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10 天と地の逆転したアース・ワークス

プレイマウンテン―イサム・ノグチの『彫刻的風景』
 モエレ沼は札幌市を流れる豊平川の、蛇行した一部が取り残されてできた河跡湖(かせきこ)である。このモエレ沼に囲まれた半島状の部分に、イサム・ノグチのマスタープランに基づいたモエレ沼公園がつくられている。そこにはイサム・ノグチのプレイマウンテンという人工の山の構想が55年の歳月を経て実現され、またイサム・ノグチの言うところの、彫刻を大地に関連づける『彫刻的風景』*01が展開されている。

古代の神殿のような石段のあるプレイマウンテン/モエレ沼公園/札幌



ガラスのピラミッドとモエレ山/モエレ沼公園/札幌

宇宙的景観
 クリスチャン・ノルベルク=シュルツは自然的景観を三つに分類*02している。そのうち、砂漠や原野のように“ひとつの全体として絶対的で永遠の秩序を顕現させ”、“永続性と構造とによって際立つ世界”*03の景観を「宇宙的景観」と名づけている。そこでは自然を具体的に了解する基本的なカテゴリーとして、ひとつの体系的な宇宙秩序が抽出されるという。
 プレイマウンテンの発想の原点は、イサム・ノグチ自身が語っているように、メキシコ・テオティワカンのあの壮大なピラミッド群の景観にある。テオティワカンやエジプトのピラミッドが、ノルベルク=シュルツのいう「宇宙的景観」の領域に含まれることは間違いない。人々は長年、茫漠とした砂漠や原野に立つこの壮大な人工物群について、ひとつの体系的な宇宙秩序の抽出の欲求に抗しきれず、様々な天文学的、数学的法則・原理をこれらの遺跡群の中に見出してきた。そして確かに古代人たちは、この砂漠や原野に触発されて、宇宙秩序を導き出し、その発見の証として、これらの人工物を建造したのに違いない。


月のピラミッド(正面)と太陽のピラミッド(右)/テオティワカン/メキシコ
川添登*04によれば、月のピラミッドの背後に見えるペトル山は、テオティワカンがつくられた当時は活火山で、地平線に沈む太陽とともに真紅の焔をあげて、テオティワカンのあらゆる建造物を照らし出したという。このように「宇宙的景観」は、時空を超えた情景をも描き出す。


宇宙秩序の抽出
 イサム・ノグチはモエレ沼の茫漠と続く白い雪原を初めて目にした時、その自然の中に潜む宇宙秩序を取り出す強い欲求に突き動かされたに違いない。それが、イサム・ノグチが見出した、エナジー・ヴォイドという独特の宇宙観と相まって、モエレ沼に具現化したのである。その結果、我々はテオティワカンやエジプトに接するときと同じように、何かしらの宇宙秩序を感じながら、この公園を利用することになる。
 180haという広さながら、この公園のどこにいても不思議な空間の秩序、統一的な景観を感じることができる。それはプレイマウンテンやモエレ山、ガラスのピラミッドという自然のなかに置かれた人工物が公園のどこからでも目にすることができることと関係している。他の大規模な公園、たとえば武蔵丘陵森林公園などでは、300haの自然の迫力はあるものの、モエレ沼公園に感じられるこうした秩序感、一体感は感じられない。これがイサム・ノグチの言うところの『彫刻的風景』がなせる業なのである。
 自然の中に潜む宇宙秩序をイサム・ノグチが取り出し、それをかたち(『彫刻的風景』)にし、それを見、遊ぶ人たちがまた、そのかたちを通じて宇宙秩序を感じとる。「宇宙的景観」を前にした時、人はみな何らかの宇宙秩序を感じることができる。しかし誰でもが、それを言葉にしたり、かたちにしたり、理解したりできるわけではない。芸術家と呼ばれる人々が、それを言葉とし、かたちとし、理解できるようにする。それがアース・ワークスである。テオティワカンやエジプトをつくった人々は、今でいう個人としての芸術家ではなかった。しかし宇宙秩序への強い欲求が、結果として「宇宙的景観」=アース・ワークスを生み出したのである。

