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00 “建築”の再可視化へ向けて

 建築とは、雨風をしのぐためのシェルターとして、人類が獲得した最古の“技術”のひとつである。そして建築は、人間が環境世界へ住み込むうえで、重要な構成要素をなしている。
 
人類最古の“技術” 

 建築という“技術”は、文明の発展とともに堅牢な物理的存在として構築され、その不変性が永く“存在”の基準とされてきた。しかしその存在の基準が、古代ギリシャ人が考えた「物理的に不変かどうか」から、近代哲学が主張した「認識が可能かどうか」へと移り変わる*01とともに、“建築”の位置づけも変化する。
 アンドレ・ルロワ=グーランは「建築は、人間が世界を認識するための道具だ」*02とし、ル・コルビュジェは「建築は秩序づけることだ」*03とした。そしていま、ルチアーノ・フロリディがいうように、存在の基準が「相互作用の可能性があるかどうか」*01に変わる時、“建築”は、リアルの変容と同じく、バーチャル化の渦の中へと飲みこまれていく。
 こうした状況が行き着く先は、ポール・ヴィリリオがいう、「ドモテック(住宅安全管理システム)」*04であろうか。

居住に適した昏睡状態
 ドモテックの稼働により居住者は、情報通信をあらゆる場所で気軽に使いこなすことができる「リアルタイムのインターフェイス」によって、まさに「全てのものが居住者のもとに飛び込んでくる」*04状況に身をおくことになる。そして自分の家のあらゆるものをコントロールできる「動力」を身にまとった居住者は、「自分の家を『運転』する技術装置の真ん中に座るインタラクティブな場」の住人となる。
 このように、居住に必要なすべてのものをコントロールし、居ながらにして世界中のあらゆるものを引き寄せるドモテックは、しかし、伝統的な建物の「居住に適した環境」などではなく、「居住に適した昏睡状態」*04の場となる、とヴィリリオは警鐘する。なぜならドモテックは、「普段さまざまな機能を分離している距離と時間のズレをなくしてしまう」からだ。
 「ズレがなくなることによって、空間そのものや、それまで空間利用のリアリティを形作っていたものが消滅してしまい、もはや人は、これまでの構造化された空間に特別な意味を与えなくなる。」*04なぜなら、遠隔操作は、「事物間の距離や隔たりを仮想化」し、その結果、時間と空間の方向喪失、そして現実環境の急激な解体によって、方向基準を失った人間は、かつての、何がしかの『地平線』という古典的な参照基軸を、自分自身という参照基軸に置き換える。これによりわれわれは、(内向的な)自己中心的な空間のコントロールに向かい、もはやかつてのように(外向的な)外部中心的な空間の整備に向かうことはない、とヴィリリオは指摘する。こうして起こる現代住居の昏睡状態(コーマ)は、まさに『植物状態』に達しているというのだ。

バーチャル・リアリティの展開
 ドモテックは、まさに「バーチャル・リアリティ(仮想現実感)」の概念を居住装置にまで展開したものといっていいだろう。「バーチャル・リアリティ」とは1つの世界をコンピューターの内部ですべて実現しようとするものだ。そして前野隆司*05にしたがえば、同じく1つの脳内のニューラル・ネットワーク(小びと)の中に、すべての世界を実現しようとすることでもある。このような自己中心的な世界に閉じこもるドモテックの居住者は、リアルとバーチャルの境が判然としない世界の住人となる。

環境世界との対話を即すテクノロジー
 一方、人とコンピューターをめぐる最新テクノロジーのなかで「バーチャル・リアリティ」と正反対に位置する概念が、マーク・ワイザーが提唱したユービキタス(ubiquitous)であろうか。

 「バーチャル・リアリティは世界をシミュレートする膨大な装置の開発に焦点を合わせており,『すでに存在する世界をより豊かなものにする』というテーマには関心が払われていない」*06とワイザーは指摘する。
 彼は「最も完全な技術」とは,人類最初の情報技術と考えられる『書く』という行為や、産業革命で登場したモーターなどのように、「表面に出てこない技術」であり、「日常生活という織物の中に完全に織り込まれてしまっていて,個々の技術自体が私たちの目に見えなくなっているもの」*06だ、とした。そして、かつてのモーターが目の前から隠れてしまったように,コンピューターが背後に完全に隠されてしまう近未来を予想し、それを実現させるために「どこにでもあるコンピューター」(ubiquitous Computing)構想を提唱したのである。
 人間を取り巻く環境の中に、超小型のコンピューターと通信ネットワークを無数に埋め込み人間と相互作用させる、というその発想は、閉じた世界にすべてを実現しようとするバーチャル・リアリティの概念とは対極にある、我々と、我々が住み込む環境世界そのものとの“対話”を即すテクノロジーの提案でもある。
 そしてそれを居住空間に展開したものが“生きている家”=スマート・ハウスであった。

生きている家
 住む人の状態を見守りながら温度や湿度、灯りなどを最適に調整し、時に人と対話しながら様々な要求に応えていく“生きている家”=スマート・ハウスの発想は、1960年代の科学雑誌の中にはもうすでに登場している*07という。それをワイザー*08が「(ICチップの)超個体-すなわち相互接続された多数の部分からなるネットワーク-としてのオフィス」という考え方(スマート・オフィス/スマート・ハウス)として再提案したのである。
 この「(本やビデオテープなどという家中の)すべての情報に安価なチップを組み込んで、その所在と内容について交信できるようにする」*07という発想は、超小型で安価なICタグの登場と通信ネットワークの普及、そしてAR(仮想現実)などのインターフェイスの開発により、いまようやく、実用化の段階に入ろうとしている。
 アンドロイドがバーチャルに具体的な身体(リアル)を与えることによって、バーチャルとリアルの“間”をつなぐ技術であるとするならば、環境世界との対話を即すこの“生きている家”は、まさに環境世界を“実在(リアル)”として再び注目させる技術といってもいいだろう。

“見えない”技術
 人類最古の“技術”として登場した建築は、ワイザーのいう「最も完全な技術」の1つでもある。建築はすでに、我々の眼の前からその“技術”としての痕跡を消し去り、我々を取り巻く環境そのものとなっている。
 この技術の“消滅”は、ワイザーも指摘*06するように,技術的発展の帰結ではなく,人間の心理的な帰結によるものだ。すなわち人間は、あることを十分に理解すると,そのものをそれ以上意識しなくなる。記憶の奥底にしまい込み、「知っているつもり(FOK :Feeling-of-knowing)」という符牒のみが記憶の表面に残される状態となるのである。
 しかし建築は、我々が住み込む環境世界の中でも重要な構成要素の1つである。そして進展するクラウドの世界においても、その環境世界が“バーチャル”な世界を対照する“リアル”な世界として常に存在しつづけるとするならば、建築も、“リアル”な世界を構成するうえで重要な役割をはたしていかなければならない。それは“リアルをリアルたらしめる”技術としての役割である。しかしその役割を担うべき“建築”という技術は、いまは“見えない”技術でもあるのだ。

在点(ポイント・オブ・ビーイング)
 デリック・ドゥ・ケルコフは「テクノロジーとコミュニケーションの発展が速度を増すにつれ、相対的に私たちは速度をゆるめることが可能になり、そこに真の静けさを見つけることになる」*09と述べる。ヴィリリオが「昏睡状態」と捉えた同じ状況の帰結を、ケルコフは、自己認識を中心とした新たな意識改革の契機とみるのだ。

 ケルコフは、我々は「これまでの一次元的な『視点(ポイント・オブ・ビュー)』を手離し、代わりに新たな知覚であるところの『在点(ポイント・オブ・ビーイング)』を獲得する必要がある」と主張する。それは「遠近法(パースペクティヴ)」の成立から始まった、人類の環境世界の抽象化の流れが、バーチャル・リアリティへ向けてのテクノロジーの偏った発展により、ついには人々を「植物状態」にまで追い込むに至った状況の中で、「どこか特定の場所にたしかに存在しているという身体感覚」を足掛かりに、「在点(ポイント・オブ・ビーイング)」という「私たちの居場所を物理的に照会するための唯一のポイント」を獲得することの重要性を提起しているのだ。
 この「在点」という発想を持っていれば、「急速にテクノロジーで拡大した私たちの感覚が世界を動き回っても、自らを見失わずにすむ」*09のであり、ヴィリリオが危惧する「昏睡状態」にも陥らずに済むだろう。そしてこの「在点」の獲得において「建築」は重要な役割を果たすことになる。なぜなら「在点」は、「建築」がその重要な構成要素である環境世界(リアル)においてこそまさに確立されるものであるからだ。

再可視化で見えてくるもの
 “見えない”技術である建築は、ワイザーの環境世界との対話を即すテクノロジーなどとの融合により、別の様態を持って我々の前に姿を現すことが可能となるだろう。再び可視化された建築が示すもの。それは人間社会や環境に対する柔軟さと優しさに満ちたまなざしであり,文化や歴史など土地の記憶に対する配慮であろうか。相対的に速度をゆるめた我々の眼の前には,20世紀の速度と力に席巻された技術やデザインの影に隠れて見過ごされてきた様々なものが再び現れてくるにちがいない。それはバーチャル化の流れの中にあっても環境世界(リアル)に確固たるアイデンティティを与え、さらには視覚だけに捉われない、新たな知覚としての「在点(ポイント・オブ・ビーイング)」を伴う場となるはずだ。

 仮想世界の技術が急速に発達し、技術の発達に偏った渦が生じている現在、このアンバランスな状態を解消し、人間の精神と身体に生じている様々な“混乱”を収めるうえで、いま、建築という“見えない”技術を可視化し、環境世界(リアル)をリアルたらしめる“技術”としての再評価と、新たな知覚であるところの「在点(ポイント・オブ・ビーイング)」の獲得の場としての活用が求められているのだ。
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*01:人類をリセット―クラウド革命/ルチアーノ・フロリディ/ニューズウィーク日本版 2009.10.28
*02:身振りと言葉/アンドレ・ルロワ=グーラン/新潮社 荒木亨訳 1973.07.30
*03:建築をめざして/ル・コルビュジェ/SD選書021 鹿島出版会 吉阪隆正訳 1967.12.05
*04:瞬間の君臨-リアルタイム世界の構造と人間社会の行方/ポール・ヴィリリオ/新評論 2003.06.20 土屋進 訳
*05:脳はなぜ『心』を作ったのか―『私』の謎を解く受動意識仮説/前野隆司/筑摩書房 2004.11.15
*06:21世紀のコンピューター/M・ワイザー/浅野正一郎訳 日経サイエンス 1991.11 日経サイエンス社
*07:複雑系を超えて―システムを永久進化させる9つの法則/ケヴィン・ケリー/アスキー出版 1999.02.10 服部桂監修 福岡洋一・横山亮訳
*08:ワイザーと彼の所属したゼロックス社PARC(パロアルト研究所)の提案。*06参照
*09:ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ/NTT出版 1999.07.05 片岡みい子、中澤豊訳


todaeiji-weblog2 「建築とは何か」

    「建築随想」

  身ぶりと言葉
アンドレ・ルロワ・グーラン
新潮社

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建築をめざして (SD選書 21)
ル・コルビュジェ
鹿島出版会

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瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方
ポール ヴィリリオ
新評論

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52+6 リアルの変容06

 「Borg(ボーグ)」やAR(拡張現実)、最新の3D技術など、“情報有機体”へ近づく技術革新には目覚ましいものがある。しかしこの技術の発展にはアンバランスがあり、人々のコミュニケーションから肉体を不要にしようとしている。それは自己の“肉体”を足掛かりにしてきたリアルの在り方そのものも大きく変えようとしている。

