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18 透明性―自由の獲得とパラノイア


重く厚い壁の呪縛に囚われた西洋建築/サンゼノ教会/ヴェローナ・イタリア

神の光から自然の光へ、そして人間の光へ
 西洋建築の歴史は壁の束縛から逃れるための歴史といってもよい。それはまた数千年にわたって西洋建築を囲っていた厚い壁を通して差し込む光の“在り様”の変遷の歴史でもあった。フライングバットレスの発明によって最初に壁を構造的束縛から解放したゴシック建築では、それにより得られた開口を神の光を導く“照応する枠”として利用した。ステンドグラスを通過した光は、極彩色の光の強度によって自然界を超越した非物質的な光となり聖堂内を満たした。
 産業革命により生み出された鉄とガラスはウィンター・ガーデン*01という透明な壁を持つ巨大な構造物を創り出した。その内部に降り注ぐ光は、それまでの巨大空間である大聖堂を満たしていたあの神の光=超自然的な光ではなく、植物を育てる太陽=“自然”の光そのものであった。それは神が死んだ*02後、神がいた場所に“自然”が取って代わった時代を象徴的に示していた。
 そしてドミノ。ル・コルビュジェの真の意図とは裏腹に、そのドローイングは20世紀初頭の“自由”を求める風潮に強烈なインパクトを与えた。

透明な壁はすべてを自由にする
 透明な壁=ガラスの外皮を持つ建築は、20世紀初頭、流動的な視覚が生じ、情報の自由が存在し、内部と外部の空間が連絡を持ち、プライバシーと公共性とが相互連絡するようになると考えられた*03とディラー&スコフィディオは指摘する。そしてその結果、個人にアクセスできたり、個人をパワーアップさせることができると期待されたという。つまりガラス建築はモダニズムによるユートピア建設の一部をなすと考えられていた。
 他方、構造物は自然すなわち重力によって大地に縛り付けられている。したがって壁の構造的要件からの解放は、重力=自然からの解放ということも意味していた。すなわちドミノのドローイングが示した壁がなくなるということは、神からの、そして自然からの解放をも意味し、個人をパワーアップさせるという期待とともに、まさに人間主体のモダンの時代にふさわしい自由な表現として迎えられた。

そして人々はパラノイアになった
 ファンズワース邸において実現された透明な壁は、その後のテクノロジーの進歩により、一般化、大規模化し、たちまち世界を席巻した。しかし60年代、ガラス建築が世界に拡がり、すべてが視覚的に手に入るようになると今度は人々は「パラノイア的」*03になりはじめた。
 壁が透明になり、外部の情報が内部へ流入するということは、また逆に外部から内部の情報が手に取るように分かるということだ。すなわち「視線は双方向システム」*03であり、透明な壁=ガラスの壁もまた双方向システムであったのだ。長年にわたり厚い壁によって内部空間とプライバシーが外部から隔絶されていた建築は、そのすべてを曝け出す様になった。それは透明な壁がもたらすディストピアの側面でもあった。
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*01:人工楽園:19世紀の温室とウィンターガーデン/コッペルカム/1991 鹿島出版会
*02:「悦ばしき知識」フリードリッヒ・ニーチェ/信太正三 訳/1993 筑摩書房
ニーチェは1882年、「神は死んだ」と宣言し、西洋文明の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。『ウィキペディア(Wikipedia)』参照
*03:「あなたにとってユートピアとは?」:ディラー&スコフィディオ/InterCommunication No.21/1997 NTT出版


人工楽園―19世紀の温室とウィンターガーデン
シュテファン コッペルカム
鹿島出版会

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ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)
フリードリッヒ ニーチェ
筑摩書房

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17 透明性-壁がなくなるということ

透明な壁
 それはドミノ*01の概念を説明する床と柱だけで構成されたル・コルビュジェのドローイングが始まりだった。ドミノは1914年、T型フォードにおける大量生産方式の確立と時を同じくして提案された大量生産住宅のための新しい構造形式であったが、ル・コルビュジェにとってはそうした時代背景以上に、壁-すなわち建築の外皮の「自由」を手に入れるための提案であった。
 しかしル・コルビュジェ自身はそのドローイングにあるような壁の物質的な「透明性」をその作品において求めたわけではなかった。彼は構造的要件から壁を解放することによって、建築のマッスとしての造形、外皮の表現における作家性の確立をむしろ求めた。そのためには壁はまだ不透明のほうが好都合だったのだ。ル・コルビュジェのこうした概念的な透明性を後にコーリン・ロウは「虚の透明性」*02と呼んだ。

国立西洋美術館/ル・コルビュジェ/東京 1959
 ドミノに触発され、そのドローイングどおりの壁の物質的な透明性を求めたのはむしろミースだ。ミースの初期の「フリードリヒ・シュトラーゼの高層ビル案」1921や「ガラスのスカイスクレーパー案」1922は、そのガラスの透明性を強調した透視図によりガラスのスカイスクレーパーの原点*03とみなされている。しかしそれらの平面はプリズム状やアメーバー状をしており、このときまだミースは、ガラスの反射性による不透明性、光の散乱による都市的カオスの表象、形態の自由性なども同時に追及していたことがわかる。
 ミースは作品づくりの中で、理性による「理性」の追求、作家性の消失、公共性の獲得といった、のちに彼が確立した近代建築の主要な特徴となるものを追求していくが、この二つの計画案のときはまだ作家個人のデミウルゴス的欲望とそれら近代建築の特徴との間の矛盾が内在していたように見える。しかしその後ミースはファンズワース邸1951において完全なる透明な壁、均質な平面に至り、作家性を超越する。

外部“情報”の氾濫
 建築内部に“空間を造形する光”には外部から伝わる“情報”は必要ない。外から差し込む光の強度によって“様々な空間”が創り出される。外部の情報を伝える“窓”は、壁の表面のなかに“情報を伝える面”を入れ子状に生じさせる。このときこのふたつの面の境界線に生じる輪郭線=枠は、内部に造形された空間と外部世界との境界-照応する枠-を構成している。この枠を通り抜けて伝わる“情報”は、内部の“造形された空間”とは別種のものとして意識され区別される。
 このとき“照応する枠”を入れ子状に生じさせている壁そのものが取払われたり、透明な材料に取って代わられたらどうなるか。それまで壁の内側に造形されていた空間は光の“情報”のグラデーションによって形成されたものであったが、壁が取り払われ、外部の情報が圧倒的な光によって内部にもたらされると、このグラデーションも消し去られる。建築内部の光のグラデーションは、その密度の濃い方向へ求心的に収斂する“空間”を生み出したが、壁が消え、光のグラデーションが消えると、そこは内部から外部に向かって無限に広がりゆく遠心的な“空間”となる。
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*01:ドミノ(dom-ino)1914年、ル・コルビュジェによって提案された大量生産住宅のための鉄筋コンクリート造の構造形式。「自由なプラン」、規格化を可能としたことが特徴。
*02:マニエリスムと近代建築/コーリン・ロウ/彰国社 1981.10
*03:虚のファルス―ミース・ファン・デル・ローエ「ガラスのスカイスクレーパー」/田中純/20世紀建築研究 1998.10 INAX出版


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