人工と自然のあり方を示すヴォイドとしてのクレーター
 建造物で埋め尽くされた大都市の中では、断片化され虚構化された自然しか残っていない。その中で唯一手つかずの自然を感じさせるもの、それは天空である。底から見上げると、天空が円形に切り取られるすり鉢状のクレーターを計画する。その円形の枠取りは、自然を照応する枠となり、宇宙秩序を抽出する枠となる。天空を切り取る人工の縁によって、天空=自然=宇宙の存在を際立たせることができる。それはある意味において天と地を逆転させたアース・ワークスといえるかもしれない。
 この枠によって切り取られた天空はまた、人工物の密集した大都市にぽっかりと開いたヴォイドと見ることもできる。異世界(=自然・宇宙)への入口であるそれは、人工的環境の中にあって人工にとらわれた自然を象徴する“ガラスケースの中の緑”とは別の、もうひとつの人工環境の中での“自然のあり方”を象徴するものとなる。
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ヴォイドとしてのクレーターの提案/横浜客船ターミナル/IMA
*01:自叙伝「或る彫刻家の世界」/イサム・ノグチ/「イサム・ノグチとモエレ沼公園」より
*02:「ロマン的景観」「宇宙的景観」「古典的景観」/*03参照
*03:ゲニウス・ロキ/クリスチャン・ノルベルク=シュルツ/住まいの図書館出版局 1994
*04:都市と文明/川添 登/雪華社 1970


ゲニウス・ロキ―建築の現象学をめざして
クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ,加藤 邦男,田崎 祐生
住まいの図書館出版局

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都市と文明―古代から未来まで (1966年)
川添 登
雪華社

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09 メッセージをかたちにする 

21エモン*01の世紀
 20世紀はモダニズム「建築」の世紀であったといわれている。モダニズムの機能主義は、建物の内容(機能)と表現の一致を目指したもので、その無国籍的な性格と工業化に適していたことにより、資本主義経済の広がりとともに全世界を席捲した。その一方で機能主義の意味する範囲が、価値観の多様化にともない一般的すぎるほど広がってしまったために、逆にほとんどなんでもありの状態、100人の建築家がいれば100人の建築論があるといわれるまでに混乱した時代となった(もっとも、それは個々の民主的主張の上での混乱であり、これこそモダニズムが民主主義を体現していることの現れである、という皮肉な見方もできるが)。こうした状況を打開するためにポスト・モダニズムが指向されたが、「建築」の表層のデザインのみに捕われたために、一時の流行に終ってしまった。

21エモンの世界/上海/Photo by (c)Tomo.Yun
 1968年にかかれた藤子・F・不二雄の「21エモン」には、様々なかたちの建物が並ぶ21世紀の未来都市が登場する。上海の個を競い合った様々なかたちのビルが立ち並ぶさまは、まさに「21エモン」の世界であり、個を競い合ったモダニズム建築が席巻した20世紀は、まさに「21エモン」の世紀であった。

人工物と自然なものの垣根が取り払われる
 パソコンやインターネットの普及が人々のコミュニケーションの在り方を変えつつあるのは周知の事実である。世界中のパソコンで結ばれたインターネットのシステムを分散型のネットワークシステムというが、これは中心に命令系統がある単純で閉鎖的な従来のシステムとは違い、小さな命令系統が分散しそれらがネットワークを構成する複雑で開放的なシステムである。そして実は自然や生態系、生命、知能あるいは社会構造や経済といったものまでこの分散型のネットワークによって構成されていることがわかってきた。
 こうした事実により従来の科学で支配的であった、物事を単純で閉鎖した系に還元して解明するという考え方から、複雑で開放された系として解明するというパラダイムシフト(いままで支配的であった考え方から新しい考え方に変ること)が起きつつある。そしてこれらの考え方の発展によって、従来の科学合理主義が限界にぶつかっていたあらゆる領域にわたって、それらを凌駕する可能性が見えてきた。それだけではない。これらの考え方は人工物と自然なもの、作られたものと生れたものの垣根さえ取払おうとしている。人間の言葉を理解し、学習し、動物と同じようにスムーズに歩けるロボットのように人の手で作られたものが生物的な振舞いを示すようになってきたり、遺伝子工学のように生物が工学の対象になる機会が増えつつある。さらに、パラダイムシフトは“思想”の世界にまで及び、いままで西欧思想と対極にあると見られていた東洋思想でさえその懐に収め、“理解”し、さらには両者を統合する可能性さえ現れてきた。
 このように人工物と自然なものの垣根を取去り、作られたものと生れたものの区別をつけず一つの総体(ケヴィン・ケリーはこれをヴィヴィシステム*02と呼んでいる)として捉える考え方によって、人工生命や人工知能の研究などいままで「神の領域」と呼ばれていたものにまで手が届く可能性がでてきている。

