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52 芸術の境界

 市川浩は、現実からのわずかのズレ、つまり現実と模倣された現実との間の、ほとんど意識されない〈あそび〉が芸術を呼び起こす*01という。また稲葉振一郎は、「本来の理念的な芸術作品における『公共性』、広範な公衆に向けての訴求力の原点は、それが体現する自由と普遍性にあり、その自由と普遍性は、鑑賞者もよく知っている現実世界の姿を、少しばかりずらすことによって比喩的に(しかしある意味ではこのうえもなく具体的に)示される」*02とのべ、いずれも現実からの少しばかりのズレが“芸術”を構成する重要な要素となっていることに言及している。

ラオコーン像と対照的な永遠の“沈黙”とその奥底からかすかに湧きあがる“笑い”の本質とは・・
聖観音菩薩立像/山田鬼斎(1893)/原品=7~8世紀 薬師寺東院堂蔵/東京国立博物館

芸術の境界
 「ひとがた」のデザインについていえば、現実からのわずかなずれとは「ひとがた」が模倣する“ヒト”からのズレであり、そのわずかなズレによって生じる「ひとがた」特有の現象=「不気味の谷」との関連性が注目される。
 ここでいう「不気味の谷」とは森正弘が見出した「ひとがた」がリアル(現実=ヒト)に近づけば近づくほど突然、畏怖や怯え、あるいは恐怖さえ感じてしまうという現象と、その根本にある“死”という、人間が避けられない現象でありながら、日常の中で我々はそれを忘れている、いや忘れようとしている事象の存在するところを意味している。そしてラオコーン像*03には、絶望、苦痛、死などの主題を、真正面から取り上げた故の迫力がある。
 「ひとがた」を芸術として捉えようとするとき、この「不気味の谷」は避けて通れないのではないか。あるいはそれは「ひとがた」の芸術性を測るひとつの尺度と言えるのかもしれない。まさに「不気味の谷」と呼ばれる現象の起きるところ、現実(リアル)に限りなく近づきながらリアルとは異なるわずかなズレが引き起こす反転現象と重なるところに “芸術”とそうでないものの境界があるといえるのかもしれない。
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*01:身体論集成/市川浩/岩波書店 2001.10.16
*02:モダンのクールダウン―片隅の啓蒙/稲葉 振一郎 NTT出版 2006.04.06
*03:ラオコーンについていえば、この現実からのズレとは“表現体を構成する素材(大理石)”と“静止する時間”にあるといっていいのではないだろうか。精緻な肉体表現、魂の叫びまで写し取った、現実を圧倒する現実(リアル)を表出するラオコーン。唯一現実と異なるのは、大理石でできていることと、時間が止まっていることなのである。古来、メドゥーサの神話にも見るように、ヒト(もの)の動き、時間を止めるためには、肉体(もの)そのものを“石”にするしかなかったのである。すなわち石という素材は、時間を止める上で必要な手段であった。そうであればラオコーン像において、現実との唯一の、そして最大のズレとは、時間の静止にあるといえるだろう。


身体論集成 (岩波現代文庫)
市川 浩
岩波書店

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モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)
稲葉 振一郎
NTT出版

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