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16 窓

人工の窓
 1963年に出版された高木純一他共著の「未来の世界」*01の中にエレクトロルミネセンスという言葉が出てくる。それは21世紀初頭の郊外の電子住宅では一般的になる(と予想された)、壁全体が光る照明のことで、この面照明と壁掛けテレビの二つが未来の住宅を劇的に変える技術になると予想されていた。そしてこれら二つの技術を組み合わせることによって“人工の窓”ができると期待された。
 窓の機能には、明るさや外部情報(気候、眺望など)の確保、圧迫感・閉塞感の解消などがあるが、明るさの確保は人工照明の発達により窓以外でもすでに可能であり、窓に求められる最大の機能は、そこを通して運ばれてくる外部情報にあるといってよい。
 暗い室内から窓を通して明るい外部を見るとき、窓枠が構成する額縁効果によって窓がひとつのヴァーチャルなスクリーンのように見えることはよく経験されることだ。このとき窓を通して伝えられる“情報”が、人工的なものに置き替え可能であろうことは容易に想像がつく。しかしいままではそれを実現できる技術がなかった。それが今ようやくリアリティを持った“人工”の情報を伝える技術が実用化されつつある。
 「未来の世界」の出版から40数年を経て登場した有機EL(エレクトロルミネセンスElectro-Luminescence)技術は、超薄型テレビの本命*02としてだけではなく、まさに“外部”情報を伝える“面の光”として、従来の窓に変わる人工の窓となる可能性を備えている。

外部の情報を伝える“窓”

空間を造形する光は外部の“情報”を必要としない
 ル・コルビュジェが「空間を造形する瞬間」とした「窓を開けて暗闇に光が差し込む瞬間」は、差し込んだ光の束から放射された光の粒子が周囲に存在する様々な表面にぶつかり反射・拡散することによって、表面の情報が刻み込まれた“光”が暗闇の中に広がり、その分布する領域が“空間”として意識された瞬間であった。
 このとき暗闇に差し込む光そのものは、ただ強度を持つのみであり、その光が反射と拡散をくりかえし、“情報”のグラデーションを室内空間の中につくることによって、直射光に包まれた空間、暗闇の黄金色に輝く聖なる空間左から右への聖性の転換など様々な空間を創り出してきた。しかし、これら空間の造形の契機の中に、光が外部から窓を通じて運んでくる“情報”についてはまったく触れられていない。すなわち空間を造形する光には外部から伝わる“情報”は必要ない。
 また超自然的な光を地上に再現する目的を持った宗教空間においては、ヨーロッパの教会堂のように直上から光を取り入れる構造であったり、日本の仏堂のように深い庇の奥に微かに届く空間となっているが、その際とくに窓を通しての“外部”の情報は必要なく、エレクトロルミネセンスのようなランバートな光によって、満遍なくその宗教空間を満たすことのほうが重要となる。
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善立寺・観音堂/東京都・足立区/IMA
情報のない強度の光が均一に空間を満たす仏堂空間。

*01:未来の世界/高木純一、岸田純之助著、中島章作画/小学館 科学図説シリーズ 1963.11.05
*02:有機ELテレビ/SONY XEL-1
・厚さ3mmの超薄型パネルはウェアラブル・コンピューティングの可能性を開くものでもある。
・しかし本当の意味での“人工の窓”と呼べるまで大型化するのにはまだ時間がかかりそうだが。
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15 都市の中の寺院 02

暗闇の聖なる空間
 しかしこの闇の中の黄金が放つ光の効果は、ただ日本に特徴的なものではない。かつて磯崎新は「それはそっくりビザンティン建築の内部の意図の一部である」*01と感じた。また香山壽夫がヴェネツィアのサン・マルコ寺院で経験した、教会内に燈された灯によって、壁を埋め尽くすモザイクが黄金色の光を放って一斉に輝きだした*02瞬間もまた暗闇の空間が“聖なる空間”へ転換する契機を示している。
 聖なる瞬間は、歓喜に満ちた神の奇跡のときに感じるものであるが、一方で不合理な力が人を畏怖させたときにも感じる。宗教社会学ではこの不浄で不吉な聖性を左極の聖性、清純で吉なる聖性を右極の聖性*03という。左極の聖性は、人の魂の根源を揺さぶる衝撃-すなわち死をめぐる諸情、おぞましきもの、恐ろしいもの、不可解なものなどが引き起こす聖性である。暗闇の聖なる空間とは、この左極の聖性の空間にほかならない。