ASIMOはアンバランス解消の切り札になるのか

 存在の基準が「物理的に不変かどうか」から「認識可能かどうか」や「相互作用が可能かどうか」に変わったころ*01から、リアルは変容を始めたといっていいだろう。認識可能性の重視はコミュニケーションの効率性の偏重を招き、世界の究極的な実在を“情報”とするパラダイム・シフトを引き起こした。そして相互作用の可能性の重視は、人間の拡張、魂の拡張としてのクラウドの世界の招来によって、バーチャルとの区別がつかない状況を生み出しつつある。

心そのものがバーチャルワールド
 心を持つロボットはつくれる、と断言する前野隆司は、「人間の意識も、意識活動にともなうクオリアも、実は脳による計算、言ってしまえば幻想なわけで、そこに実在はない」*02という。そして実は人間の心そのものが「巧みで繊細で美しいバーチャルワールド」なのであり、人工のバーチャルリアリティとの違いは、リセットできない(今のところは)ことだけだ、と主張する。
 しかしこの主張には、前野自身も言うように、「自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在」*02であるという前提があり、具体的な身体を持って環境世界へと住み込み、その世界で相互作用を図ることこそが、心を獲得することの前提となっているのだ。
 もちろんラマチャンドランの研究*03が示すように、容易に自分の身体イメージを書き換えてしまうという脳の特性を利用すれば、こうした外部世界そのものをバーチャルなものに置き換えることも可能かもしれない。たとえば“リアル”から“リアル”への転身をテーマにした「アバター」自体が3Dを駆使した「映画」の世界(バーチャル)であったのと同じように。
 リアルとバーチャルの関係は、自分の立ち位置によって幾重にもバーチャルとリアルが入れ代わる複雑な入れ子構造を成しているといっていいだろう。その入れ子の究極的な姿が、このような、我々が住み込む環境世界そのものを人工のものに移し変えること、なのだろう。しかしそれはまさに宇宙全体をつくりだすことに他ならないのかもしれない。

宇宙はコンピュータのプログラムなどではないのかもしれない
 多くの物理学者は、考えうる最小の極微の世界*04では、時空はもはや滑らかではなく、粒々の「泡」だらけになるという。その微小の泡ひとつひとつに1ビットの情報が含まれていて、世界はぶつぶつのデジタルの世界*05だ、というのだ。
 これが“世界は情報から成り立っている”ということの重要な論拠のひとつになっているのだが、最新のM理論*06によると、この時空が泡だらけになる「最小の距離」は時空の終着点ではなく、それよりはるかに小さな距離の世界でもデジタル化されない滑らかな、連続的な構造をもつ場の理論が通用する*07という。すなわち宇宙は、ぶつぶつのデジタルの世界で終わりではないのかもしれないのだ。
 連続した構造をもつ場の理論からデジタルな構造へ、そして再度滑らかな連続性へ。物理学におけるこうした概念の変遷は、実は従前の概念があらたな理論展開を受けて、はるかに高いレベルの概念として再復活する、ということでもある。
 “情報へ”という大きな流れの中で、宇宙のさらなる本質はデジタルではないのかもしれない、というこうしたあらたな理論展開は、“強いAI”批判を展開し、統語論と意味論の立場から「いかなるプログラムも、それだけではシステムに心を与えるのは不十分である」*08としたサールとは別次元の論拠として、「宇宙はコンピュータのプログラムなどではないのかもしれない」*07といえるのかもしれないのだ。

リアルをリアルたらしめる技術
 環境世界をつくり込むことは、宇宙をつくり込むことである、とするならば、そして、その宇宙はプログラムなどではない、とするならば、バーチャル技術がいかに進展しても、環境世界そのものを、バーチャルで置き換えることは困難なのかもしれない。
 
もしそうだとするならば、ネット上のバーチャルな世界に、現実(リアル)の世界が飲み込まれるかのようなクラウドの世界においても、環境世界そのものは、その“バーチャル”な世界を対照する“リアル”な世界として常に存在し続けることだろう。
 いまバーチャルとリアルが複雑に交錯し、我々の精神のみならず、身体をも巻き込んで、我々を“混乱”に陥れているのは、石黒浩*09が言うように、バーチャルをリアルへ限りなく近づける“技術”が、あまりにも突出して発達し過ぎているためであろうか。この混乱を収めるために石黒が提案するアンドロイドは、バーチャルな世界にリアルな身体を与えることによって、リアルとバーチャルの“間”をつなごうとする“技術”と言ってもいいだろう。
 そしてもうひとつ、いま、リアルをリアルたらしめる“技術”にも注目する必要があるのではないだろうか。
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*01:人類をリセット―クラウド革命/ルチアーノ・フロリディ/ニューズウィーク日本版 2009.10.28
*02:脳はなぜ『心』を作ったのか―『私』の謎を解く受動意識仮説/前野隆司/筑摩書房 2004.11.15
*03:脳の中の幽霊/V.S.ラマチャンドラン/角川書店 1999.08
*04:プランク長さ(10の-33乗cm)が、この世界で取りうる最小の長さという。
*05:こうした考えに従えば全宇宙の“情報”の量は、10の100乗ビット以上という途方もない数字になる。この単位をグーゴルgoogolといい、グーグルgoogleの名はこれをもじったものだ。*06参照
*06:Mは「membrane(膜)」の意味。「matrix(基盤)」「mystery(謎)」「magic(魔法)」「mother(母)」の意味にもとれる。超ひも理論とM理論は本質的に同じだが、M理論のほうがより高度な概念で、さまざまな超ひも理論をひとつにまとめている。現時点では、M理論だけが、現代物理学が直面している最大の課題、一般相対性理論と量子論をひとつにまとめ「万物理論」にする可能性を持っている。
*07:パラレルワールド-11次元の宇宙から超空間へ/ミチオ・カク/日本放送出版会 2006.01.25 斉藤 隆央訳
*08:ロボットの心―7つの哲学物語/柴田正良/講談社 2001.12.20
*09:人とロボットの秘密/堀田純司/講談社 2008.07.03


脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説
前野 隆司
筑摩書房

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52+5 リアルの変容05

リアルからリアルへの転身
 ネット上の用語でアバター(分身)とは、いままでは「meet-me」などのバーチャルコミュニティ(メタバース*01)の中で、参加者自身の「分身となるキャラクター」をさすことが多かった。アニメ的なキャラクターの外見を自分好みに選択・デザインする“着せ替え人形”によって、変身願望と匿名性を満たすとともに、現実(リアル)の世界から仮想現実(ヴァーチャル)の世界へと自身を転身させる手段でもあった。
 一方、キャメロンが創造した世界では、主人公が現実世界から転身するアバターは、生身の“身体”を持つ存在(もちろん映画の中ではフルCGで表現されてはいるが)として描かれている。ウォシャウスキー兄弟の映画「マトリックス」においては、リアルからヴァーチャルへの転身がめくるめくシミュラークルの世界*02として展開されたが、「アバター」では転身の対象がリアルからリアルへと切り替わり、その“リアル”さが最新の3D映像によって臨場感鮮やかにわれわれに伝えられた。

「meet-me」の中のアバター

 堀田純司は、アメリカの神経科学者、V・S・ラマチャンドラン*03の研究を引き合いに出し、人間同様にふるまう機械ができ、人間がそのセンサーの情報をリアルタイムに獲得しながら機械を操作するようになると、思ったより簡単に、自分の身体イメージは拡張され、そのボディを自分の体であると感じるのではないか*04と述べる。人間の脳は、ゴムの手であったり、机であったりしても、案外簡単に自分の身体イメージを書き換えてしまい、自分の体だと感じてしまうという。「アバター」における“リアル”への転身は、そのような意味で人間の脳の特性を生かしたリアリティのある設定でもあるのだ。

思考には身体が必要である
 ウィーラーやチャーマーズのように世界の究極的な実在を“情報”とするパラダイム・シフトが広がるなか、存在の基準が相互作用の可能性の有無によって論じられようとするとき*05、ともすればわれわれはヴァーチャルな存在ばかりに気を取られ、生身の“身体”の重要性を忘れがちになる。人間の拡張、魂の拡張とまでいわれるクラウドの世界*06は、あたかもネット上のヴァーチャルな世界に、現実(リアル)の世界が飲み込まれるかのようでもある。それが行きつく先は、まさに人間がコンピュータのプログラム(情報)の中に住み込むという「マトリックス」の世界なのかもしれない。

 しかしAI(artificial intelligence)研究の中で生じた“強いAI批判” *07や“フレーム問題” *08などの高いハードルの中で、実はプログラム(=デジタル/情報)は「《考える》ということの錯覚を周囲に生み出す力があるだけ」*09であり、真に“思考”するためには感覚能力と運動能力を持った“身体”が必要であること。具体的な身体を持って環境世界に住み込むことによってはじめて、周囲の世界から“意味”を引き出してくることが可能なのだということが示された。つまり思考にはリアルな身体こそが必要なのだ。
 そしてまた、環境世界に住み込む人工知能(AI)をもつアンドロイド(体を持った知能ロボット)が、現実の状況の中で自身の直面する事態の意味を理解し、それに対処するためのフレーム問題をクリアするためには、「判断することなき合理的考慮」*09すなわち“感情”が必要*09*10になるのだということもわかってきた。高度な人工知能を持つアンドロイドが人間の“感情”を理解できずに悩むというアニメやSFによくでてくる話は、実は“感情”をあらかじめ持たないで「フレーム問題」を解決し、現実世界の中に住み込むことのできる人工知能は成立しない、というAIの必須条件を無視した寓話にすぎないのだ。

アンバランスな開放
 リアルな世界(現実の環境世界)で、リアルな意味(真の“思考”)を持ち得るためには、リアルな身体(生身の身体)とリアルな感情(直截的な考慮)が必要になるのだということ。こうした“リアル”の重要性を再認識したAI研究の成果の一方で、世界はヴァーチャル化の度合いを深めている。石黒浩はこうした状況を「人間は肉体を開放するのが早すぎたのかもしれない」*04と危惧する。ネットゲームにのめり込み、生殖や食べることといった「自分の肉体を確認する究極の手段」ですら希薄にしてしまった人々(ネットゲーム廃人)などの出現が、そうした危惧の背景にはある。工学者である石黒は、仮想世界の技術が急速に発達したため、技術の発達にかたよった渦が生じているとして、このアンバランスを解消するために「仮想世界に肉体を与え、逆に仮想を物理空間へと結びつける技術」が必要であり、その代表がアンドロイドの技術である*04という。

 アンバランス解消のために求められるものはそれだけではない。
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*01:メタバース(meteverse):インターネット上に存在する電子三次元空間のこと。
*02:ジャン・ボードリヤールは、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測した。「シミュラークルとシミュレーション(1981)」/竹原あき子訳/法政大学出版局 1984
*03:脳の中の幽霊/V.S.ラマチャンドラン/角川書店 1999.08
*04:人とロボットの秘密/堀田純司/講談社 2008.07.03
*05:人類をリセット―クラウド革命/ルチアーノ・フロリディ/ニューズウィーク日本版 2009.10.28
*06:クラウドの文化/ケヴィン・ケリー/Kevin Kelly "Cloud Culture" 2008.10.22 堺屋七左衛門訳/七左衛門のメモ帳 2008.12.24
*07:脳はデジタル・コンピュータに他ならず、心はコンピュータ・プログラムに他ならない、というチューリングらが主張する「強いAI」に対し、ジョン・サールは、統語論と意味論の関係からその主張が誤りであること、すなわちプログラムから心(アウェアネスawareness気づき)は生じないということを論じた。*09*10参照
*08:「フレーム問題」とは、現実の状況の中で自分の直面する事態の意味を理解し、それを適切に対処するにはどうしたらいいかという問題である。
*09:ロボットの心―7つの哲学物語/柴田正良/講談社 2001.12.20
*10:考える脳・考えない脳-心と知識の哲学/信原幸弘/講談社 2000.10.20


