた人であつた。教課とした英吉利の詩文を予が購讀する時、君が會心の章と覺ぼしい條に來ると、その濕ひのある眼中に夢見るやうな影の浮ぶのを度々見受けた。藝術の愛を持ちうべき人かと、其折に予は推察したが、既に君が短歌を詠じ、音樂に親んでゐられた事は、まだ少しも知らなかつたのである。其後數年にして君の抒情詩を讀み、また樂會の爲に曲譜を供する事などを聞いて、噫、君も亦終にあの光榮ある而も危險の多い藝術の道を行くのかと心密かに頷いた。
 明治新藝術の途上には幾多の薄命な才人等の手に半築き上げられたのみで、その儘に棄て置かれた多くの事業がある。地覆の一部、平臺の斷片がかなたに横はり、迫持の片割、圓柱の破片、半仕上げられた蛇腹、搏風などのこなたに散らばつてゐるが、是等は皆藝術の愛ある人々が、自から生得の傾向に驅られて着手した業でもあるが、ひとつにはまた當來の偉觀を豫想して、自身等は唯夢にのみ見て果つ可き藝術殿の建立に努力した結果である。哀いかな、神々の愛する者は夭折する。かゝる藝術の先軀者には不幸短命の人が多い。前田君もまた其一人であつた。
 福祿の報無く、名聞の光も薄く、やゝもすれば窮迫し、輕視せられて、無用有害の人物と評せられる藝術の士は、現代日本の如き社會に居て、永く其信じる處を保つのは難い。而もあらゆる不利を顧みずに、この道の愛に專らなる人々の、絶えず、相次いで、其唱へる所の思想、其感じる所の情調が、やうやく一世の基音となりかけて來たのが、現今の形勢である。藝術の中殊に文藝は學術よりも道徳論よりも、又、固定宗教よりも、更に痛切にしみじみと人心を動して、新しい文化の基礎を置かうとしてゐる。而して其傾向は表面上、或は矛盾する如き觀を呈する場合もあらうが、根本の情調は、自から窺ひ知られる。それは抒情詩に表はれた恐ない誠實の気と微妙な多感性とである。姑息偸安を厭ふ事また形式に拘泥する遅鈍な思想に安じない點が、今の人々の特色であるが、前田君の遺作は這般の消息をよく傳へてゐるので明治末期の新情調を後世に示す一文書としても、此集は頗る價値多いものである。その上にまた集中の佳作は、薄倖の短生涯に作られたにも拘らず、例へば、莊麗なる繪樣大間の浮彫、端正なる大斗の装飾に似た秀逸であつて、天もし君に壽をかしたらば、いかに美しい藝術の宮殿が大成されたらうと思はしむるにつけ、この哀悼の情は、ますます此集の美を加へる。曙と夕暮との美を兼ねてゐる此集よ。
  大正二年七月     上田敏
 
 明治の終末に余と曾て詩社を同じくした二人の友が共に肺を病んで亡くなつた。前田翠渓君と石川啄木君。
 二君はその資性も職業もちがつて居たが、その短い生涯の思想の經過は太略似て居た。理想主義の憧憬から現代主義の苦悶へ。そのうへ、病を得てからの境遇が同じやうに悲惨を極めて居たのは、之を言ふに忍びない。
 生活意志の熾烈な現代の青年が、生の藝術、動の哲學の創作せられる時に會ひながら、
  「幾とせの前の落葉の上にまた落葉かさなり落葉かさなる。」
如此き悲痛とは、どんなであつたらう。
 啄木君は、負けぬ気の勝つた貴族的な気質から、口を少し歪めて、冷い苦笑に之を撥無しやうとあせつたが、翠渓君は、醞籍な田園風の性情から、宇宙自然の律のまにまに我を任せて、静かに之を諦めようと努めた。
  「磁石の針振り亂さんは無益 むやく なり、磁石は終に北を指す針」
 さうだ、二君は終にその焦燥と努力との無益なるあなたに消えてしまつた。予は之を他人事 ひとごと と思はない。さきに啄木遺稿に接し、今この翠渓歌集を讀んで、二君が留めた哀歌の眞實の教に粛然として心の凍るを覺える。
 ああこの一卷、まことに故人が蒼白い手と黑ずんだ血とを以て、自己の癒しがたい痛恨をしるした堕涙の碑であるのみならず、心に幽暗の痼疾ある予の如き者のために、更に行手の大濛を示す哀しい路標ではないか。
  大正二年七月
             よさのひろし
 