ヴァイオスフィアとしての都市の構成
 「建築」とはもともと、立地や環境、歴史、技術、経済、構造、社会規則(法規等)など様々な周辺条件と複雑に絡み合いながら存在するもので、この複雑な関係の中にあって、「建築」をつくるという作業は、最終的にそこに一つの物理的形態という解を求めるものである。その解を求める作業はほとんどの場合、物事を単純で閉鎖した系に還元して解明するという従来の科学で支配的であった考え方と同じように、機能や経済性といった直接的な条件だけを取り上げ、それ以外の様々な定量化しにくい条件を破棄して解こうとしている。すなわち閉じた系として扱う。その結果、「機能ありき」「かたちありき」という結果になるのである。
 しかしながら、人工物と自然なものの垣根を取去り、作られたものと生れたものの区別をつけず一つの総体(ヴィヴィシステム)として見ようというパラダイムシフトのなかでは、人間の営みの一部である「建築」も、広い意味でそれを含むヴィヴィシステムの一部とみなす事ができる。そしてそれを構成する他の人工的なものや自然なものと複雑に絡み合いながら、ヴァイオスフィア(生態域)としての都市を構成しているともいえるのである。
 そこでは「建築」はそのヴァイオスフィアを構成する分散型ネットワークの一つの構成要素である。こうしたネットワークの中では、その構成要素は相互に影響しあう、複雑に入組んだ非線型の関係を構成しており、そういう意味において各構成要素は他の構成要素に対して開かれており、「公共性」を持っているといえる。ところが、閉じた系として作られた「建築」は、周辺の様々な条件を破棄して成立しているから、こうした「公共性」に対しても閉じているといわなければならない(たとえそれが公共建築という用途のものであっても)。しかしながら、こうした「公共性」の獲得の必要性は、すでに新たなパラダイムとなりつつある。

ヴァイオスフィアとしての都市*03
楽清市中心区整備計画/IMA /2001


結節点(ノード)としての「メッセージ」
 そこでこうした「公共性」を「建築」が獲得するにはどうしたらいいのだろうか。そのためには、開かれた系として「建築」を作ること。そしてそのために重要なのが、開かれた系として他の構成要素とどのような「結節点(ノード)」によって結ばれるか、ということである。このときこの結節点(ノード)は、ネットの構成要素である「建築」が、他の構成要素との相互理解を深めるための「メッセージ」と考えることができる。
 「メッセージ」とは目的を持ったプロセスである。「建築」がその構成要素となる分散型ネットワークには中心がない。「中心を持たないネットワークにおいて重要となるのは、物というよりもむしろプロセスである。“それは何か”と問うよりも、“それがどういう事柄につながり、何を目指しているのか”を問うこと、それが重要」*02になる。「建築」においても、ネットの中の“どのような構成要素と、どのような「メッセージ」によって相互接続するのか”そしてその“「メッセージ」の内容をどう「かたち」に表現するのか”が、重要なポイントになる。
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*01:21エモン/藤子・F・不二雄/1968~1969
(私見として21エモンに出てくるモンガーは、1969年から執筆開始されたドラえもんのイメージの原型ではなかったかと思っている。)
*02:複雑系を超えて―システムを永久進化させる九つの法則/ケヴィン・ケリー/アスキー出版 1999.02.10
*03:楽清市中心区整備計画/中国淅江省楽清市/IMA /2001

21エモン (1) (小学館コロコロ文庫)
藤子・F・不二雄
小学館

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08 柔軟さと優しさのデザイン

『最も奥の深いテクノロジーは眼に見えなくなる。日常生活のひだに紛れ込んで見分けがつかなくなる』*01 マーク・ワイザー(Mark Weiser)
※ Mark Weiser“The Computer for the 21st Century.”Scientific American, September1991