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52+4 リアルの変容04

Borg(ボーグ)
 グーグルの次世代の基盤技術のひとつである「Borg(ボーグ)」*01の名は、「スタートレック」*02に登場する生物と機械の融合体ボーグBorgに由来する。そのボーグは、脳に直結された通信装置によって、所属する生命体*03全員が瞬時に情報を共有することができる最強の機械生命体で、「知識や経験といった人間の社会では個人に属する情報」まで共有するため、ボーグには、個という概念が存在しない。それは極めて共産的であり、集合したひとつの生命体のような存在として描かれている。

 地球上のすべてのコンピュータがネットにつながり、ものごとの“知識”だけでなく“判断”がすべてそこに存在するようになるクラウドの世界において、われわれが自分の脳で考えるように、何の抵抗もなく瞬時にそれらにアクセスできるようになる時(グーグルの次世代基盤技術はこうした遅滞なきIT基盤の確立を目指しているものだ)、われわれはまさに脳がネットに直接連結されたボーグのような情報有機体に近づいていくのだろう。
 そのための技術開発は目覚ましく、「Borg(ボーグ)」だけでなく、たとえば「セカイカメラ」のようなAR(拡張現実)技術*04は、まさに移動しながら、あるいは日常的にわれわれがこうした情報ネットに繋がる状況が、もう間近に迫っていることを予感させるものだ。

地球も生命のネットワークに溢れているが、われわれはその繋がり方を知らない。
12 ボードウォークな建築

集合の精神と個の自立―「アバター(Avatar)」の世界
 ルチアーノ・フロリディのいう情報的有機体としてのインフォーグ*05、あるいはグーグルの「Borg(ボーグ)」が導こうとするクラウドの世界は、人類がネットで結びつき、生物や人工物および両者のハイブリッドと地球規模の環境を共有するであろう近未来の姿である。それは「巣の集合精神」によって、地球環境をよりよい方向へ導く可能性を秘めてもいながら、他方で、個という存在の埋没、あるいは喪失というあらたな“専制国家”を招く可能性も抱えている。

 ジェームス・キャメロンの「アバター(Avatar)」には惑星全体が生命のネットワークで結ばれている世界パンドラが登場する。ヒト型の知的生命体ナヴィはフィーラーと呼ばれる尻尾の先端を他の動植物に繋げることによって、生体電流を介した生体情報交換能力により、生命のネットワークに参加することができる。さらに惑星の全生命が“記憶”としてそのネットワークの中に蓄積され、過去から繋がる全ての生命体の記憶に“魂の木”を通じて触れることができる。そのネットワークが構成するものは、まさに惑星生命体の“ガイア”*06であり“神”のあらたな定義でもある。
 「スタートレック」のボーグと異なるのは、フィーラーを外すことでそのネットワークから離れ、個として、あるいは種族として独立した生活を営めることだ。通常はネットと切り離された弱肉強食の世界に彼らは生きることになる。しかしながら個々、あるいは種族ごとに生命のネットワークの中にあるという意識が常にあり、ひとたび生命全体の危機が迫れば「巣の集合精神」としての共通した“意志”を生み出すことができるのだ。「アバター」には、ネットによる集合と個という問題に対するひとつの理想的な回答が提示されていると言っていいだろう。
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*01:Googleの全貌―そのサービス戦略と技術/日経コンピュータ編/日経BP社 2009.12.14
*02:ジーン・ロッデンベリーが生み出したSFテレビ・映画シリーズ。1966年開始のTVシリーズから2009年の最新映画「スター・トレック」まで40数年続く長期シリーズである。
*03:これをドローンDroneという。ハチなど社会性昆虫における繁殖を担う個体群(→(英)Drone (bee))のこと。ハチやアリのコロニーの超生命体(スーパーオーガニズム)的振る舞いの研究から、「巣の集合精神」を「創発」する多数の構成要素をさす。「52+3リアルの変容03」参照。
*04:現実世界にコンピュータが作り出した追加情報を加えて、ひとつの映像として見せる技術。「ターミネーター」の「目」の世界だ。「セカイカメラ」はiPhoneのARを使ったアプリ。
*05:人類をリセット―クラウド革命/ルチアーノ・フロリディ/ニューズウィーク日本版 2009.10.28
*06:地球生命圏―ガイアの科学/J.E.ラヴロック/工作舎 1984.10.15 星川 淳訳


Googleの全貌
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地球生命圏―ガイアの科学
ラヴロック 星川 淳訳
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52+3 リアルの変容03


クラウドの世界
青天に浮かぶ純白の世界か、暗く覆われた灰色の世界か

 エリック・シュミット*01が命名したクラウド・コンピューティングが、いま注目を集めている。それは狭義にはインターネットの向こう側に様々なハード、ソフト、データなどをおき、それらをユーザーがネットを通じて利用するというビジネスモデルをさすものだが、そうした形態については従来からあるネットワーク・コンピューティングを新しい言葉で言い換えただけだ、という議論や、バズワードにすぎない、という指摘もある。
 しかしケヴィン・ケリー*02が問題にするように、地球上のすべてのコンピューターがネットでつながるようになった時、そのコンピューターにつながる人間自身の文化そのものも大きな影響を受けるようになる、そのような状態。あるいはルチアーノ・フロリディ*03がいう「インフォーグ」―すなわち人間がネットで相互に結びついた情報的有機体を形成し、生物や人工物(および両者のハイブリッド)の行為主体と地球規模の環境-「インフォスフィア(情報圏)」を共有するだろうという世界。そうした状態や世界をイメージし、議論するうえで“クラウド”という言葉は、いまのところ最もふさわしいネーミングのように思える。

クラウドによる文化とは何か?
 ケヴィン・ケリーはクラウドの文化を次のように述べる*02
 われわれは常時接続のせいで「オン」が見えなくなる。あらゆるものが接続されていて、しかも常に「オン」であるという感覚を持つようになり、われわれの自己はクラウドにのめりこんでいく。そしてそこは世の中の多くのものが存在し、「何でもある」世界となる。
 クラウドは「巣の集合精神」による道具であり、様々なものをより賢く共有する道具である。その結果われわれはこの上ない依存性を持つようになり、クラウドは切り離せない存在となる。
 すべてがクラウドの中にあるようになると、クラウドは人間の魂の拡張、人間自身の拡張となる。クラウドのある生活では、すべての情報源の集合を信用するようになる。
 一方で、異なる法制度ごとに存在する明らかな断絶は、複数のクラウドの発生を即し、地理的地域ごとに見ればほとんど選択の余地がない。プライバシーは共有され、従来われわれが考えていたプライバシーというものは終わりを告げるだろう。そしてクラウドは一種の共産主義的な仕組みとなる。

クラウドはどこへわれわれをつれていくのか
 すべての情報や判断が集まり、われわれをより賢く集合させるクラウドは、「巣の集合精神」*04を生み出すようになるのだろうか。もしそうだとすれば、クラウドによって結ばれた情報有機体としてのわれわれは、あらたな地球生命体の担い手として、地球の崩壊を食い止め、マニュアルなき宇宙船地球号をより良き方向へと導く「創発的(エマージェント)」な意思決定としての「巣の集合精神」を生み出す可能性を持っていることにもなる。
 一方で、われわれがのめりこみ、この上なく依存し、切り離せない存在となるクラウドは、異なる法制度(もちろん異なる言語も)ごとに複数存在し、われわれに選択の余地なく形成される。共産主義的な集合性をもち、従来的なプライバシーの存在しないクラウドは、ウェブ上に形成される“専制国家”になりはしないか、という懸念も生まれる。

クラウドの予兆
 地球温暖化対策の新しい枠組みづくりのために今回開かれたCOP15では、地勢学上に生まれたすべての国家同士の話し合いの限界と、そこにあらたに加わったNGOの存在と役割が注目された。もちろんそれらNGOも多種多様であり、様々な意見を持つものの集団であるが、共通するのは構成メンバーの多国籍化と、情報量の多さである。まさにウェブ上の情報の自己組織化によって発生した集合体が実体化し、地政学的国家との交渉の表舞台に登場してきたかのようである。それはクラウドの世界の実世界との関わり方のひとつの予兆を示しているとはいえないだろうか。
 それは地政学的国家に変わるあらたな指導的役割を担っていくのか、あるいはただ混沌に拍車をかけ、分散化を果てしなく助長していくだけなのか。全地球的な生命体の「巣の集合精神」へと収斂していく担い手として“クラウドの世界”はわれわれをより生存の可能性の高い秩序へと導くことができるのだろうか。
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*01:グーグルのCEO。2006年にはじめて「クラウド・コンピューティング」という表現を使用した。
*02:クラウドの文化/ケヴィン・ケリー/Kevin Kelly "Cloud Culture" 2008.10.22 堺屋七左衛門訳/七左衛門のメモ帳 2008.12.24
*03:人類をリセット―クラウド革命/ルチアーノ・フロリディ/ニューズウィーク日本版 2009.10.28
*04:「巣の集合精神」:多数の「自律的」な存在の集合から「創発」的に生み出される、一つの「総体」としての振る舞い、あるいは一つの連続的な流れ、ないしはプロセスのこと。アリのコロニーの超生命体(スーパーオーガニズム)的振る舞いの研究からこう呼ばれる、複雑適応系の重要な特徴の一つ。*05参照。
*05:複雑系を超えて―システムを永久進化させる9つの法則/ケヴィン・ケリー/アスキー出版 1999.02.10 服部桂監修 福岡洋一・横山亮訳


「複雑系」を超えて―システムを永久進化させる9つの法則
ケヴィン ケリー,服部 桂
アスキー

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52+2 リアルの変容02


情報のガジェット(言説)からなるデータベース
“書籍”の図書館はリアルからウェブへ


 ルチアーノ・フロリディは、現在のデジタル革命を、人間の本質と宇宙における役割を見直す長期的プロセスの延長線上にある「第4の革命」*01だと位置づける。今日それは「人間と現実の究極的本質に対する私たちの理解、すなわち形而上学的認識の中心を物質から情報に変え」*02つつあるという。すなわち、いま「存在の基準(何かが存在するとはどういうことか)」は「相互作用の可能性があるかどうか」に変わっているというのだ。それは古代ギリシャ人が考えたように「物理的に不変かどうか」ではなく、近代哲学が主張したように「認識可能かどうか」でもない。つまり「存在とは、相互作用が可能な状態のこと」であり、その意味ではウェブ内の“情報”の世界におけるバーチャルな“相互作用”でも構わないのだとフロリディは主張する。

それは情報から
 それはディヴィット・J・チャーマーズの「情報の二相原則(1995)」*03-すなわち世界の究極的な実在を情報とし、その情報が物理的な性質と現象的な性質を持つという主張を踏襲するものだ。この物質から情報へというパラダイム・シフトが、インターネットや移動体通信の飛躍的な発達(デジタル革命)の進行とともに、急速に全世界に広がりつつあるとフロリディはいう。
 こうした意識変革のきっかけの一つが、ブラックホールの名付け親としても有名な理論物理学者であるジョン・アーチボルト・ウィーラー*04が提起した「それはビットから(it from bit)」(1989)であろう。
 「“it”すなわち物質世界は、その全体あるいは一部分が、“bit”、すなわち情報から作られている」*05というウィーラーの仮説を、アントン・ザイリンガーは1999年、量子力学の『基本原理』*06を構成する第1番目の法則としてとりあげ、次のようにまとめた。
 「世界に関して受け渡しできる情報の最小量は1ビット」であり、「我々は1ビットに満たない情報を想像することはできない。だから我々が理解可能な最も単純な物理的存在(¬=基本系)は1ビットで記述できる」*05
 物理学者たちが論ずる、高度に数学的で論理的な世界は、その類まれなる“例え”によっていままでも数学や物理学に縁のない多様な分野において、連想ゲームのように次々とイメージを誘発させ、伝搬させてきた。ウィーラーが提起した「それはビットから」も、チャーマーズらに、世界を、純粋な情報空間、基本的な差異の因果的かつダイナミックな関係の世界と見る「不思議なくらい美しい考え方」*07として捉えられた。そしてわれわれがつくりだした情報のウェブの発展と普及によって、われわれ人間社会そのものが大きく変わりつつある、そういう流れの中で提起されたそれは、瞬く間に人間とそれを取り巻く“現象(リアル)”の本質に対する“理解”に対してパラダイム・シフトを惹き起こしたのである。

