先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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秋田県小坂鉱山煙害反対闘争 1925年主な小作争議(読書メモ)

2022年09月05日 08時00分00秒 | 1925年の労働運動

写真・小坂鉱山と煙害で枯れた一帯の野山

秋田県小坂鉱山煙害反対闘争 1925年主な小作争議(読書メモ)
参照
「日本労働年鑑第7集/1926年版」大原社研編
「小作農民の証言-秋田の小作争議小史-」野添憲治・上田洋一(あきた文庫)
「『種蒔く人』と秋田の無産運動 ―民衆の目覚め」野添憲治 http://roudousyaundou.que.jp/ronpyou_003.htm  

この地方をして第二の足尾における谷中たらしむるなからん事を!(「秋田県小坂鉱山鉱毒事件につき敢えて江湖諸賢に訴ふ」1925年12月25日)

小坂鉱山煙害反対闘争
 秋田県北は日本でも有数な鉱山地帯として知られ、中でも秋田県鹿角群小坂町の藤田組小坂鉱山は、一時は銅の生産が日本一になったこともある大鉱山であった。小坂鉱山は、8つの溶鉱炉を持ち、巨大な煙突からは、連日もくもくと煙が吐き出され、亜硫酸ガスや有毒な無数なチリが周辺の地域に無限にバラまかれていた。この小坂鉱山の煙害のもたらす被害は、作物に至っては収穫は9割減もの惨状で、また一帯の果樹、牧畜の草草、山林は枯れ、馬や家畜の成育にも障害が出ていた。

(農民数百名の決起)
 この窮状を小坂鉱山に損害賠償を訴えるも鉱山側は僅か50銭から一圓ほどの金をだしただけであった。ここに至り、小坂町の細越・濁川・砂子沢・野口・錦木村・柴平村ら10カ町村農民は結束して闘いをはじめた。1924年(大正13年)農民数百名が決起した。これは農民運動であったと同時に秋田の鉱害闘争の先がけであった。

(農民組合と労働組合が連帯)
 農民は、日本農民組合に加入し、日本農民組合関東同盟と全日本鉱夫総聯合が連帯し鉱山側との交渉をした。日農からは川俣清音、加藤勘十、浅沼稲次郎が、鉱夫総聯合からは可児義雄らが駆け付け、共に農家に泊まり込み全力で応援した。可児義雄らは「農民も、鉱山労働者も、藤田組の不合理により苦しんでいる点は同じであるから、ともに手を握ってたたかわなければならない」と鉱山労働者と農民の連帯によって解決の道をひらこうと呼びかけた。秋田県の労働運動史の上では先駆的な労農連帯の運動であったが、こうした叫びはこの時の煙害反対闘争やその後の県内の労働争議や小作争議に受け継がれていったのであった。1926年(大正15年)には小坂鉱山が不景気を理由に労働者の首切りをしたため、鉱山労働者がストライキに入った。この時、細越ら周辺の農民はこのストライキを我が事のように全力で応援した。村と町に「首切り反対」のビラをまいたり、ストの時は総出で応援に駆け付けた。(「小作農民の証言」が発行された1975年時点でも、細越の農民は毎年メーデーに農民歌や労働歌を歌ってデモ行進し、可児義雄記念碑の前で当時を偲び、誓いを新たにしているという。)

(約300名鉱山事務所に殺到) 
 1925年1月15日、突如農民約300名は鉱山事務所に殺到し、煙害問題が解決するまではここを動かないと決した。また農民代表可児義雄ら5名は大阪の藤田組本社に行き厳しく追及し、本社として現地実態調査をする約束をさせた。3月には10アール当たり13円余という当時としては破格な賠償額で解決をみたが、この年の秋からの異常な物価の値上がりで、今までの賠償額では到底生活ができなくなり、再び煙害争議が開始された。

(「秋田県小坂鉱山鉱毒事件につき敢えて江湖諸賢に訴ふ」)
 1925年12月25日、日本農民組合関東同盟小坂聯合会は、以下の「秋田県小坂鉱山鉱毒事件につき敢えて江湖諸賢に訴ふ」を発表した。

「秋田県小坂鉱山鉱毒事件につき敢えて江湖諸賢に訴ふ」
 小坂銅山は、明治17年藤田組の有に帰す。従来は『銀』を以て主産物としたるも明治35年製錬法を改良し『銅』を主産物とするに至る。『銅』を主産物にするに至って、鉱煙害鉱毒水の被害漸時激甚の度を極め今日に至る。・・・・・。

大正11年度賠償額は有力者が三日三晩酒池肉林の陶酔の裡に決定し、被害民に押し付けたものであった。・・・かくのごとし農民に対し絶望的打撃を与えていながら会社は或いは巧言令色等あらゆる手段方法をもって、有力者を篭絡し農民の利害を蹂躙しつつある。・・・・。


一人の富豪の営利のために数千町歩の耕地を侵し毎年四五万石の巨大なる減収を犠牲とし、幾千町歩の山林原野をして荒廃せしめ生育すべかりし樹木を枯死せしめ、その無残の状まことに筆舌に絶するものがある。・・・かつて秋田馬の産地として知られたるも、牧草枯死して家畜の用に満たす能わず、良材の産地として名あり、欝々として繁茂せる山林も今や樹木一切枯死、ただ徒に切株の往時を偲ぶ涙あるのみである。・・・・。


政府も政党も一度口を開けば、農村振興を叫びつゝある、今日、かくのごとき農村廃滅の事実を拱手傍観し、一資本家の営利のために数万の農民と数千町歩の耕地と数万町歩の山林原野を犠牲に供しつゝあるは、あまりにも矛盾も甚だしいと言わざるを得ない。今や資本家の暴戻は、農民の利害国民の生活を無視して顧みない。小坂銅山の鉱毒は秋田県下の農村を廃減し、耕地をして砂漠化せんとしつゝある。この問題は単に一地方のみの問題として看過するにはあまりに其の性質が国家的であり、社会的である。

 
請う!  天下任侠の士に冀(こいねがう)くは躃(へき)地の農民の上に熱烈なる同情の声援を興えられて、この地方をして第二の足尾における谷中たらしむるなからん事を。
大正十四年十二月二十五日

日本農民組合関東同盟 小坂聯合会

こうして小坂鉱山煙害争議は越年した。

秋田の小坂鉱山争議と可児義雄 1923年主要な争議⑪
(小坂鉱山煙害運動歌 可児義雄作(曲、旧制一高の寮歌・ああ玉杯に)
(
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/517881e4861c87995c470a365b2c2508)



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