『テクノロジーとコミュニケーションの発展が速度を増すにつれ、相対的に私たちは速度をゆるめることが可能になり、そこに真の静けさを見つけることになる』
*02 デリック・ドゥ・ケルコフ(Derrick Do Kerekhove)
※ Derrick Do Kerekhove “The Skin of Culture.”1995

不可視の領域に入り込んでいくテクノロジー
 コンピューターと通信ネットワークの飛躍的発展により,21世紀の世界は高度情報化社会へと急速に移行しつつある。今我々が目の当たりにしているコンピューターと通信技術という最新のテクノロジーは,人類史上,言葉を書き留める技術や産業革命の力を生み出す技術にも匹敵する,最も奥の深いテクノロジーのひとつである。
 古代文明において文字を書き留める技術は,エジプトの神官による神聖文字などごく一部の特権階級だけが扱える技術であった。それがどんどん広まり,印刷技術の普及により大衆化し,いまや身のまわりのあらゆるものにあたりまえのように文字が書き付けられている。また,産業革命により登場した力(=エネルギー)を生み出す技術は,当初H.G.ウエルズの「ダイナモの神」(1895)
*03の中でダイナモ(発電機)が咆哮する巨大な邪神として登場したように、畏怖の念を持って迎えられた。しかしその後それはどんどん小さくなり「蒸発したかのように小さなものと融合し、忘れられ」*01たかのように今やほとんどの技術装置の中に入り込んでいる。コンピューターや通信技術という最新テクノロジーも,マーク・ワイザーが提唱したユビキタス(ubiquitous)やウェアラブル・コンピューティングのように日常生活のひだに紛れ込んで見分けがつかなくなるだろう。
 テクノロジーを象徴するデザインというと,かつては流線型やマシーンをイメージするものがほとんどだった。速度と力,これが未来を切り拓く20世紀のテクノロジーの象徴だった。しかしいま,最新テクノロジーであるコンピューターや通信技術は不可視の領域に入り込んでいこうとしている。このような状況で求められるデザインは,速度や力に翻弄されない,人間社会や環境を支える真のテクノロジーの姿を象徴するものでなければならない。

速度と力に席巻されたデザインの影に隠れて見過ごされてきたもの
 テクノロジーとコミュニケーションの発展が速度を増し,そのテクノロジーの姿が眼に見えなくなると,相対的に我々は速度をゆるめることが可能*02となり,我々の眼の前には,20世紀の速度と力に席巻されたデザインの影に隠れて見過ごされてきた様々なものが現れてくる。それは人間社会や環境に対する柔軟さと優しさに満ちたまなざしであり,文化や歴史など土地の記憶に対する配慮である。そのプロセスは,その社会や文化の成熟のプロセスといってもいい。これからの未来社会を見据え、支えていく建築は,こうした成熟のまなざしをデザイン化したものでなければならない。

「土地の記憶」のデザイン
 高度情報化社会は分散型のネットワーク社会である。それはいくつもの個性と独自性を持った中心(核core)が、互いにネットワークを構成する社会であり、この新しい社会における最新テクノロジーとコミュニケーションを象徴する建築は,そのデザイン自身が,個性と独自性を持つ中心(core)としてのデザインを持たなければならない。そしてそれは、その建物が立地する土地の確個たるアイデンティティ、すなわち「土地の記憶」を表象するものでなければならない。
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温州甩信国脉大楼/IMA*04

*01:複雑系を超えて―システムを永久進化させる九つの法則/ケヴィン・ケリー/アスキー出版 1999.02.10
*02:ポストメディア論/デリック・ドゥ・ケルコフ/NTT出版 1999.07.05
*03:ダイナモの神The Lord of the Dynamos 1895 /H.G.ウエルズ/早川書房
*04:温州甩信国脉大楼計画/IMA /2001

■中国・浙江省の水の都、海運都市である温州の土地の記憶を、風と水の流れとして捉え、風紋、波、それらに漂う木の葉、ボート、SAILとしてデザイン化した。ファサードに木と緑の彩を与え柔軟さとやさしさを表現した。

「複雑系」を超えて―システムを永久進化させる9つの法則
ケヴィン ケリー,服部 桂
アスキー

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ポストメディア論―結合知に向けて
デリック ドゥ・ケルコフ
NTT出版

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