 

 生あるものは必ず死あるは、世の掟とはいひながら、年若き才人の早世ばかり、悲しむべきはなし。殊に文學の士に於て然り。そは彼等の場合に於ては、或は激切なる感情、或は生活の苦など、彼等が地上に於てそのすぐれたる才をうけ得つる負擔として、殆ど有せざるを得ざる苦しびの伴ふをならひとすればなり。我が前田純孝君の如き、實にその一人なりとす。
 君は志すところ教育者たるにありて、はやくより小學教育に従事し、高等師範學校を卒業せし後、大阪島之内高等女學校に教頭たり。三十餘年の短生涯の事業は、主としてその方面にありき。しかも君が天賦の才と、君が境遇と、君が病とは、君をしてむしろ詩人たらしめき。教育者たる君は、他に説く人あらむ。予は詩人としての君に就いて一言せむ。
 君夙く和歌を嗜み、高等師範學校在學中、已に雑誌明星に投稿し、新詩社の社友として、當時文壇の一新運動に關係せり。のち、雑誌白百合のおこりし時も、大に力を盡し、その間詩作をたゝざりき。高等女學校赴任後は、専心教育事業に携はりて、しばらく和歌に遠ざかりし觀ありしが、明治四十一年、病をえ職を辭してより、再び詩人たる本來の面目にかへりぬ。それより世を終ふるに至る三年間は、專ら詩作につとめし時代にして、衣食の計は、君をして病軀をかりて筆を執らざるを得ざらしめしとともに、この間の精神上境遇上の苦悶奮鬪は、君をして幾多悲痛の作あらしめたり。而して予が君を識りしは、この晩年のことにして、君の親友葛原𦱳君の紹介により、君の作品論文等を、我が竹柏會の雑誌心の華に載することヽなりしより、たえず書翰の往復をなしたりき。
 君が和歌をみるに、夙く新詩風の影響をうけ、殊にその學素をなして辭句純正、優に一家をなしゝが、その歌風のいよゝ輝く異彩を發輝し來りしは、晩年のことに屬す。君が病の爲に職を去りて、衣食の道に苦しみ、世路の險しきに戰ひ、惨憺たる境遇の中に詠み出でつる幾多の作品は、感情の痛切なる、その發表の自然純直なる、千古のもと人をして泣かしむるに足る。而してその間自ら和歌の爲に一新歌風を拓けるものあり。
 君が病と、君が悲惨なる境遇と、君の爲に眞に悲しむべしといへども、これありて君をしてその晩年の一進境あらしめたりとせば、また些か慰むべからずや。而して君が早世はた、決して無意義ならざるをおぼゆ。况して生れながらの詩人たりし君自らに於てをや。
 このたび君の遺友相はかりて、君の爲にその遺稿出版の擧あるに當り、生前のちなみによりて、その選擇校閲を遺友諸氏より囑せられ、こゝにその事を了へ、この一卷を成しつるにのぞみ、いさゝか思ふところを卷のはじめにしるしつ。
  大正二年六月     佐佐木信綱  

    天地 あめつち もかなしかりけり若き子の死にたる後の歌におもへは

    たくひなき悪夢を見つゝこの君はやかて覺 さ めすもなりにけるかな

    この君は何をたのみし妻か子か悲しけれとも一卷の歌

    若き人はやく世になしその歌はしら玉のこと後をてらせと

    夏の雨純孝の君のありし日の病のころのはなしなと聞く

            與謝野晶子

 〔上の中の写真〕 明治四十年の著者
 
 翠渓歌集  故前田翠渓著

 〔各頁には短歌三首が掲載されている。下はその一部。〕

 狗のごと君が門べを追はれては狗の如くも野をさまよへる

 たゞひとり寂しき國にのこされて小指かみても染むる名のなき

 憎き人を猶にくみ得ぬ心には戀しき人を戀ひずしあるべし

 忘れても戀ひする人となるべしや戸に立たざれば打たれじを狗

 指すところ皆わが道と行かん身か花ある方を唯行かん身か

 名も知らぬ遠き國より唯一人大口たのみて我まよひこし

 我をおきてまた賴まるゝ誰ありや人は人のため我ぞ我が爲め

 かくて行かば花野あるひは消えうせんふりかへりてか人のさと見る

 いつの世か我を見知りさびしみと石にもたれて泣くに似たる日
 
 (以上明治三十六年作)