黄金色に包まれたサン・ヴィターレ聖堂/ラヴェンナ・イタリア

左から右への聖性の転換
 一方、磯崎新は日本の建築空間と同じように暗闇に非物質的な光が充満するさまを感じたラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂で、「闇でつつまれたようにみえる内部空間に、大量の光が溢れて、まったく別種の世界を出現させていく」*01瞬間に出会う。聖堂内が日本と「同じ闇を裏側にひかえさせていながらも、過飽和状態になるまでに圧倒的な量の溢れ出てしまう光の海」*01へと変貌する。左極の聖性が支配していた聖堂の内部は、右極の聖性の空間へと劇的な変化を遂げたのだ。この変化はもとより自然光のなせる業であるが、それは大自然の壮大な美やそれらによって喚起される高揚感などを示す“崇高さ”という概念につながる。崇高さは左極の聖性の肯定的な価値付け*04となる。

渾然一体となる空間
 日本の仏堂を支配しているのは、左極の聖性の暗闇の空間である。死を乗り越え仏の救済の世界に至るために、まず人を畏怖させる不合理な力が支配する闇の空間を必要とすることは他の宗教空間と同じである。しかし日本人にとってその闇の空間は、絶対神に敵対する悪魔の支配する世界のように、恐れおののき、忌み嫌う世界ではなかった。自分自身の姿は闇に溶け込み見ることができない。と同時に、自分の傍らに確かに存在する人々-家族、信徒などの姿も同じく見ることができない。そうした暗闇の支配する仏堂にいて、眼前の、荘厳の飾りが放つ微かな光によって浮かび上がる“非物質的な光が充満する聖なる空間”を共有するとき、傍らにいる人々と自分自身が渾然一体と交じり合った存在になることを感じる。暗闇がまるで巣穴や胎内のように自分(と傍らにいる人々)を守るべき存在となることを感じるのである。
 仏堂の暗闇は、畏怖の念を引き起こすと同時に、そこに共に集う人々の一体感、安心感、親しみを醸し出す空間でもあった。その背景には、かつての日本人の日常生活での家族・共同体の強固な繋がりがあった。それがあればこそ、彼らと共に暗闇の中に入っていく時、その一体感が“聖なる暗闇”の空間によってよりいっそう強められたのである。それゆえ日本の仏堂では薄暗さが維持され、それが久保田淳のいう暗闇の“好み”にも繋がっていったのではなかろうか。

暗闇から光が充満する空間へ
 しかしいま、核家族化が進み、共同体意識が薄れたとき、この薄暗い空間に対する好み、親しみ、安心感もまた失われつつある。暗闇の中の一体感を共有する繋がりが希薄化したとき、人はその暗闇が代表する共同体に対する敬遠感、疎外感を逆に感じるようになる。そして人は内部の情報がほとんど伝わらない暗闇の中に入りたがらなくなった。
 仏教回帰への道を再びたどるために新たに求められる寺院空間は、従来のような暗闇の支配する仏堂ではなく、ヨーロッパの宗教空間のように左から右への聖性の変化を促す空間、光あふれる空間をつくり出す必要があるのではないか。暗闇の聖なる空間は、その暗闇を共有する強固な共同体意識があってこそ生きるものであるが、その共同体意識が希薄になった今は、かえってその暗闇が人々を拒絶する。寺院空間が再び人々を招きいれる空間となるためには、暗闇の支配する空間から、光が充満する空間へと変化を遂げることのできる空間としなければならない。
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善立寺・本堂/東京都・足立区/IMA
五間堂の本堂は、四方と直上から光を取り入れ光あふれる構造となっている。

*01:闇に浮かぶ黄金/建築行脚4 きらめく東方サン・ヴィターレ聖堂/磯崎 新/六耀社
*02:建築意匠講義/香山 壽夫/東京大学出版会
*03:ゴシックとは何か―大聖堂の精神史/酒井健/筑摩書房



磯崎新 篠山紀信 建築行脚 (4)

磯崎 新,篠山 紀信
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建築意匠講義
香山 寿夫
東京大学出版会

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ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)
酒井 健
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