先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1927年 主な出来事 1927年の労働運動 (読書メモ)

2023年06月05日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

写真・1927年のポスター

1927年 主な出来事 1927年の労働運動 (読書メモ)
参照 「日本労働年鑑第9集/1928年版」 大原社研編
   「社会・労働運動大年表Ⅰ」大原社研編 労働旬報社
   「日本の歴史(下)」井上清 岩波新書
   「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃 社会評論社
   「日本現代史5」 ねず・まさし  三一書房
   「日本民衆の歴史8 弾圧の嵐の中で」藤原彰編 三省堂

中国革命への妨害山東出兵
 1926年7月の国民党・共産党の国共合作の統一戦線政権は中国民衆の圧倒的支持のもと、北伐(北方軍閥打倒)の軍を進め破竹の進撃を続け、10月には早くも武漢を占領した。この中国革命に英米の反革命の妨害干渉が始まった。日本も上海・南京方面に進出していた三井系資本や政友会が、若槻内閣と幣原外相を「軟弱外交」と攻撃し、中国革命妨害への武力侵略を煽った。
 北伐は1927年3月には南京・上海へとせまった。しかし4月12日、帝国主義列強の圧力と中国財閥の要求を容れた蒋介石は上海クーデターを起こし、闘う労働者・学生ら数万人を逮捕・処刑した。
 日本では、1927年2月地方の小銀行の破産がおこり、3月東京の渡辺銀行が倒れ、4月には三井物産に次ぐ大商社である鈴木商店が破産し、鈴木に無担保で巨額の貸付をしていた台湾銀行が危機に瀕した。若槻内閣が議会に提出した台湾銀行救済策案を枢密院は憲法違反だと否決した。この真のねらいは「軟弱外交」の若槻内閣を倒し、中国革命に積極的に干渉し、中国に本格的に侵略しようとする陸軍大将田中義一が総裁である政友会内閣の樹立にあることは明らかであった。
 
空前の大金融恐慌と大量解雇の嵐
 若槻内閣が総辞職した翌日台湾銀行は休業し、東京の15銀行をはじめ全国の大小の銀行が相次いで倒れる空前の大金融恐慌が勃発した。1927年春、休業した銀行は37行をかぞえた。田中内閣の金融恐慌対策の過程で、安田、三井、三菱、住友、第一の五大財閥銀行の独占支配が確立した。石炭、鉄、銅、石油、電力、硫安、人絹、精糖、紡績の諸産業は大財閥系の二~六社でその生産量の50~95%を独占したのだ。

 一方で神戸の川崎造船所の3,500人の大量解雇をはじめ、東洋紡、富士紡、八幡製鉄、神戸製鋼、三菱長崎兵器製作所などの大企業が軒並み労働者への残酷な大量解雇攻撃を行った。

田中義一内閣樹立と山東出兵
 1927年4月20日田中義一新内閣は、施政方針で「中国における中国共産党の活動に日本は無関係ではありえぬ」と発表し、田中義一が首相と外相も兼任した。外務政務次官に中国で会社を経営している三井系の資本家「森恪(もりかく)」をあげた。森は早くから軍部と通牒している積極的中国侵略派であった。5月28日、田中内閣は中国革命を妨害するため、「居留民保護」の名目で山東省に2千名の日本軍を出兵した。第一次山東出兵である。
 
「東方会議」で中国侵略を決める
 田中内閣は、6月、今後中国をどう侵略するか「東方会議」を開催した。ここでは中国の張作霖を使い軍閥対立を助長させ、また日本の「権益」や在留邦人の生命財産がおびやかされる「おそれがある」ときは、「断固として自衛の措置をとる」、また満蒙における日本の「特殊な地位」が侵される「おそれのある」ときは「機を逸せず適当の処置に出る」と決めた。
 (日本軍は、1928年4月第二次山東出兵、5月第三次山東出兵、6月張作霖を爆殺し、1931年9月18日には柳条溝事件、いわゆる「満州事変」、中国全面侵略、日中全面戦争を起こした。こうした「満蒙独立策謀」で、1932年1月、ついに満州国をでっち上げた。この日本軍の中国侵略に全中国人民は憤慨し、反日、反帝闘争は以後激しさを増し1945年8月の日本帝国主義全面敗退の日まで止まることはなかった。日本の中国侵略は中国人民は勿論のこと全世界から糾弾された。)

対支非干渉運動「日中無産階級万歳」
 1927年1月、政府と軍部の中国革命干渉と侵略に反対し、評議会主催の全国無産者団体代表者会議が開催され、「対支非干渉」を決議し、中国革命軍と総工会に激励電報をうち、席上、来日中の国民党中央員何兆芳と議長大道憲二は固い握手を交わし、「日中無産階級万歳」を叫んだ。

