ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その19)震える手紙?

2015-02-21 06:18:27 | 自分史
 旧GCP査察で指摘された心電図データの記載不一致の調査を終え、調査結果を提出したのは阪神大震災の年の4月になってからでした。震災の復旧工事は本格化しており、ライフラインも復旧していました。

 調査結果を提出後、当局とはヒアリングと称する面談が2ヵ月に1回ほどありましたが、なかなか新Ca拮抗薬Pの承認審査再開には至りません。会社の方もGCPが国際標準に合わせ強化されるという情報を聞きつけ、臨床開発部門の組織改革にやっと重い腰を上げ始めました。

 そんな年の9月のことです。私は44歳、息子たちは長男が高校3年、二男が中学1年になっていました。息子たちが通っていた中高一貫校では年に一度秋口に体育祭があります。その年は金曜日の祝日が開催日でした。

 体育祭の当日、別居してからしばらく経っていたこともあり、震災後の本宅内をふと覗いてみようという気持ちになりました。自分の名残がどう扱われているか知りたかったのです。気まぐれ半分でもあり、家には誰もいないハズという事情が大きかったと思います。

 四畳ほどの広さの部屋に二つ並んでいた本棚は、一つが洗濯機の横の狭い所に移動させられ、半分が私の本棚、もう半分が物置棚になっていました。もう一方は元通りのまま部屋にありましたが、息子たちの本やら漫画ばかりで、私の集めた書籍などどこにもありませんでした。アルバムはありましたが、私が写っていた家族写真や海外出張時に私が撮った写真が一枚も残っていませんでした。息子と一緒に写っていたはずの写真ですら私の部分が切り取られていました。私を思い出させる物すべてをここまで徹底的に抹消しようとするのか、と心底驚きました。

 胸騒ぎがしたので以前夫婦で使っていた妻の寝室も覗いてみました。会社の友人からの結婚祝いのお返しの博多人形が残っている他は、私に関係するものは何一つ置いてありませんでした。ふと見上げると、整理タンスの天板の上に焼き海苔などを入れる金物の箱があることに気が付きました。私が同居していた頃にはなかったものです。奇妙に思いそれを降ろして蓋を開けてみると、中に夥しい数の封書が溢れんばかりに詰まっていました。宛先はもちろん妻宛でした。

 送り主は、名前が書いてあったかどうか忘れましたが、筆跡から友人の K と分かりました。精神が病み上りで離婚したばかりでもある予備校以来の友人です。

 1通取り出して読んでみると一見して恋文でした。ここで読み続けるものではないと咄嗟に判断し、一刻も速く持ち去るのが一番とワンルームの自宅に持ち帰ることにしました。

 帰宅するなり急いで手紙を読みました。手紙の日付や消印から別居直後の4月から10月までの7ヵ月間に送られて来たものでした。この期間に計78通あり、毎日投函しているときもあれば、一日2通のときもありました。明らかに病的で異常です。とても普通のこととは思えませんでした。

 膨大な数の手紙の大筋は大体以下のようなものでした。
離婚を煽動した黒幕はKだったこと。K と妻とは離婚騒動が始まる前から性交渉があったこと。離婚騒動中にあった頻繁な妻の外泊がKとの逢引きだったこと。私の追い出し(別居)に成功した後で本宅玄関の表札と鍵を変えるよう K が勧めていたこと。別居後の私の心の隙を突くように正式な離婚届を妻から催促させ、さらに K が手配して結婚相談所から私宛に入会案内パンフレットを送らせたこと。別居から1ヵ月半ほどして二人だけでグアム旅行をしたこと。さらに5ヵ月経った後にニューカレドニア旅行をし、抽選に当ったと偽って息子二人をも同伴したこと。以上でした。

 手紙はニューカレドニア旅行直前までで、その後の消息を伝えるものはありませんでした。かつて寝物語に囁いた私の戯言が “瓢箪から駒” となっていたとは思いもしませんでした。結婚前の関係は “焼け木杭に火が付き易い” という諺どおり現実になっていたのです。日付と主だった要点を手帳にメモし、特に決定的に重要なことが書かれていた手紙は箱とは別にしておきました。