身体の拡張から魂の拡張へ
 エフゲニー・モロゾフ*08がいうように、情報の自己組織化、すなわち重要な情報は“代替可能な形態”になってさえいれば、例外なく、いずれは自然に1か所に集まってくる。インターネットの普及は、情報のデジタル化によって情報の相互互換性、代替可能性を高める基盤を築いた。そしてその基盤の上に登場したグーグルは、情報の自己組織化を“かつてなく容易に、そして安価に”促進する道*08を開いた。
 しかし、モロゾフによれば「ウェブは情報の自己組織化を容易にしたが、情報を評価するプロセスにはほとんど影響を与えていない」*08という。膨大な量の情報が増え続けるなか、われわれはそれらを評価できなくなりつつあり、それらの情報を有意義に統合し、読みやすい形にまとめる“書籍”の価値が高まっているというのだ。
 グーグルはそうした“書籍”の価値をいち早く見抜いてもいる。その象徴的なプロジェクトが「万能図書館」構想であろう。ケヴィン・ケリー*09によれば、全世界で過去に出版された3200万点の書籍(記事・論評を含めると8億点に近い数になる)のうち、実に75%は現在、印刷や出版もされず、図書館で閲覧もできない闇の中に埋没してしまっているという。それは人類の知的財産の膨大な損失であり、これから以後、そうした損失を防ぐ唯一の手段が、書籍のデジタル化なのである。それをグーグルは大々的に実行しようとしている*10
 単なる事実としての情報の集積は従来のウェブでも充分であった。「万能図書館」構想が目指す書籍のデジタル化がもたらすものは“書籍”を代替可能な形態にすること、情報を“評価”したガジェット(言説)からなる「データベース」の構築である。それは単なる“事実”の 情報だけでなく、それらの情報の“評価”をも自己組織化する道を開くものだ。
 ものごとの“知識”だけでなく“判断”もが、すべてウェブ上に存在するようになる時、すなわち「私の人生におけるすべての画像、すべての興味の断片、すべてのメモ、すべての雑談、すべての選択、すべての推薦、すべての考え、すべての願望 ―もしこれらすべてが(ウェブ上の)どこかにある」*11時、われわれは自分自身に対する考え方を変えざるを得ないだろう。このように発展したウェブの世界は、道具を身体の拡張といったマクルーハンに従えば、まさに「人間の魂の拡張」あるいは「人間自身の拡張」*11といっても差支えないだろうとケヴィン・ケリーはいう。それが彼が予測する“クラウドの世界”であり、われわれは好むと好まざるとに関わらずその世界へと突入することになるだろう。
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*01:人類の本質を見直す3つの革命「私たちは宇宙の中心に位置する不動の存在ではなく(コペルニクス革命)、他の動物たちと切り離された別個の存在でもなく(ダーウィン革命)、自分自身を完全に理解できる純粋な合理的精神などでは決してない(フロイト革命)」*02
*02:人類をリセット―クラウド革命/ルチアーノ・フロリディ/ニューズウィーク日本版 2009.10.28
*03:意識する心―脳と精神の根本理論を求めて/ディヴィッド・J・チャーマーズ/林一訳 白揚社 2001.12.20
*04:ホイーラーとも表記される。1911~2008。彼の教え子でもあるリチャード・ファインマンは彼のことを「知の怪物(モンスター・マインド)」と呼んだ。
*05:量子が変える情報の宇宙/ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー/日経BP社  2006.03.27  水谷 淳訳
*06:Foundation of Physics(1999)/Anton.Zeilinger 1945~ オーストリアの理論物理学者
*07:もっともチャーマーズはこの美しすぎる世界像には、二つの大きな問題がある*03という。それはこうした純粋な情報空間以外にもわれわれには何か違うものがあるのではないか、と思えることと、こうした世界像に何か矛盾があるのではないか、ということが“はっきりしない”という二つである。
*08:ネットは本を変えるか(本と雑誌と新聞の未来)/エフゲニー・モロゾフ/ニューズウィーク日本版 2009.11.18
*09:ケヴィン・ケリー/NYタイムズマガジン/クーリエジャポン2006.7.20に再録
*10:ケリーが予想した通りこの構想の最大のネックは著作権との折り合いだ。グーグルと著作権“界”との話し合いの中で、この11月に日本を除外し、英語圏に限定した和解修正案が提示されたが、書籍のデジタル化がもたらす意義は大きく、日本においても対岸のことと傍観せずに、こうした構想と著作権との、何らかの折り合いをつけるべきである。
*11:クラウドの文化/ケヴィン・ケリー/Kevin Kelly "Cloud Culture" 2008.10.22 堺屋七左衛門訳/

七左衛のメモ帳 2008.12.24

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて
デイヴィッド・J. チャーマーズ
白揚社

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量子が変える情報の宇宙
ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
日経BP社

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52+1 リアルの変容


リアルに踏み込まないデザイン/アニメキャラのフィギュアたち

コミュニケーションの効率性が参照するもの
 芸術は虚構を模倣すると市川浩*01は述べる。その時の虚構とは「現実」からのわずかのズレが引き起こすものであり、そのベースにあるものは、あくまで「現実」の写生にある。ところが現代(東浩紀流にいえばポストモダン)にあらたに登場した小説(キャラクター小説等)では、描写するのは「現実」ではなく、アニメやまんがのようなもう一つの「仮想現実」なのだ、と大塚英志*02はいう。
 稲葉振一郎や東浩紀は、リアリズム小説や映画が「現実世界」と些細なところでしか食い違わない世界を舞台とする(すなわち市川浩のいうところの現実(虚構)を模倣する)理由は、まず基本的にはコミュニケーションの効率性の問題であると指摘する。*03*04
 「いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない」*04と東は述べ、それ故、自然主義文学(リアリズム小説等)の作家を取り囲んでいた近代社会の、人々のイデオロギーや世界観を調整し、構成員がひとつの「現実」を想像的に共有するように強制していた社会環境という前提の中にあっては、「現実」を模倣することがもっともコミュニケーションの効率がよいために、そうされたのであり、同じように、大塚が指摘するポストモダンのキャラクター小説の作家たちは「現実」を共有するという前提が崩壊しているポストモダンの現代という社会環境の中にいるために、もっともコミュニケーションの効率がよいキャラクターを参照しているのだという。
 こうしたコミュニケーションの“効率性”への着目は、オタク現象全般についての東浩紀の次のような理解にもつながる。
 「オタクたちが社会的現実よりも虚構を選ぶのは、その両者の区別がつかなくなっているからではなく、社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範のあいだのどちらが彼らの人間関係にとって有効なのか(中略)その有効性が天秤にかけられた結果である。」*05

日常そのものの在り方
 いまあらためてコミュニケーションの“効率性”、あるいは人間関係の“有効性”の重視ということに注目が集まっているのは、実は日常の人間関係の“在り方そのもの”がいま問われているからに他ならない。ポストモダンの現代では、日常そのものがポストモダン以前の日常とは異なり、人々は日常そのものの在り方を模索しているといっても過言ではないだろう。たとえば、東浩紀のいう通りだとすれば、オタクにとってはすでに「仮想現実」が日常化しているといってもいいのではないだろうか。そうだとするならば、彼らのつくりだすものにも「仮想現実」の日常化と同じレベルの日常性が色濃く反映していてもおかしくはない。

リアルに踏み込まないデザイン
 現代(ポストモダン)の「ひとがた」の製作者たち。特に現実(リアル)から離れてアニメなどの二次元のキャラクターから三次元の立体像=フィギュアをつくる人達のデザインを見ると、そこには「ひとがた」のデザインを仮想現実の日常を映すものとして捉えていることを見て取ることができる。

 彼らのデザインは、あえてリアルに踏み込まない。彼らは不気味の谷が発生する一歩手前でリアルの追求を止めてしまう。リアルに近づいて行くときに見える深い割れ目に彼らは近づこうとしない。彼らの創作の動機を、ポストモダンにおける社会状況の変化の中でのコミュニケーションの“効率性”にあるとするならば、「不気味の谷」のようないわばコミュニケーションの断絶、あるいは拒絶するようなものは“必要ない”のである。
 ゆえに彼らの「ひとがた」には「不気味の谷」が発生しない。あるいは、その存在自体が疑われる*06ことになる。不気味の谷が、創造の特異点だという意味でいえば彼らのデザイン過程には、創造の特異点それ自体が生まれてきていないといえるのかもしれない。

芸術の変容
 東が言うように、製作者の個々の表出である“芸術”は、発信者と受信者のコミュニケーション抜きには存立しない。しかし、そのコミュニケーションにおける“効率性”の過度の重視は “芸術”そのものの変容を強いるようになる。

 石膏の型取りによるラオコーン像のコピーが盛んに行われた理由には、オリジナルを直に見ることを妨げていた距離を取り払い“究極”の芸術作品をより多くの人々が鑑賞できるようにする、という大義名分があった。しかしその背後にはヴァチカンの威光をより広範囲の人々に知らしめるという意図も見え隠れしていた。コピーの作成は、より多くの人々に発信者(これにはオリジナルの作品自身とその製作者だけではなく、コピーを企画・製作した人々も含まれる)の意図を伝えるための、いわばコミュニケーションの“効率性”を高める手段でもあった。芸術作品“そのもの”の流通と、芸術作品を利用しようとする人々の“意図”の流通の、双方の促進がその背景にあったのである。

「作品」と「言説」
 芸術におけるコミュニケーションの“効率性”ではオリジナルだろうとコピーだろうと関係なく、その“意図”の速やかな流通がもっとも重視される。それゆえ、複製技術の進歩によって、より大量に、より正確に、オリジナルの複製がつくられるようになると、人々がオリジナルとコピーの見分けがつかなくなるのは必然であった。そのため今度はその区別をつけるために作品に「言説」が付け加えられるようになる。
 ラオコーン像のように、物質である「作品」それ自体が芸術を表出*07していた時代から、大量複製技術時代の到来に伴い、物質である「作品」とその言葉による解説である「言説」とをセットにせざるをえない時代となった。「作品」それ自体ではもはや十分なコミュニケーションの機能を果たすことができなくなったのである。
 芸術作品につけられた「言説」は、芸術作品が伝えるコミュニケーションの効率性を飛躍的に高めた。20世紀の現代美術では、すぐれた「言説」がつけられた「作品」は、たとえそれが「複製技術」そのものを駆使したものであっても、一級の芸術作品とみなされるようになった。「作品」の解説であったはずの「言説」が、「言説」の説明を補強するための「作品」という風に主客の逆転が生じるようになる。そしてついには、当初「作品」とセットであった「言説」は、バラバラに機能し始めるのである。
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*01:身体論集成/市川浩/岩波書店 2001.10.16
*02:キャラクター小説の作り方/大塚英志/講談社 2003.02.20
*03:モダンのクールダウン―片隅の啓蒙/稲葉 振一郎 NTT出版 2006.04.06
*04:ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2/東浩紀 講談社 2007.03.20
*05:動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会/東浩紀 講談社 2001.11.20
*06:「不気味な谷」という現象そのものが錯覚であり、存在していないと主張する人々もいる。
*07:ラオコーン像ももとはといえば、神話という物語(言説)を題材にしていた。しかしながらその物理的表現は、現実を超えた“現実(リアル)”をつくりだした。