 労農党は中国国民革命支持を声明し、3月には「対支非干渉同盟」の結成を呼び掛けた。多くの労働組合と無産政党や日本農民組合、全国水平社らの労働者や学生は全国各地で、政府と官憲によるきびしい弾圧にあいながらも、中国侵略反対の演説会、ビラ配り、ポスター張りなどをくりひろげ、「対支非干渉同盟」を結成し、日本軍の中国撤退、不平等条約の破棄などのスローガンをかかげた。
 5月6日労農党、日本労農党両党は「対支非干渉と議会即時解散」の民衆大会が警察が許可しないため演説会を開催したが、即時解散を命じられた。
 5月17日対支非干渉同盟関西同盟が設立された。
 5月28日労農党は「対支出兵絶対反対」を決議し、抗議文を田中首相にだし、3日後の5月31日に労農党系の「対支非干渉全国同盟」結成大会をおこない、評議会、統一運動同盟、日農、プロレタリア芸術同盟、無産青年同盟、労農党、関西合同労組、京浜労働組合、総連合などが参加した。
 日本労農党も6月5日、6日神戸、尼ヶ崎で「対支出兵反対」演説会を開催し、6月7日には天王寺公会堂で「出兵反対」演説会を大々的に開催した。
 社会民衆党も3月3日に「対支非干渉」の決議し、3月31日には出兵反対の声明書を発表したが、反共クーデターを起こした蒋介石を支持した。

 労農党などの対支非干渉運動は、「出兵反対、駐屯軍撤退、国民革命支持、支那より手を引け」などのスローガンを掲げ,「支那武力干渉反対同盟」「支那使節団派遣運動」「満蒙政策反対宣伝デー」「ロシア革命10周年記念週間」を設定し運動した。

田中内閣の労働運動などへの苛烈な弾圧
 田中内閣は、国内の中国侵略に反対する対支非干渉運動に対し、「支那使節団」の代表を全員検挙し、また演説会で検挙した者への拷問など、容赦ない弾圧を加えた。6月3日の対支非干渉関西代表者会議はすぐに解散を命じられたばかりか、その場で9名が検挙されている。8月24日には労農党の中国視察団団長の京都の山本宣治を特高が検挙し、「支那地方への旅行は絶対にしません」という誓約書に強制的に署名させ5日後に釈放した(「日本現代史5」 ねず・まさし」。
 この年、田中内閣は、労働運動、農民運動にも残酷な暴圧を加えてきた。

敢然と闘う先輩労働者と農民
 しかし、先輩労働者は政府・官憲の不当弾圧・検挙の弾圧にあいながら、中国革命を支持し中国侵略反対の運動を果敢におこそうと奮闘した。また職場では戦前最長のストライキである野田醤油争議や小樽ゼネストなど歴史的争議を激しく闘った(内容は次回以降で紹介する予定です)。

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―1927年小史―

戯曲「何が彼女をそうさせたか」、『改造』で発表、4月築地小劇場で上演(1月) 
健康保険法給付開始、評議会系組合5分間ゼネスト(1月)
台湾文化協会第一次分裂(1月) 
大山郁夫、安部両氏早稲田大学を追われる(1月)。以後、学生も47人を退学処分
朴烈事件怪写真騒ぎ(1月)
総同盟大阪が組合会議を脱退(1月)

日農分裂(2月)
朝鮮、民族統一戦線の「新幹会」結成、支会137、会員約4万人(2月)

金融大恐慌(3月)
郵船司厨房部員3200人スト(3月)
上海で3度目のゼネスト(3月)
南京の北伐軍に英米軍艦が砲撃(3月)
対支非干渉運動(3月~)

中国4.12蒋介石反共クーデター。労働者・学生など数万人を殺害(4月)
田中義一新内閣成立(4月)
イタリアファシスト「労働憲章」制定(4月)
評議会工代会議運動展開(4月~)
行田足袋工争議(4月)

第8回メーデー(5月)
評議会婦人部設置(5月)
太平洋労働組合会議漢口で開催(5月)
第一次山東出兵2千人(5月)
対支非干渉同盟創立(5月)

大日本紡績橋場工場3千人スト(6月)
小樽セネスト6月11日~
東方会議開催(6月)
箕紋屋小作争議(6月)

ウィーン・ゼネスト鎮圧(7月)
「27年テーゼ」をコミンテルンが決議(7月)
神戸川崎造船所3500人大量解雇(7月~8月)
富士瓦斯紡績小名木川工場女工1千人スト(7月)
労働農民党が関東婦人同盟結成(7月)
社会民衆党が労働婦人連盟結成(7月)

中国共産党、南昌で武装決起(8月)、10月、井崗山に革命根拠地建設
岡谷山一林組スト(8.30~9.17)

5法獲得運動(9月)
216日間ストの野田醤油争議(9.16~28.4.20)

全国婦人同盟会創立(10月)
日本労農党全国婦人同盟を結成(10月)

11.7ロシア革命10周年記念集会各地で挙行(11月)
全国水平社北原泰作直訴事件(11月)

京都地方友禅工場解雇反対の争議頻発(12月)
労農派グループ(山川均、堺利彦、荒畑寒村、鈴木茂三郎ら)を形成(12月)

以上


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