 なぜ妻があれほど悪鬼のように豹変して大胆に離婚を迫って来れたのか、離婚理由にswappingを挙げて来たとき、なぜ私の提案していた K の名前が出て来なかったのか、その謎が分かりました。

 前年の初冬に会って以来、ずっと気になっていた長男の荒んだ眼つきの謎についても原因が分かりました。あれはニューカレドニア旅行から帰った直後のことで、荒んだ眼は明らかに大人たちに反抗している眼だったのです。“天国に一番近い島” のはずが、皮肉にも地獄だったのです。

 なぜ、阪神大震災のときに家を飛び出し、自転車で友達の家を泊まり歩いていたのか。なぜ、震災後に茶髪に染め、言動や態度に素直さが消えて愚連(ぐれ)てしまっていたのか。なぜ、妻のことを “飯炊きオンナ” と呼ぶようになっていたのか。このときになってやっと納得できました。

 驚きと怒りで極度に気持ちが昂ると手が震えることを初めて経験しました。手紙を読んでいて文字通り手がブルブル震えたのです。手紙に夢中で夜になったことにも気付きませんでした。日付と主だった要点を手帳にメモし、特に決定的に重要なことが書かれていた手紙は箱とは別にしておきました。

 どうしたものか悩みましたが、まず K に秘密がバレたことを分からせるべきと思い至りました。電話の受話器をとって、震える指で K の電話番号をダイヤルしました。(当時すでにプッシュホンが電話の主流でしたが、私の電話は借り賃の安いダイヤル式でした。)電話に出た K は初め素知らぬふりを装っていました。

 「おぉ、久し振りぃー、どうした?」
 「お前らのやっていることは全部手紙で分かった。・・・そんなに(妻が)欲しかったら熨斗(のし)を付けて全部くれてやる!」
 「ちょッ、ちょッ・・・」と K は何かを言いかけましたが、構わず私は受話器を置きました。手の震えはしばらく治まりませんでした。

 K は恋愛や性交渉の経験が乏しいウブな男とは違います。どの手紙にも赤裸々な性欲が一貫して綴られていました。男というものは、切羽詰まったときには手短なところから手を着けるのが普通です。K は手短な妻に手を着けたのでしょう。それだけ精神的に追い詰められていたのだと思います。まともな神経で書ける手紙の数ではないのです。精神の病がまだ治り切っていなかったのか、あるいは再発していたのかは分かりません。手紙にはウブな男と老獪な男の両面の心情がそのまま綴られていました。

  妻にしてみたら、母子家庭のように置き去りにしていた夫の態度に鬱憤を募らせ、我慢ならなかったのだと思います。夫の私は仕事に追いまくられ、そのストレスから酒浸りで精神が病み、あたかも歩く傲慢のようでした。家庭を顧みることもなくなって、何やら浮気の気配もさせていたのです。

 そんなことから、どういう行為が際どいことなのか? どの一線を越えたら危ういのか? その行為によってどのような報復が待っているのか? 払わねばならない代償は? これらの問題にまでは頭が回らず、見境がつかなくなっていたのでしょう。ただゝゞ K の純情ともみえる熱い心情に共鳴してしまったのだと思います。

 そこまで妻を追い込んだ当時の私はアルコール依存症の特徴をよく現していました。酒に酔った頭では、歩き方も、話し方も、話す内容さえも、本人はちっとも変だとは思わないのです。だからこそ周りの人々は戸惑い、辛い思いをし、そのうち無視して遠ざけるようになってしまうのです。

 それにしても私が囚われた怒りとは何だったのでしょう。親友と思っていた男から妻を奪われた怒り、まさかの妻の裏切り、このような至極通俗的な感情からだったのでしょうか?


アルコール依存症へ辿った道筋(その20)につづく



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コメント (2)
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