身体論集成 (岩波現代文庫)
市川 浩
岩波書店

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キャラクター小説の作り方
大塚 英志
講談社

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モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)
稲葉 振一郎
NTT出版

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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
東 浩紀
講談社

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動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
東 浩紀
講談社

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52 芸術の境界

 市川浩は、現実からのわずかのズレ、つまり現実と模倣された現実との間の、ほとんど意識されない〈あそび〉が芸術を呼び起こす*01という。また稲葉振一郎は、「本来の理念的な芸術作品における『公共性』、広範な公衆に向けての訴求力の原点は、それが体現する自由と普遍性にあり、その自由と普遍性は、鑑賞者もよく知っている現実世界の姿を、少しばかりずらすことによって比喩的に(しかしある意味ではこのうえもなく具体的に)示される」*02とのべ、いずれも現実からの少しばかりのズレが“芸術”を構成する重要な要素となっていることに言及している。

ラオコーン像と対照的な永遠の“沈黙”とその奥底からかすかに湧きあがる“笑い”の本質とは・・
聖観音菩薩立像/山田鬼斎(1893)/原品=7~8世紀 薬師寺東院堂蔵/東京国立博物館

芸術の境界
 「ひとがた」のデザインについていえば、現実からのわずかなずれとは「ひとがた」が模倣する“ヒト”からのズレであり、そのわずかなズレによって生じる「ひとがた」特有の現象=「不気味の谷」との関連性が注目される。
 ここでいう「不気味の谷」とは森正弘が見出した「ひとがた」がリアル(現実=ヒト)に近づけば近づくほど突然、畏怖や怯え、あるいは恐怖さえ感じてしまうという現象と、その根本にある“死”という、人間が避けられない現象でありながら、日常の中で我々はそれを忘れている、いや忘れようとしている事象の存在するところを意味している。そしてラオコーン像*03には、絶望、苦痛、死などの主題を、真正面から取り上げた故の迫力がある。
 「ひとがた」を芸術として捉えようとするとき、この「不気味の谷」は避けて通れないのではないか。あるいはそれは「ひとがた」の芸術性を測るひとつの尺度と言えるのかもしれない。まさに「不気味の谷」と呼ばれる現象の起きるところ、現実(リアル)に限りなく近づきながらリアルとは異なるわずかなズレが引き起こす反転現象と重なるところに “芸術”とそうでないものの境界があるといえるのかもしれない。
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*01:身体論集成/市川浩/岩波書店 2001.10.16
*02:モダンのクールダウン―片隅の啓蒙/稲葉 振一郎 NTT出版 2006.04.06
*03:ラオコーンについていえば、この現実からのズレとは“表現体を構成する素材(大理石)”と“静止する時間”にあるといっていいのではないだろうか。精緻な肉体表現、魂の叫びまで写し取った、現実を圧倒する現実(リアル)を表出するラオコーン。唯一現実と異なるのは、大理石でできていることと、時間が止まっていることなのである。古来、メドゥーサの神話にも見るように、ヒト(もの)の動き、時間を止めるためには、肉体(もの)そのものを“石”にするしかなかったのである。すなわち石という素材は、時間を止める上で必要な手段であった。そうであればラオコーン像において、現実との唯一の、そして最大のズレとは、時間の静止にあるといえるだろう。


身体論集成 (岩波現代文庫)
市川 浩
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モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)
稲葉 振一郎
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51 芸術の“模倣”

現実ではなく虚構の模倣
 市川浩は、アリストテレスの「詩人の仕事は、実際に起こったことをえがくのではなく、起こりうること、すなわち蓋然的に、もしくは必然的に可能なことをえがく」*01という説明を取り上げ、芸術の模倣は、現実的模倣ではなく、虚構の模倣であり、現実からのわずかのズレ、つまり現実と模倣された現実との間の、ほとんど意識されない〈あそび〉が悦び(アリストテレスによれば芸術のこの悦びとは、何かを知る悦びであるという)をひき起こすと述べている。芸術的模倣は、虚構であることによって現実をはなれ、理念的存在として現実にはありえないような一つの完結した宇宙を形づくるというのだ。

永遠に持続する“爆発する叫び”の“瞬間”
ラオコーン/ピオ・クレメンティーノ美術館 ヴァチカン


 市川は「芸術上の模倣においては、再現としての行為や事実は、現実的な力を失って中性化され、無力になる。そして逆説的ではあるが、この無力こそが、芸術に、現実から隔絶した固有の自律性と、独特の魔術的暗示力を与えるのである」*01と述べる。ところがラオコーン像においては、この「現実的な力」そのものも失われてはいないのである。

現実を超えた“現実(リアル)”
 ラオコーンの悲劇は、実際の出来事(トロイア戦争は史実である。したがってラオコーンという神官やその悲劇も事実かもしれない)というよりも、神話の伝承の中で様々に脚色されて伝えられた“虚構”と言ったほうがいいだろう。

 ラオコーン像は、このような、アリストテレスのいうところの蓋然的、もしくは必然的におこりえた “虚構”の物語(神話)を題材に取り上げながら、現実の“ヒト”をきわめて忠実に“写生”した肉体表現をもつ「ひとがた」によって、ある意味現実を超えた“現実(リアル)”をつくりだしているのである。

爆発する叫び
 ラオコーン像は、表現体を構成する素材(大理石)や静止する“時間”という制約を超え、まさに現実を超えた“現実”として、人間の魂の叫びを発している。サルヴァトーレ・セッティスはその様子を次のように表現する。

 「強い表現力を持つ大きなジェスチャーは、動感だけでなく時間をも、一種抑制された雄弁さの中に閉じ込めている。確かにひとつの叫び声を上げているが、それは押し殺された叫びだ。閉じられた構図というのは本当だが、その中には今にも跳ね飛びそうなばねがぎっしりつまっているかのようだ。皮膚は筋肉の上で引き伸ばされているが、それはパトスの人相学という衝撃的な研究の中で取り上げられた顔面筋だけではなく、首や腿やトルソ部の筋肉にも及んでいる。内側からこみあげるかのような張力が、筋肉、あるいは神経とでもよぶべきものを弓の弦のように膨張させている。来るべき瞬間(つまりに永遠にやってこない瞬間)に、押さえようもない叫びとともに爆発するに違いないと思わせるほどだ。」*02
 ラオコーン像は、現実のあらゆる制約を超える“爆発する叫び”という現実(リアル)の瞬間を、永遠に持続しているのだ。

“芸術”のさらなる投影
 このような、現実からわずかにズレた虚構の“模倣”によって、現実を超えた“現実(リアル)”をつくりだした“芸術”の、さらなる投影像(すなわちセッティスがいうところのラオコーン像の模倣やコピーやパロディ、そして引用や暗喩)とはどのような意味をもっているのだろうか。
 セッティスは、ラオコーン像の様々な投影像がつくりだされたその根底に、芸術の典型(エクセンブルム・アルティス)、苦痛の典型(エクセンブルム・ドロリス)といった、典型としてのラオコーンの物語を別のメディアで繰り返すことへの嗜好、あるいはヴァチカンの有名な群像を認識可能な程度に修正することへの嗜好*02があったという。また、1506年に発見された直後から、ラオコーンの模倣が盛んにおこなわれたことについて、同時代の人々は次のように擁護する。
 「良い出来映えの作品を継続的に模写することは、確たる規則に則って自分の作品を立派に仕上げることの要因となる。実際まさにその通りであり、それは模倣が勤勉で、判断力ある思弁に他ならないからである。人はこの思弁を用い、観察をたよりにしながら、他の卓越した者に類する存在になり得るのである。」*03

模倣の対象の変移
 それは市川浩がいう「人間の行動は、外なるものを自己のうちに獲得すること(いわゆる模倣)であると同時に、自己の存在性を外にあらわすこと(表出)」*01であり、模倣(ミメーシス)の活動は、対象に向かって自己の存在性(エートス)を表出することに他ならない、ということを当時の人々も十分認識していたことを示している。
 しかしながら本来、それらは、現実(虚構)の模倣としての“芸術“的行為に対し、そうした意味づけがなされていたものであった。それがラオコーンにおいては、芸術的行為がつくりだした“もの”=ラオコーン像そのものがさらなる模倣の対象となる。それはこの像の持つ「現実的な力」によるところが大きいのであろうが、それでも芸術家たらんとする個人の修練という意味合いでその模倣は意義づけられていた。
 ところが、その後石膏による型取りという安直なコピー手法が蔓延するようになり、ラオコーン像も例外ではなく、数多くの“コピー”像が出現することになる。当時の人々は、それをヴァチカンに実際に足を運べない多くの人々に、ラオコーンの素晴らしさを伝える有効な手段として賞賛し、推奨さえしたのであるが、そこにはその後の“複製技術”の飛躍的進歩を支えた大義名分と同じものを見ることができる。
 しかし本来、自己の存在性の表出の手段であり、勤勉なトレーニングであったはずの“模倣”の、芸術における意味合いは、その複製技術からはもはや見出すことはできない。さらに言えば、その石膏の型取りによりいかにオリジナルのラオコーン像が損傷したか、ということに人々が気付くのはかなり後世になってのことであった。
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*01:身体論集成/市川浩/岩波書店 2001.10.16
*02:ラオコーン―名声と様式/サルヴァトーレ・セッティス/三元社 2006.08.25 芳賀京子訳
*03:ジョヴァンニ・バッチィスタ・アルメニーニ/『絵画の真の心得』(1586)/日向太郎訳/ラオコーン 三元社 2006.08.25


身体論集成 (岩波現代文庫)
市川 浩
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ラオコーン―名声と様式
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50 ラオコーンの右腕


ラオコーン/ピオ・クレメンティーノ美術館 ヴァチカン

オリジナルと投影像
 ヴァチカンのピオ・クレメンティーノ美術館にあるラオコーン像は、ギリシャ神話に登場するトロイアの神官の悲劇を題材にしたといわれる古代ローマ彫刻の傑作である。この像は今から500年ほど前の1506年1月14日、ローマのカポッチェ近くの葡萄園の下に埋もれていたティティウス帝の浴場跡の地下室から、数か所の重要な欠落部分を除いてほぼ完全なかたちで発見された。
 それは当時発掘の様子を見に来たミケランジェロに、大きな感銘を与えたといわれている。それだけではない。千数百年の時を経て*01突如として現代(発掘当時)に出現した“完璧”とまで讃えられた彫像。人間の肉体の精緻な描写。苦悶する表情。神話が伝える一瞬の場面を切り取ることによる躍動感。ラオコーン像は、発掘以来、その類まれなる表現力、発信力により、人々を魅了し、想像を掻き立て、様々な創作活動を誘発した。
 とりわけいくつもの“模倣”を生み出したことで有名である。それらはオリジナルを忠実にコピーしたレベルから、パロディ、二次創作とでもいうべき行為や作品に至るものまで様々なレベルのものがあった。彫像の発見された1500年代にすでに多くの複製が作られ、なかにはオリジナルと並び立つように称賛された彫像もあったという*02
 このラオコーン像ほどオリジナルとコピーという問題が付いて回ったものはない。サルヴァトーレ・セッティスによればこの「彫像の運命は、その投影像(模倣やコピーやパロディ、そして引用や暗喩)の運命と交錯しながら(略)曲折をたどった」*03のである。

