goo

11〈かけがえのないもの〉についての視力(2)

 高度情報化のネガティヴな側面

アラブの春の一連の動きは、ネットの存在が権力のバランスをそれまでの政府から民衆へ移すという新たな活力を生み出したという意味で、情報化の進展のポジティヴな側面にもみえる。しかしながら8月に入って勃発したイギリスの暴動は、これらともまた様相が異なっている。それは当初報じられたようなエスニック対立だけではない複雑な要因を含んでいる。当のイギリス国民がこの事態に「恥辱感と同時に激しい困惑」01を感じたように、この騒動の中心は中産階級の若者たちであり、明確な格差に対する不満や反発だけではこの事態を説明しきれないところにこの問題の根の深いところがある。しかしひとつだけはっきりしていることは、ジャスミン革命とおなじく、ここでもネットが重要な役割を果たしているということである。

それはイギリス政府が暴動の扇動に使われたとして規制論議に走ったような短絡的な役割だけではない。おそらくすべての人々がネットで繋がる高度情報化社会がもたらすネガティヴな側面のひとつがここで顕在化したのではないだろうか。

情報化の進展はヴァーチャル化を促進する。現実世界を構成するリアルと、情報世界を構成するヴァーチャルな世界が混在し、その境界があいまいになる。情報化は〈目にみえないもの〉を〈みえるもの〉として〈明確に〉経験させるが、このときみえたものが本当にもとの〈目にみえないもの〉と同じものなのか、という問題が生じるのである。

石黒浩が危惧するように、情報化の進展とともに仮想世界の技術が突出して発達した。そのため技術の発展に偏った渦が生じ、〈みえないもの〉をみえるようにする技術が、あまりにもリアルに現実をシミュレートしすぎたことによって、かえってリアルとヴァーチャルの区別がつかなくなっているのである。そうした状況の中にすべての人々が置かれたとき、どういう事態が生じるのか。

 

ヴァーチャル化という陥穽

情報通信テクノロジーの発展により、全人類がネットで結ばれる高度情報化社会。そこでは様々な〈目にみえないもの〉が目にみえるようになり、また〈目をそらしてきたもの〉にも目を開かされてくるようになる。しかしながらその視界は、発明当初のテレビジョンに映し出された文字のように、まだまだ解像度が低く、不鮮明で、不正確である。この視界の解像度を高め、より正確にものごとを見えるようにするためには、情報通信テクノロジーとそのネットワークのさらなる高度化だけでは十分ではないことをこの15年の状況は示している。特に行き過ぎたヴァーチャル化の技術は、リアルとの境界を曖昧にし、“みえた”ものが勝手にひとり歩きをし始める。それはポール・ヴィリリオがあらたな“情報の事故”と危惧したものの一つといってもいいのかもしれない。

ここで、15年前見田が指摘した『モノとして存在しないゆえに目にみえないもの、測定し、交換し、換算しえないゆえに目にみえないもの』をどのように捉え、可視化し、伝えていくことができるか、ということの重要性があらためて問われてくることになる。そうした『〈かけがえのないもの〉への視力』の獲得が、我々が人間社会の隅々までみわたすことのできる真の視界を開くために必要不可欠であることは間違いない。しかしその獲得の前には“ヴァーチャル化”という陥穽が待ち構えている。我々は避けがたいドゥドルバッグのようなこの陥穽に陥らずに前に進むことができるのだろうか。

todaeiji-weblog2

 「建築随想」

 

01英国の暴動:自己像を見失った国/英エコノミスト誌 2011.08.13

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