先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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深川の5人の仲間の溺死事故に激怒した清掃労働者 1927年の東京市従組合ストライキ  1927年の労働争議(読書メモ)

2023年11月22日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

上・東京市従組合ビラ(1927.4)より
弁士に労農党本部役員や同東京府聯合会の「島上善五郎」、
市電自治会、統一運動同盟等の面々が並ぶ

深川の5人の仲間の溺死事故に激怒した清掃労働者 1927年の東京市従組合ストライキ  1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
  「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃  

 東京市従議員組合1926年争議の惨敗は、3千人いた組合員が三分の二に減った。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/58897f17744591d1cd837a59b8ca0bf9
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/4fa46ff9499b50efeeb1e05192bfccd5

 しかし、その半年後の1927年8月には組合会費完納者は3,115人となり組合は蘇った。道路だけでなく清掃の深川古石場の塵芥処理場、三河島の汚水処理場(土木局下水課)や市営工場の自動車修理工場、木造船工場、製管工場(月島)などの仲間たちが多数組織された。水道局も1926年に争議があり、市従が提携を申し入れたが、すでに市電自治会右派が指導権を握っていた。東京市従組合は解雇されたうち2人を専従とし、のちに評議会関東金属から移った者も含め5人専従体制で日常闘争と組織化にまい進した。例えば月島製管工場の女性労働者に被服支給要求など職場の労働者の不満、怒りをしっかり見逃さず職場闘争、組織化へと繋げていった。 

(5人の仲間の溺死事故)
 1927年8月10日、深川の古石場処理場で労働者を運ぶ船が転覆して5名の清掃労働者が溺死させられた。ここの職場500名の半数が東京市従組合員だった。もともと古石場の職場環境は極端に劣悪で、休憩も炎天下でゴロ寝するほかなく、日射病や煙害による眼病などが頻発しても、みな私病扱いであった。そのため毎日何十人もの欠勤がでた。

(決起)
 5人の仲間の溺死事故に、古石場清掃労働者は激怒した。翌日の11日は500名全員がサボタージュ闘争に入り誰も仕事につかなかった。市当局は慰謝料として亡くなった者へ一人当たりわずか480円の支給で片付けようとしてきた。8月17日、古石場労働者は職場大会を開き、(一)死亡者一人当たり日給2カ年分支給、(二)特別給付規定の即時実施、(三)解雇反対、(四)塵芥焼却場の整備改善など十項目の要求をかかげた。この要求を緊急な課題として東京市従全職場で代表者会議が続々と開催された。

(当局の弾圧)
 清掃労働者のこの切実な声に、なんと東京市当局は弾圧で応えてきた。8月26日、当局は、木造船工場のうち鉄船部閉鎖と労働者33名のクビを発表してきた。木造船工場はただちにサボタージュ闘争に突入した。古石場には解雇反対の争議団が結成された。8月31日には木造船工場争議団と月島製管工場の従業員大会を開催した。9月3日当局は要求拒否を回答してきた。5日製管工場もサボタージュ闘争に入った。3日保健局の、6日には土木局の従業員大会が開かれ統一要求を当局に提出した。

(官憲の襲撃、大量検挙)
 9月7日当局が要求拒絶を発表するやいなや、警察が大挙して組合を襲撃した。本部13名、古石場25(6)名、経理課20名の組合員が一斉に検束された。いまだストライキに入ってもいない段階での争議壊滅をねらう当局と警察の露骨卑怯な凄まじい弾圧であった。しかし、東京市従組合は決してくじけなかった。

(組合の抵抗)
 8日、東京市従組合は、組合を挙げてのストライキを宣言した。たちまち保健局1,500名、経理課300名がストライキを敢行した。10日、土木課にもスト指令がだされた。古石場は8日から10日まで全員が、11日、12日もほぼ完全なストライキ、木造船工場でも13日までストライキを続けた。保健局は日本橋・京橋・浅草が8日から13日まで、芝が10日から13日まで、四谷は一部が10日、11日。土木課では9日に京橋・浅草でサボタージュ闘争がはじまり、10日、11日には京橋・浅草・芝、それに四谷の一部がサボタージュ闘争ないしストライキ、京橋は12日に崩れたが、浅草・芝は13日もストを続けた。古石場の掃除夫と船夫もストライキに入った。

(さらなる弾圧と分断)
 9日、当局はさらに14名をクビにしてきた。しかし、今度も組合の結束は崩れなかった。当局による深川・浅草あたりの町内会や青年団を使ったスト破りの企てや暴力団の介入もでてきた。職場のボスを利用しての古石場の争議団と東京市従組合との分断も行われた。古石場の争議団が地域のボスの仲介で当局と単独交渉をはじめてしまった。その結果は、「即時就業、首謀者クビ、二度と争議はしない」という屈辱的屈服的な内容を古石場争議団は受け入れてしまった。完全な裏切り行為であった。肝心な古石場が崩れると争議は全市で壊滅状態となった。

(敗北)
 ついに争議団本部は14日に休戦宣言を出して、スト中の全労働者を職場に復帰させた。東京市従組合の惨敗であった。古石場で14人、背製管工場で16人、木造船工場で14人(最初の33人とは別)、神田・小石川・四谷の清掃で10人、芝で6人がクビとなり職場を追われた。

 今度こそ東京市従組合は崩壊すると思われた。事実、深川の古石場など組織が消滅したところもあった。しかし、東京市従労働者は再び立ち上がった。28年3月には長年の抗争であった「特別給付規定」などを東京市会で可決させた。多くの犠牲の中、組合員自らが勝ち取った貴重な成果だ。また東京市従は30年代初頭から当局が毎年のように行う大量解雇に対して抵抗し続けた。

以上



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