失われたものの創造
 ピオ・クレメンティーノ美術館の回廊のニッチには、もう一体のラオコーン像がある。瓜二つのこの二つの像の違いは、右腕を大きく突き上げているかいないかにある。右腕を突き上げたこのもう一体の像はレプリカと説明されているが、古い美術書などを見るとこの右腕を突き上げたポーズをとる像が「ラオコーン」として紹介されている。

 実は1959年におこなわれた大修復以前は、ながくこの右腕を突き上げたポーズがラオコーンの正しい姿として定着していたのである。

ピオ・クレメンティーノ美術館にあるもう一体のラオコーン
/1959年の修復以前は、右腕を高く突き上げるポーズであった。(子供たちの手にも注目)


 1506年にラオコーンが発掘された時、すでにこの右腕などいくつかのパーツが失われていた。人々はその失われた部位を創造力で補うことに躍起となった。題材となったギリシャ神話の一場面が、創造を掻き立てるベースとなった。さらには、この像の苦悶する表情などの表現力が、それに拍車をかけた。書物や伝承でラオコーンの物語をすでに熟知していたところに、現実(リアル)にきわめて近い、強烈な表現力をもつ彫像の出現。まさにその瞬間の生身の人間をメドゥーサが石にしてしまったかのような、鬼気迫る姿でその彫像は現前化したのである。それがいやがうえにも人々の創造力を掻き立て、天に突き上げる右腕は、あのミケランジェロが製作したという伝説まで生まれた。(現在はこの説は否定されているようだ。)
 当時の人々の心境を、セッティスは、次のように説明*03する。人々は、自然の法則によって到底かなわぬものと知りながらも、頭の中で、あるいは石膏で、永久に失われてしまったオリジナルを復元しようと、目に見える、手で触ることができる古代のモニュメントの『向こうを見つめ』たのだと。
 20世紀初頭に失われていた右腕の一部が見つかり、半世紀後にそれが本物であると認められるまで、オリジナルのラオコーン像には、突き上げる右腕のほか、いくつもの欠けている部分への継足しがおこなわれていたのである。450年もの長きの間、人々が真の姿としていたものは、オリジナル+二次創作の合体したものだったのだ。
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*01:ラオコーン像は、アタノドロス、ハゲサンドロス、ポリュドロスの3人のロドス人の合作として紀元前40~20年頃にイタリアで製作されたといわれている。*03参照。
*02:1500年代の文献におけるラオコーンの反響/ソーニャ・マッフエーイ/日向太郎訳/ラオコーン 三元社 2006.08.25
*03:ラオコーン―名声と様式/サルヴァトーレ・セッティス/三元社 2006.08.25 芳賀京子訳


ラオコーン―名声と様式
サルヴァトーレ セッティス
三元社

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49 5000年をへだてた類似性(あるいは共通性)

 4~5000年の時を経て現代に出現した縄文の女神たち。彼女たちの姿を我々はどう受け止めるのか。意外なことに彼女たちの姿かたちから受ける印象は、現代のサブカルチャーの中で隆盛な「ひとがた」のデザインと非常に近いものがある。
 「縄文のビーナス」が現代に出現した(発掘された)前年にあたる1985年に開催された「つくば科学博」に登場した、ルイジ・コラーニがデザインした丸みを帯びた流線型のロボットたち。そしてそれにつづくポケモンなどのアニメキャラとそのフィギュアたち。それらに共通するのは丸みを帯びた体形と誇張された手足、目鼻などだ。そうした特徴は縄文の女神たちにもあてはまる。

縄文のビーナス(国宝)/棚畑遺跡 縄文中期(約5000年前)/茅野市尖石縄文考古館


ルイジ・コラーニデザインの流線形のロボット/TUKUBA EXPO’85/CYBERDYNE STUDIO

 「縄文のビーナス」のどっしりと誇張された足と腰。極端に短い手。ハート形の顔など。また「仮面の女神」の同じく全体が丸みを帯びたかたちの中で、とりわけ特徴的な幾何学的な逆三角形の仮面は、ガンダムのようなマシンイメージにもつながるといってもいいのではないだろうか。同じ縄文時代の遮光器土偶などは、さらに宇宙人や未来のロボットに近いもののようでもある。この土偶はドラえもん*01の中でまさにそのようなものとして登場する。
 4~5000年の時を隔てたこの「ひとがた」のデザインの類似性(あるいは共通性)は、はたして本質的なものなのだろうか、それとも表面的なものなのだろうか。

遮光器土偶(重要文化財)/宮城県田尻町恵比須田出土縄文晩期(前1000~400)/東京国立博物館
その特徴的な目の形が、エスキモー(イヌイット族)の、雪の反射光を遮り、眩しさから眼を守る、細い横スリットの入った雪めがね(遮光器)に似ていることからこの名前がついたといわれている。

「おむすび」をつくる手のひらの感触
 現在は「リアル」なものが何であるのかが見えにくくなり、「リアル」の根拠が変貌し続けているという佐々木幹朗は、現代のフィギュアの製作者たちの「かつての『リアル』とは遠く隔たった位置でフィギュアを作る、あるいは作りたいという欲求の根本にあるものは、触りたいという人形作りのモチーフ」*02であると述べている。二次元の漫画やアニメの世界から、三次元の立体を作る作業は、『おむすび』をつくる手のひらの感触と同じなのだという。
 「産霊(むすび)」の神々が、自然のあらゆるもの、一本一草の中に霊魂を付与し、生命の素となるものを発育させたように、生命の源である“お米”を、様々な思いを込めて握ること、その行為と現代の「ひとがた」づくりの根本にある行為は同じだ、というのである。
 そこには「ひとがた」づくりを超えた創造活動における、時を超えた共通性、類似性を見出すことができる。

縄文は創造活動の原点
 縄文の世界は日本人の創造活動の原点と考えてよいのではないか。縄文の人々は常に自然と向き合い、対話することにより、身体的にも精神的にも自然から深い影響を受けていた。自然素材に人の手が加えられることにより、創り出されたもの達には、「むすび」という考え方だけではなく、様々な意味で自然が色濃く映し込まれていた。手応えのある力強さ、存在感があった。縄文は自然から恵みを受け、自然の中でものを創り出すことを学んだ出発点であったといえるだろう。

現代はもののない創造活動の原点
 ものづくりは、常に素材という物理的存在との対話の中で生まれてきた。しかし近代になり写真などの複製技術等の進歩により、物理的素材との関係性があいまいになりつつある。そしていま、コンピューターの登場により、ものという物理的存在そのものがない創造世界へと突き進みつつある。
 自然からものを創り出していくことを学んだ我々は、次から次へとものを創り出し、ついには自然から遊離し始めた。自然の恵みである素材という物理的存在だけではなく、自然から受け継いだ精神的なものさえ失われ始めている。特に産業の分野では、物理的にも精神的にも自然から遊離したものづくりは、自然そのものを破壊していくまでになった。
 いま地球規模の環境問題がクローズアップされているなか、創造活動の中における自然とのかかわりあいがあらためて問われている。特に自然(ここには当然、自然の一部としての“ヒト”自身も含まれている)と向き合い、対話することの重要性、自然との精神的なつながりが求められている。
 縄文は、いわばもののある創造活動の原点であった。そうだとすれば現代は、もののない創造活動の原点であるといえるのかもしれない。縄文は創造活動の、同じ“原点”として、この自然との精神的なかかわりあいの重要性をあらためて示している。

受け継がれる縄文精神
 一方で、縄文世界を原点とする創造活動の精神は、風土を代表する芸術家や祭りの中に脈々と受け継がれてもいる。それは人と自然の深い関わり合いから生まれた素朴で、ダイナミックなエネルギーにあふれた精神である。
 そしてもののない創造活動においても、その根本において縄文精神との共通性を見出すことができる。もののある創造活動では、その出発点に自然―現実(リアル)があり、それを己の中に取り込むことから創造活動が出発するのだが、もののない創造活動においては、もののある創造活動でつくりだされたものそのものが創造の出発点になる、という状況も含まれる。すなわち自然―現実(リアル)の“参照”から生まれた“虚構”や“模倣”そのものが出発点になる創造行為だ。
 ポストモダンの世界をデータベース型世界と規定し、創造活動の結果として現れる表層は、深層(=大きな物語=プログラム)だけでは決定されず、インターネットのウェブ・ページのように、そのユーザーの読み込み次第で、原作や二次創作などいくらでも異なった表情を表す*03とした東浩紀は、ポストモダンの世界では、(キャラクターなどの)データベースによる大きな想像力の環境がつくりだされている*04という。
 しかし、その創造活動の具体的な担い手たち(特にフィギュアなどの立体形をつくる作家たち)が、無意識にしろ「おむすび」をつくる手のひらの感触と共通する行為を伴っている、という佐々木の主張は、そうしたものづくりの根本に、縄文から連綿と続く創造活動の“源泉”が潜んでいることを示しているのではないだろうか。
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*01:ドラえもん のび太の日本誕生 1989
*02:人形記-日本人の遠い夢/佐々木幹郎/淡交社 2009.02.11
*03:動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会/東浩紀/講談社 2001.11.20
*04:ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2/東浩紀/講談社 2007.03.20


人形記―日本人の遠い夢
佐々木 幹郎
淡交社

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動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
東 浩紀
講談社

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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
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48 ひとがた

 人形を「ひとがた」と読み、人間の身代わりであると考えてきた日本人の発想には、「生命のない物質の中へ」魂を入れると、その魂が発育し、物質である容器も育ってくる、という「産霊(むすび)」の信仰がもたらした根強い宗教観が示されていると佐々木幹郎*01はいう。この「むすひ」という言葉は古く日本書紀にも出てくるというが、こうした考え方がいったいいつの時代からあったのかはわからない。しかし縄文の女神たちがつくられた縄文中期から後期(約4~5000年前)にはすでにそうした考え方が人々の間に根付いていたのではないだろうか。「縄文のビーナス」や「仮面の女神」たちは繰り返し祭祀に使われていたという。そして彼女たちを使っていた者の死とともに、土の中に葬られたのではないかといわれている。「仮面の女神」はその時、足を故意に壊されて埋葬されていた。それは彼女が一人で勝手に歩き回らないようにするため、だったかのようである。彼女たちには魂が宿っていたのである。

仮面の女神(重要文化財)/中ッ原遺跡 縄文後期(約4000年前)/茅野市尖石縄文考古館

魂の“いれもの”としての「ひとがた」
 「ひとがた」の“かたち”のデザインには、二通りの方向性があるのではないか。ひとつは魂をもつヒトとの相似性をリアルに追求していく方向性。もうひとつは抽象的な“いれもの”として追求する方向性である。ヒトとの相似性の追求、リアルな表現の追求の過程では、リアルに限りなく近づいた時点で“不気味の谷”が生じることを森正弘は見出した。
 「古来、人は人の形をしたものによって癒されてきただけではない。畏怖を感じ、神として怯え、あるいは呪いを込め、また崇めてもきた。」*01と佐々木幹郎がいうように、“人の形”をしたものが、リアルにヒトに近づけば近づくほど、親しみも増し、癒されてもくるのだが、さらにリアルに近づくと突然、そこにヒトではない違和感を強く感じるようになる。その時、人は、その「ひとがた」に対し、畏怖や怯え、あるいは恐怖さえ感じてしまうのだ。ヒトとは違う“なにものか(神のようなもの)”がそこに宿っているのではないか、ということをそれは見る者に直感させるのである。物質である「ひとがた」に(神のような)魂が宿り、育ってくるという感覚。ヒトと「ひとがた」の間に、そのような心的効果を“不気味の谷”は生み出してきたのではあるまいか。

「不在の眼差し」をもつ埴輪人形
 一方、抽象的な“いれもの”としての「ひとがた」の代表は、埴輪であろう。埴輪はもともと円筒形の容器のような形状のものが中心で、そこに眼、鼻、口、手などを付けた「ひとがた」がつくられた。