 二千年三千年の御佛が訪ひもくる夜と奈良は雨降る

 ひとり立てば我も佛となりぬべし額にしみくる黙示二千年(法隆寺金堂にて)

 人麻呂がまなこに染みし星一つ得ばや足らんとまた來にし寧樂

 月の中 ち の山の一つが落ちて來て圓きに似たり若草の山

 若草にのぼりて今の奈良は見ず聖武がしら咲く花の御代

 佛よぶ鐘か人よぶ戀の鐘きみまつほどの黒谷の月

 かりそめの京の土産の京扇我ならなくに似たる歌筆

 君が手の牡丹の花にうたれなばうたれて消ゆるほどの罪をば

 (以上明治三十七年)

 蝸牛葡萄の蔓の幾曲り曲り行きなば春の日暮れむ

 君と我れ同じ垣根の卯の花を見て育ちたる故里の家

 我が戀は古事記の神のことごとを招じてとへどいさめぬごとし

 雨だれの音と椿の落つる音と君が怨と居睡りによき

 圓光を脊負ふと燃ゆる火の中に思ふといづれ君にうれしき

 生れいでゝ死なばつとめの足るごとく悲しといひて泣けば和 な ごみぬ

 わが神はふたゝび燭を手に取りてまた一線 すぢ の道てらしけり

 君ならぬ人にまじらひもの言ひて笑ひとぼけて世は有るらしき

 ことゝはむかゝるおもひも花守が夢におちては花とひらくや

 (以上明治三十八年)

 地に伏して乳呑兒のごと泣きもせばあるひは母のかへり來まさむ(母を失へる友に)

 いらか越えていらかいろする茅渟の海をけふも見て居ぬ蝸牛と我と

 忘れては君がまぶたを拭はんと思ひもみたり濡れし袂に   

 一人してかなしき思二人してうれしき思君しりますや

 いつよりかゆゝしき心みづからをなみする心君得てしより

 思ひ出のその花園にかくてたゞ一人しあらんわれや花守

 何佛か御名はしらねど出現の圓光たるを疑はず虹(大阪へのかへるさに)

 過ぎし世はまなかひ去らぬまぼろしの夢のくさりよ我いましめの

 幾度か死ねよとおもふ夕まぐれ悲しきにこそよみがへりくれ

 ふとさめて聞けば木さけび石もなく今世か亡ぶ大風の夜半

 過ぎし日のその悲しみか來む明日のおそれの影か呼びぬ追ひ來ぬ

 粉藥 ふんやく の水のあまりを根にすひて咲き出し花の大和なでしこ

 君をおもひ涙する夜となみだせぬ夜とある我をうたがひにける

 ひたすらにうすき命のともし火をかゝげてたどる思ひす病

 永久の黒き鎖につながれし明日の捕虜と見てや日暮るゝ

 (以上明治三十九年)

 我今はいそがずおめず顧みず與へられたるぬかるみを往く

 人の世に何すとて來し瓦斯燈の大路に長くひく我の影

 路にちる桐の花ほめ風をほめあらぬこと言ひて別れけるかな

 かりそめの別のやうに別れつる二人の中をふく秋の風

 諏訪山のみちけはしみか諏訪山の木かげ暗みかわが手とる君

 天地に君あることを忘れたるその一瞬に我は死ぬべし

 君をおもふ我をはたおもふ君我の二人の中のいとし兒ぞこれ

 汝をえて汝が父母は靈魂の不滅を信じ涙流しぬ

 いとし子よ汝を抱くとて父母は相爭へりいつれ選ぶや

 君とわれ二人ながらの一生の日とてえらびしけふなりしかな

 憎き人を猶にくみ得ぬ不可思議を我なるものゝうちに見むとは

 しばらくは無言にありき後れ毛のひとり波うつ君が頬を見て 



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