先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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中村哲医師の祖父、九州若松港の玉井金五郎の組織した「若松港汽船積小頭組合」の労働争議

2020年02月20日 23時50分06秒 | 1919年の労働運動

中村哲医師の祖父、九州若松港の玉井金五郎が組織した「若松港汽船積小頭組合」の労働争議

労働年鑑から、1919年の7月の労働争議をまとめていたら、

7月17日「門司市内の石炭沖仕約3000名が近頃の物価高騰を理由とする賃金4割増を要求し、13名の委員を選び関係会社と交渉を開始した。その後若松の沖仕の運動と連携した結果、26日夜ようやく3割値上げにて請負業者と折り合いがついたが、その後炭商側と交渉が長引き31日夜遅くようやく2割5分増にて解決した。ただし、陸上陸下の夜勤は3割増、船積みの夜勤は5割増となる。」

7月22日「九州若松市石炭汽船積み沖仕一同は小頭数名を代表者に選び、物価高騰につき賃金5割増の嘆願書を請負者側に提出した。会社は抵抗し、警察は小頭代表者を呼びつけ同盟罷業の挙にでないように圧力をかけた。若松港の現在の石炭沖仕は、沖沖仕、陸沖仕など総計3600名に及ぶ。請負側は24日協議の結果、沖陸共に4割増給を受け入れ、27日には、石炭商組合は、2割5分増額を認め、双方交渉の結果無事解決した」

を見つけた。1919年7月門司・若松の何千名もの労働者が連携して闘っている様子がよく伝わってくる。

2019年12月4日、アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて銃撃され死去した中村哲医師の祖父玉井金五郎が、この頃若松で港湾の小頭組合「若松港汽船積小頭組合」を組織した労働運動を指導していたが、この7月の門司・若松の闘いもその一つだろう。成人した金五郎の息子勝則が後に労組「若松港沖仲仕労働組合」を結成し、この時は若松市全市の大ストライキを組織している。金五郎の長男作家火野葦平の「花と龍」で描かれている。

「花と龍」より

「君は、小頭こがしらの組合を作る運動を、しよるちゅう話を聞いたが、ほんとな?」
「ぜひ、作りたいと思いまして……」
「ぜひ?……ぜひ、ということはないじゃろう。この間から、君に逢うたら、いっぺん、いおうと思うとったんじゃが、……どうも、君の考えは、間違うとるようにある。この若松というところは、石炭あっての港、石炭あっての町、ちゅうぐらいのことは、君に説明するまでもないが、その石炭は、三菱とか、三井とか、貝島とか、麻生とか、そういう荷主さんの炭坑があって、はじめて、この若松港に出て来るんじゃ。いわば、おれたちは、その荷主さんのおかげで、食わせて貰うとるというても、ええ。こうやって、一杯の酒の飲めるのも、そのおかげじゃ。……玉井君、そうじゃろうが?」
「おっしゃるとおりです」
「そしたら、われわれの恩人の、その得意さんを、大切にせんならんことも、当りまえじゃないか。違うか?」
「違いません」
「そうすると、玉井君、君の組合を作る運動ちゅうのは、お得意さんに、弓を引くことになりゃせんか?」
「いいえ、弓を引くというわけでは、けっしてありません。それは、荷主さんあっての私たちということは、充分、承知して居ります。けれども、現場で、下働きをしている仲仕たちの生活が、あんまりみじめで、こんなに貧乏なのは、やっぱり、どこかに、無理がある、それは……」
「どこに、無理がある?」
「一口に、思うようにいえませんけど、結局、賃銀が安すぎると思いますのです。荷主さんと、働く者とは、持ちつ持たれつ、なるほど、荷主さんあってはじめての私たちですけれど、これを逆に申しましたら、やっぱり、私たち働く者あっての荷主さんでありますし、荷主さんだけが肥え太って、働く者が、いつも、ぴいぴいで痩せとるというのは、正しいこととは思われません。それで、組合を作って……」
「荷主さんへ、喧嘩をふっかけるというのか?」
「そんな風に、いわれますと、困りますのですが……」
「どんな風にいうたって、同じじゃないか。どうも、君はおかしいなあ。それは危険思想ちゅうもんじゃよ。君は、社会主義者と違うか?」
「とんでもない。私は、ただ、仲仕の立場として、実際の問題を考えているだけです」
「君が組合を作るちゅうのを、おれが止とめるわけにもいかんが、おれの共働組だけは、そんな義理知らずの組合なんかには、絶対、入らせんから、そのつもりで居ってくれ」

(略)

「若松港汽船積小頭組合」の発会式まで、どうにか漕ぎつけることが出来たのである。
 とはいっても、その組合は完全なものではなかった。はじめから強力に反対し通していた友田喜造の共働組からは、一人の参加者もないうえに、栄盛組、大高組、三井物産、その他の中にも、加入しない小頭があった。それは、友田に気がねする者、組合の外にあって仕事を狙う野心家、組合の必要性に、まったく理解と関心とを持たない無知な者、などであったが、聯合組自体の中にすら、新参者である玉井金五郎の台頭を快く思わず、そっぽを向く者があった。

 品川信健が、「若松実業新聞」の社説で、金五郎を賞讃した。漢学をやったという筆者の論調は激越で、これを読んだ金五郎を当惑させた。
「暴力をもって、正業の人士を扼やくす。それ何ぞ、鬼畜に類するや。正義の徒、断乎、起つべし。最後の勝利は、吾にあり」
「吉田一派の弾圧と迫害とに屈せず、遂に小頭組合を結成せる玉井金五郎君に、満腔の拍手を送る。吾、彼に一個の英雄を見たり。百万人といえども行かんの気概、壮とせざるべけんや」
「同志よ、暗黒の中に、炬火をかかげたる玉井金五郎の後に続け」

中村医師が亡くなる前、アフガニスタンの宿舎の中に飾られていたのは、祖父、玉井金五郎の写真だった。
尊敬する中村哲さんにあらためて黙とうします。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-06-13 09:13:26
彼の甥が同級生です。
左派系の人は中村さんを反戦平和のシンボルみたいに彼を
持ち上げているようですが
そんな人じゃないですわ
己の筋道を通しただけです。
褒められようとおもわないでしょう。
逆に怒ると思いますね中村さんは。・
ふざくんな りくつじゃなかぞって。
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