埴輪 翳(さしば)/群馬県伊勢崎市豊城町権現下出土 古墳時代/東京国立博物館
円筒形のいれものとしての埴輪に宿る魂は、ヒトとは違う何ものかであった。


 和辻哲郎は不思議な力強さ、巧妙さ、熟練などが認められる縄文土器や土偶などに比べ、こうした埴輪人形の稚拙に見える造形について、次のように指摘*02する。
 「注目すべき点は、この造形が必ずしも人体を写実的に現わそうなどと目ざしていないという点である。それは埴輪の円筒形に「意味ある形」をくっつけただけであって、埴輪本来の円筒形を人体に改造しようとしたのではない。このことは四肢の無造作な取り扱い方によく現れている。」
 ところがその稚拙な人物像を異様に生かしているのが、実はぽっかりと空いたその眼にあると和辻はさらに指摘する。
 「そばで見れば粗雑に裏までくり抜いた空洞の穴に過ぎないのであるが遠のけば遠のくほどその粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面に出てくる。それが異様な生気を現してくるゆえんなのである。」
 その眼球がない埴輪の眼の奥には、暗い穴に吸い込まれている闇があって、そこには「不在の眼差し」がある*01と佐々木幹郎はいう。

踊る人々/埼玉県江南町野原出土 古墳時代/東京国立博物館
ぽっかりと空いた「不在の眼差し」をもつ「ひとがた」


“そこにいる”神と“はるかかなたにいる”神
 ヒトとの相似性の追及、リアルな表現の追求の中で「ひとがた」に憑依してきた魂は、日本の自然のなかのあらゆる事象・事物に宿る命、生き物に変化する神であり、“そこにいる”神であろうか。それに対し、埴輪人形は、その「不在の眼差し」を通して、“はるかかなたにいる”神を見据えているのではないだろうか。
 円筒形のいれものとしての埴輪に宿る魂は、ヒトとは違う何ものかであった。ところがその埴輪が「ひとがた」として「不在の眼差し」を持った途端、そこに和辻のいう魂の窓が開く。その窓の奥には、はるかかなたへと続く闇がある。その闇の奥にいるのは、抽象的な神、そこではない、別のところに存在する神であって、埴輪人形はヒトとその“神”とをつなぐメッセンジャー、あるいは通信手段の役割を果たしていたのではないだろうか。
 魂の宿った縄文の女神たちは、「個」としての存在感を持っていた。そして人々もそのような生ける「ひとがた」として、彼女たちを愛で、畏怖を感じ、怯え、崇めたのである。そして彼女たちはヒトに近い存在でありながら、ヒトではない存在であるために、よりリアルの追求が必要であった。それに対し、はるかかなたにいる神との通信手段にすぎない埴輪人形は、その「不在の眼差し」のみが必要であり、「ひとがた」としてのリアルな追及など必要なかったのではあるまいか。
 神のいる場所の違いだけではない。神の性質の違いがそこに表れている。“はるかかなたにいる”神は、“そこにいる”神のように、「個」としてのおのれの存在を必要としないし、また「個」の重要性も意識しない。その神においては個々のヒトへの関心は失われ、それらを束ねる集団への関心が強まるかのようである。
 この違いは古代国家の成立と密接につながっているように思われる。それまでの民衆の“どこにでもいる”神から、国家の、より“抽象的、象徴的”な神へ移り変わっていくプロセスと「ひとがた」のデザインの方向性の違いが重なっているようだ。
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*01:人形記-日本人の遠い夢/佐々木幹郎  淡交社 2009.02.11
*02:人物埴輪の眼(1956)/和辻哲郎 和辻哲郎随筆集 岩波書店 1995.09.18


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和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)

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47 縄文の女神たち

 長野県茅野市にある尖石(とがりいし)縄文考古館には、八ヶ岳周辺で出土した縄文時代中期、後期の大型土偶の実物(日本最古の国宝と重要文化財)とその発掘時の状態を写した二枚の大きなパネル写真が展示されている。「縄文のビーナス」と呼ばれる棚畑遺跡で1986年9月に発掘されたものと、「仮面の女神」と呼ばれる中ッ原遺跡で2000年8月に発掘された二体である。

縄文のビーナス(国宝)/棚畑遺跡 縄文中期(約5000年前)
発見時の状態(1986年9月)/茅野市尖石縄文考古館


仮面の女神(重要文化財)/中ッ原遺跡 縄文後期(約4000年前)
発見時の状態(2000年8月)/茅野市尖石縄文考古館


 日本における遺跡の発掘作業というのは、テレビや新聞などでその様子をうかがうと、たいへん地道な作業のようである。土器や石器の断片や柱の穴の跡、食物の痕跡など繊細で地味な作業が続く。インディー・ジョーンズはまさに映画の中の世界としても、早大・吉村教授たちのエジプトのファラオの発掘などとはまるで別世界の出来事のようだ。そうした日々の地道な活動の中でこの二つの女神像の発見は、いかに衝撃的で、感動的な出来事であったことか、この二つのパネル写真からも想像に難くない。
 「仮面の女神」の発掘の様子を記録した冊子*01が考古館で販売されているが、土の中から初めてその姿を現した時の様子から、徐々にまわりの土を取り除き、ついに地面から取り上げられた様子。さらにそのレントゲン撮影などの詳細な調査から、壊れた部分の復元作業を経て考古館に展示されるまでを実に淡々と時系列的に記録している。この冊子のこうした“静かな”構成ぶりから、逆にこの作業に携わった人々の興奮の度合いが、いかに高かったかがひしひしと伝わってくる。

上書きされる地上の痕跡
 日本には古代ギリシャやエジプト、マヤなどの古代遺跡にみられるいわゆる“廃墟”に相当するような廃墟がない。(廃墟エクスプローラー*02に登場するのは“廃屋”である。)木と石という使用された素材の耐久性の違いもあるが、日本では人々の活動や生活の証が、データがメモリーに上書きされるように次から次へと積み重ねられ、地上にその痕跡を留めない。それらの証拠を見つけようとすれば、まさに土の中に埋められた断片を根気よく寄せ集める作業しかないのである。
 狩猟民の原始時代という印象の強かった縄文文化のイメージを、完全に一新したあの三内丸山遺跡でさえ、地面に残る巨大な柱の痕跡から、地道な作業の繰り返しによる復元というプロセスを経て初めてあの巨大建造物群の全貌が出現したのである。

“もの”を残さない民族
 日本人は地上に“もの”を残すことへのこだわりがあまりなかったように思われる。エジプトやマヤのピラミッドのように彼らが存在したという証を地上に残そうという確固たる意志がなかった。銅鐸や銅鏡などの祭器も最終的にはそれらを土の中に埋葬することを手順としていたようであり、文字の残し方も石碑に刻んで永久に残そうという意図よりも、竹簡、木簡などのように実用として使用したものがたまたま発掘されるという程度である。
 人々の間に積み重ねられた歴史・文化が、地上の“もの”に物理的に刻み込まれ、堆積している都市(文明)においては、人は外界である“もの”を容易に参照することによって、堆積した“歴史”の認知がよりスムーズに展開する。そこでは人々の“歴史”は、自らの廻りにある“もの”の姿とともに日常的にあるといってよい。
 しかし日本では自らの歴史・文化を“もの”に刻みこんで残すことはほとんどなかった。それは、民族どおしの混淆はあったものの、一つの民族が他の民族に完全に駆逐されるという事態がいまだかつてなかったことが、そうした“もの”を残すという必然性を生まなかったからなのかもしれない。いずれにせよ、日本では、みながそれらを「知っているはずだ Feeling of knowing(FOK)」で通り過ぎてきたのである。そして実はそうした記憶はすべて抜け落ちてしまい、我々には何も残っていないかのように思われてきた。

「妊婦」の女神と「胎児」の神
 ところが八ヶ岳周辺で出土したこの二体の太古の像が、胎内に子どもを宿した妊婦姿の女神像であったことに、この地方に伝わる、ある「古層」の神との関連性を感じざるを得ない。それは諏訪神社を中心とした諏訪信仰圏にいまなお残るミシャグチ信仰である。
 日本の各地にミシャグチと呼ばれる神が出現するのは、弥生時代後半から古墳時代の初期にかけてといわれている。それが古代国家の成立とともに次第に姿を消していったのだが、その「古層」の神の信仰が、いまだこの諏訪信仰圏には残っているという。
 このミシャグチ(御左口神)は「胞衣(えな)をかぶって生まれてくる子供」、けっして「胞衣」を脱がない神なのであり、その本質は「胎児」である*03といわれている。
 縄文の女神たちが土に埋葬され、地上からその痕跡が消えてから、ミシャグチ神が出現するまでには数千年の隔たりがある。また人間の誕生という出来事は普遍的な感動、畏怖、畏敬の念を与えるものであり、常に信仰の対象となるものでもある。にもかかわらず、ほとんどのミシャグチ信仰が消えていったなかで、わずかに残ったこの地を選んだかのように出現した妊婦の女神たち。それはまるで彼女たちが古代からそこにいたからこそ、「胎児」の神がいつまでもこの地に居続けているのだ、とでもいうかのようである。それはこの地方に、人々の記憶にすら上ってこない奥深いところで、数千年の時を経てもなお脈々と流れる古代との何らかのつながりがあることを感じさせるものでもある。

時を飛翔する縄文の女神たち
 この二体の縄文の女神たちは、4000年と5000年という時を超えて、タイム・トンネルを通ってきたかのように、突然、現代にほぼ完全なかたち*04でその姿を現した。古代エジプトやマヤの遺跡や遺物は数千年の時を経て〈今〉〈現在〉に現前化している。それよって、われわれは、それらを時を飛翔する寄り代とすることができる。それと同じように、この二体の女神たちもわれわれを数千年の時をへた縄文の世界へと飛翔させる。
 いまだかつて日本の中にはこのように時を越える遺物はほとんど存在しなかった。たしかに銅鐸や鉾、銅鏡、勾玉といった遺物たちがそうした役割を担ってはいるが、この二体はそれが“ひとがた”であるところに意味があるのである。
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*01:仮面土偶 発掘の記録/茅野市尖石縄文考古館 2001.09.14
*02:廃墟Explorer
*03:精霊の王/中沢新一 2003.11.20 講談社
*04:左足が壊れた状態で出土した「仮面の女神」は実は、故意に壊して埋められたといわれている。*01参照

 

精霊の王
中沢 新一
講談社

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46 創造の特異点

生成をもたらす変異
 
ルネ・トムの『構図』という概念によれば、構図を与えられた『形式』はある内在的な特性*01を持ち、それがあるできごとの要因のひとつとなる。それは、ものごとをつくりだそうとする人々が多かれ少なかれ持っている“創造”の源泉とでもいえるものから、創造のエネルギーが勢いよくほとばしり出る、そのきっかけのひとつともなる。
 フレデリック・ミゲルーは、建築を例に挙げながら、ものごとをつくりあげる真に創造的な作業とは、事前に、あるいはその外部にあって、その作業を囲む状況、文脈の一連の流れの中から、「決断の瞬間、すなわち文脈を記号物理学*02により整理し、生成的な相互関係から用途を決めてゆく特異性の分野を立ち上げる」*03ことだと述べている。
 彼は、カタストロフィー理論を変異が生成をもたらすという考え方に立脚した物質のメタ幾何学を展開するためのツールとして捉えるのだが、彼がいう決断の瞬間に特異性を立ち上げるという創造的な作業こそが、すでにトムの『構図』という概念を反映している行為といってもいいのではないだろうか。


直進し、屈折し、重なり合うラインがアクティブな空間をつくりだす
/浅草文化観光センター2008 IMA

アクティブ・ライン
 パウル・クレーはバウハウスの講義*04で「目的なしにそれ自身で気ままに散歩する」線を能動的な線(アクティブ・ライン)と呼んだ。彼は『芸術は目に見えるものを再現しない、目に見えるようにするのだ』*05という有名な言葉を残しているが、松岡正剛はこの「目に見えるもの」と「目に見えるようにする」の間にあるものについて次のように説明する。
 「アタマの中にそのイメージがあるとして、それを取り出そうとしたら、どうなるか。おそらくはそれを取り出そうとしたとたん、そのイメージに何かがおこるはずである。何がおこったのか。クレーはそれを『分節の開始』とみなしたのである。(中略)分節はデッサンやデザインなら、鉛筆をとったのちの、まず紙の上に始まっていく。そうだとすれば、イメージはなんらかの造形思考を開始することによってしか取り出せないということなのだ。*06
 すなわちイメージは「分節」によってはじめてかたちを与えられる。そしてクレーがアクティブ・ラインと呼んだ自由気ままにふるまう“線”という「分節」のかたちは、「イメージがその内側に潜在させていた何か」*06を表出させたもののごとく見える。
 クレーは人類の原始時代からの線描に高い関心を示し、それを繰り返しスケッチし、自らの中に取り込み、そして表出するというエクササイズをおこなった*06。つまりクレーは「イメージに内在する何か」を取り出そうとする作業に没頭したのだ。クレーは、造形の根本に「分節」があり、またその分節の「方法」の追求こそがものごとをつくりだすという作業なのだ、と確信していたに違いない。

屈折する線と分節の「開始」
 一方、利光功*04によれば、「目に見えるようにされるもの」とは、エネルギーであり、点の軌跡として描かれた一本の線そのものが、すでにしてエネルギーの転化であり、フォルムなのだという。すなわちクレーの“線”は内在的なエネルギー(松岡の説明する「イメージがその内側に潜在させていた何か」の動向)によって自由気ままに動き回るが、能動的な線には「決められた点の間を動くように定められる」*04線もある。その“線”を真に能動的な線、自発的な線として浮かび上がらせたのは屈折である、とドゥルーズ*07は指摘する。この屈折こそが松岡の指摘する分節の『開始』なのではあるまいか。
 ドゥルーズはその無限の屈曲線を襞と呼び、フレデリック・ミゲルーはその「線は屈曲させられることで秩序づけられる」*03と述べ、そしてベルナール・カッシュは屈折あるいは変曲点を内在的特異性として定義*08した。カッシュによれば、屈折にいたる変形作用のひとつは、隠されたパラメーターと変数、ポテンシャルの特異性によって定義される内部空間が、外部空間へ射影されたものだという。ルネ・トムの生命の形態発生にいたる七つの変形は、まさにこれに相当する。

崖をどう乗り越えるか
 くさび型カーブの相似形として様々なところに見出されるもの、イメージがかたちを与えられる分節の『開始』とみなされるもの、屈折・屈曲であり、襞と呼ばれるもの、内在的なエネルギーが特異点において外部に射影されたもの。そうしたものに共通する屈曲するカーブは、そのたわみが大きければ大きいほど、その谷が深ければ深いほど、変異は大きく、また生みだされるエネルギーも大きい。
 それは、ものごとをつくりだそうとするとき、眼前にひろがる谷が深く大きいほど、それを乗り越えたときに生みだされる創造のエネルギーも大きい、という創造作業の困難さと達成時の成果の大きさを強調する比喩にもつながる。
 たしかに下條信輔*09がいうように、そのくさび形の谷が深くなることは、ノイズになって消えてしまう大部分と極少数の大化けするものに極端に分かれることも意味する。そこでは人間が自分の知をどうやって超えられるか、どうやってデザインできるか、自己制御できるかが重要になると下條は指摘する。創造の特異点のくさび形の谷を越えることは想像以上に厳しい。そして「現代というのは好むと好まざるにかかわらず、崖がどんどん大きくなっている」*09のだ。
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*01:デカルトなんかいらない?/ギタ・ペシス-パステルナーク/松浦俊輔訳 1993.07.29 産業図書
*02:ノンスタンダード数学を基礎とする、物理現象全般の核心に直接かかわっていく一般的で厳格な解釈学をルネ・トムは「記号物理学」と呼んだ。*03
*03:ノンスタンダードの秩序/フレデリック・ミゲルー/「アーキラボ-建築・都市・アートの新たな実験 1950-2005」展カタログ 森美術館 編集 2005.01.06
*04:教育スケッチブック/パウル・クレー/利光 功訳 中央公論美術出版 1991.02.20
*05:襞―ライプニッツとバロック/ジル ドゥルーズ/宇野 邦一訳 河出書房新社 1998.10
*06:造形思考/パウル・クレー《松岡正剛 千夜千冊 1035 2005.05.13》
*07:Bernard Cache /L'ameublement du territoire 1983 *03*05参照
*08:創造の信条告白/パウル・クレー/1920 *04参照
*09:心の中のカタストロフィ/下條信輔+タナカノリユキ/RENAISSANCE GENERATION 2005 program report


デカルトなんかいらない?―カオスから人工知能まで、現代科学をめぐる20の対話
ギタ ペシス・パステルナーク
産業図書

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アーキラボ 建築・都市・アートの新たな実験

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教育スケッチブック (バウハウス叢書)
パウル クレー
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襞―ライプニッツとバロック
ジル ドゥルーズ,宇野 邦一
河出書房新社

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45 科学と呪術

成功した魔術(呪術)
 古典的Euclid幾何学は魔術である*01とルネ・トムはいう。外見上の最小の変形(大きさのない点、幅のない直線)のおかげで、幾何学の純粋形式的言語が空間の実在をうまく記述する。この意味で幾何学は成功した魔術であるといってよいというのだ。そしてある物理的実体は、磁場や電磁場のように呪術的影響力の行為者としてふるまう。たとえば光は、一つの光源から出て、それが広がっていく先の対象を『構成する』、つまり照らし出す力の伝搬がある。それはまさに呪術の作用が広がるのと同じだ*02という。


本+読者というシステム
「本は、光に照らされたときにしか、情報伝達することができない。(本⇔光線、光線⇔読者とういくつもの相互作用を繰り返して情報が伝達されるが、)これは記憶⇔受容システムの型の相互作用で、記憶が相互作用のもとで事実上影響をうけないものの、おそらくもっとも完全な例である。」
ルネ・トム『構造安定性と形態形成』*01より

異端の科学者
 トム*02によれば、呪術は科学技術の先祖であり、原始人の宇宙の中で『わかりやすさ』の機能によって、自然の過程を概念化できるようにし、最終的にはそれに基づいて行動する手段を与えられるようにする思考のシステムであった。呪術と科学技術による解釈が、道具を安定して組み立てるのには不可欠だった*02のであり、過去において呪術であったものが、その後の知見の集積によって、今日、科学技術と呼ばれているものは数多い。
 にもかかわらず、現代科学は、今現在において呪術的影響力のあるもの、すなわち「類似による伝搬、つまり物質的基質とは別に『形相』が実効をもったりすることがあるという考え方」*02に批判的であり、ゆえに、そうした傾向をもつカタストロフィー理論を提唱したルネ・トムもまた異端の科学者というレッテルが貼られたのである。しかしそれは「本物の異端」なのであり、トムは「思想の山師」なのだ、とギタ・ペシス-パステルナーク*02はいう。

想像の翼を拡げる現代の呪術
 呪術的な影響力のあるものに批判的な現代科学ではあるが、ホーキングやランドールなどの正当な物理学者たちが論ずる、高度に数学的で、論理的な新たな世界-マルチバース、多次元空間などの理論が、我々を虜にし、夢中にさせる。数学や物理学に縁のない多様な分野において、連想ゲームのように次々とイメージを誘発させ、伝搬させている。
 ところが誰もがアインシュタイン以来の天才と認めるホーキングら、理論宇宙物理学者たちはもっともノーベル賞に遠い人々といわれている。それはその理論の証明が現段階ではほとんど困難だからである。証明されることが科学だ、とするならば、彼らの理論はまさに現代の呪術に他ならない。しかしそれらはいつの日か証明される日がくるに違いないと我々は思う。それほどの“たしからしさ”をもってそれらの理論は我々に伝わってくる。そして彼らの理論もまた美しい幾何学的「構図」をもっている。人々に何らかの内在的価値を与えるという点において彼らの理論も、トムのいう「構図の理論」を構成しているといえるのではないだろうか。
 トムは、未来の“現代科学”になる現代の“呪術”であることを確信犯的に意図して自らの理論を展開した。トムの理論は、呪術の拡散の如く、人々の想像の翼を大きく拡げた。様々な人々に、様々なイメージを次々と生みださせるきっかけとなり、それらのイメージの“たしからしさ”を支える重要なツールとなったのだ。

パラダイムシフトを惹き起こした「構図」の理論
 カタストロフィー理論は、その後、カオス理論や、複雑性の理論に拡散し、創発という考え方の中に発展的に回収されていくことになるのだが、そうした理論展開の中で果たした役割もさることながら、トムの影響は、そのような数学・物理といった世界を飛び越したところにその真骨頂があったといえるだろう。
 それはその後、コンピュータの急激な進化と社会への浸透とともに、科学のあらゆる分野において単純系から複雑系へ、閉鎖系から開放系へといったパラダイムシフトを惹き起こし、さらに、そのパラダイムシフトは“思想”の世界にまで及び、いままで西欧思想と対極にあると見られていた東洋思想でさえその懐に収め、“理解”し、さらには両者を統合する可能性さえ現れてきているのだ。

「物質の科学は『折り紙』をモデルにする、と日本の哲学者はいう」(ドゥルーズ)*03
 ジル・ドゥルーズの「襞」*03なる概念もそうして誘発されたもののひとつではないだろうか。守屋淳はそれを「ドゥルーズはプラトン=デカルトの均質的な時空モデルを退け、無限に折り畳まれていく〈襞〉を基調とした世界観を提出する。布や紙が一枚でありながら折り目をつけられることで様様な表情を宿していくように、世界は連続性を失わないまま矛盾し合う無数の力の場を抱え込んで「歪んだ真珠」(=「バロック」の原意)のように妖しく輝く。全てを平準化しようとするモダンの光を遮るネオ・バロックの〈襞〉」*04と解説するが、さきに挙げたドゥルーズの言葉どおり、それはバロックという西洋の伝統だけではなく、東洋の伝統的な“屈折の芸術”をもその懐に収めようとするものだった。
 ドゥルーズは、トムについて、マンデルブロらと同様著作の中で軽く触れるにとどまっているが、自らの着想の“原点”、そしてその考え方の“たしからしさ”を強力に後押ししたものがトムの理論であったのは確かなのではないだろうか。
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*01:ルネ・トム『構造安定性と形態形成』原著第2版 弥永 昌吉・宇敷 重広訳/岩波書店 1980.04.15
ここでは「魔術」という言葉が使われている。
*02:デカルトなんかいらない?/ギタ・ペシス-パステルナーク/松浦俊輔訳 1993.07.29 産業図書
ここでは「呪術」と訳されている。
*03:襞―ライプニッツとバロック/ジル ドゥルーズ/宇野 邦一訳 河出書房新社 1998.10
*04:『ことし読む本いち押しガイド1999』/メタローグ社


構造安定性と形態形成 原書第2版
R.トム
岩波書店

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デカルトなんかいらない?―カオスから人工知能まで、現代科学をめぐる20の対話
ギタ ペシス・パステルナーク
産業図書

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襞―ライプニッツとバロック
ジル ドゥルーズ,宇野 邦一
河出書房新社

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