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28 FOK Feeling-of-knowing

 日本の空間の本質は、とても規則正しく、そしてそこにはある種の隠された幾何学的構造が潜んでいる*01とクリストはいう。彼は、自らが考え出した“形”の内部の幾何学的構造や形態上の配置が、その場の持つ可能性の中に潜んでいると考えた。そしてその“形”が、それらの空間内の様々な要素との対話を生み出し、様々な状況、すべての違った状況を結び付けて行く役割を果たすと考えたのだ。
 立体の形や配置が、あらかじめその空間の中に潜んでいるという感覚は、立体形が空間に占める場所とその役割には、絶妙な調和を生み出す
ゴルディロックス・ポイントがあるという感覚や、空間の中における立体形の相互関係・相互作用が、その空間の中に連想記憶のように畳み込まれているという感覚と同一のものといえるだろう。
 しかしながら、クリストの《アンブレラ》プロジェクト(1991.10)で彼が考え出し、配置した“形”たちは、一体何をその“空間”から引き出したのだろうか。

《アンブレラ》/クリスト/1991.10/茨城

 
 「普通」の空間

 《アンブレラ》プロジェクトでは、日本の田園地帯の中に、異質の立体形群が、鮮やかな色彩とともに配置された。クリストの作品は、彼がつくりだした“形”以上にもともとの“物体や空間をより強烈に顕在化”する*02と中原佑介がいうように、《アンブレラ》においても“形”たちが置かれている場所そのものが注目された。クリスト自身が「最も普通」*01だから選んだと述べたその場所は、ありふれた、ごく一般的な日本の田園風景であった。
 クリストのいう日本の空間に潜むある種の幾何学的構造。日本の空間は“有機的”な空間、と考える人にとって、クリストの言う“幾何学”的という言葉に違和感を覚える人も多いのではないだろうか。
 
ヨーロッパには、自然の本質は理性であり、秩序・規則・調和を根本の様相にするというプラトン的自然観がある。公園の木々を幾何学的に刈り込むなどはこの考えにもとづいている。これに対し日本では自然は自然なりにあつかう。有機的デザインが日本の本質ではないかというのが一般的な見方としてある。
 一方、《アンブレラ》プロジェクトは日本と同時にカリフォルニアでも開催された。クリストはそこを選んだ理由を有機的な巨大な開放空間があるから*01としている。そこには人間の手がほとんど加えられていない自然そのものの空間があった。その空間のすぐそばに、対照的に人工の産物である道路が走っている。これに対し日本では自然に見える里山も実はほとんど人の手が入って管理されている。自然の形態の中に直線や円といった純粋に幾何学的な図形というものはない。それらは人間の叡智がつくりだしたものだ。そういう意味で、自然に人間が何らかの“手”を加えた空間に対し、そこに“幾何学的構造”があると呼ぶのであればそれはクリストの指摘するとおりだ。

 FOK、そして沈黙
 クリストは噂と沈黙と伝説の芸術家だ*02と中原佑介はいう。何年もの長い準備期間をかける彼の作品は、わずか2~3週間という短期間しか存在しない。準備中のものは噂話となり、過ぎ去ったものは伝説となる。そしてついに彼の作品を眼前にした人たちは、語る言葉を失い深い沈黙の中にあるというのだ。
 《アンブレラ》を前にして、我々は確かに語る言葉を失った。それは普段なら何気なく見過ごしてしまう場所に焦点をあてた。彼がその場所に呼応してつくり出した“形”も、実は非常に日常的で、慣れ親しんだ形(その大きさと色と置かれたところを除いては)であった。
 クリストの“形”と“場所”が相互に対話し合い、引き出したもの。それは我々日本人なら誰もが「自分は答えを知っているはずだFeeling-of-knowing, FOK*03」と感じるものだ。
 「答えを知っている」確かにその通りだ。しかし「その答えは・・・」。ここでしばし我々は沈黙してしまう。それは我々日本人の一番深いところにあるような何かであって、うまい言葉を探し出せない。
 この場所で《アンブレラ》が引き出したもの、それは我々日本人の原風景なのだろうか。それがクリストがいう幾何学的なものかどうかはわからないが、この場所の中に日本人の“原風景”を形作っている何らかの“構造”があることは確かだ。その構造は実は、日本人の原風景にぽっかりと穴を開けているものなのかもしれないのだが。
todaeiji-weblog

*01:クリストが語る―《アンブレラ》プロジェクト/クリスト/クリスト展図録1987 軽井沢(財)高輪美術館/インタヴュアー 柳 正彦
*02:噂と沈黙と伝説―クリストの芸術/中原佑介/クリスト展図録1987 軽井沢(財)高輪美術館
*03:認知記憶の大脳メカニズム―イメージと想像力の起源/宮下保司/
想像力の起源

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27 空間の布石

  空間における立体形の配置を、建築や都市の空間で考える際に必要となる空間感覚。それと同じような“空間感覚”があると感じられるものに囲碁の「布石」がある。
 平面上で直交する基準線の交点に碁石を並べ、碁盤の中の“場所”=「地」の大小を競う囲碁は、一見二次元のゲームのようであるが、三次元的奥行きを持った空間感覚があるゲームでもある。
 布石とは碁の序盤での石の打ち方のことで、その後の盤面上の展開に対しもっとも効果的な点を求めて石を並べていくのであるが、序盤は石の数も少なく、その後の展開もそれこそ無数にある。そこで過去の先人たちの幾多の研究にもとづく“定石”を手掛かりに手を進めていくのが一般的な布石の打ち方となる。

△第32期名人戦第5局「布石」14手目    △終局 223手目
布石の段階の石
が要となって「地」を形成している。
 しかし名人戦などの手順を見ていると、定石が単に形式的なものではなく、その後の展開における「地」の全体像を真に見通した石の打ち方であること、そして同じく全体像を見通した相手の次の一手によって、まるで石同士が自ら反応しあい、相互作用をおこすかのように展開していくのがわかる。

無数の可能性の集積が生む空間感覚
 石の配置は二次元のパターンであるが、そこに時間軸が加わる。一手打つごとに、すなわち時間が進むごとに、石のパターンは変化する。次の一手に様々な手が考えられるために、時間軸を加えた石のパターンには、それこそ無数の可能性がある。それはある種の立体的な“奥行き”といってもいい。二次元のパターンである「布石」に対してわれわれが感じる“空間感覚”とは、このような時間軸を重ねたことによる可能性のパターンの“集積”と、その“奥深さ”に対して感じる感覚なのではないだろうか。
 打手はこうした立体的な奥行き感の中で、次の一手を探る。目の前の“空間”にはこれから選択すべき手順の道筋が、前方(将来)に向かって無数に伸びている。それらの中から新たな一手(道筋)を見つけ出し、石の配置を決めていくのである。

19×19
 囲碁における可能性のパターンの“集積”は、しかし19×19という盤面の制約があるために、361手で完結するパターンである。一手打つたびに、すなわち可能性の1つが選択されるたびに、次の一手の可能性のパターンは減少し、最終的に終局の1パターンへと収斂していく。
 碁石の数が少ない段階では、「地」の領域ははっきりせず、ぼんやりと見える状態=「模様」にすぎないが、碁石の密度が増していくにしたがって、「模様」から浮き上がるように「地」の“領域”が明確になってくる。複数の可能性のあるパターンが重なり、ブレていた全体像が、解像度が上がるように一つの姿へと収斂していく。
 「模様」から「地」への石の流れには無数のパターンがある。それらが時間を遡るように凝縮され、一手に込められるのが「布石」の段階である。だからこそその一手は、全体像を見通した一手として後々の展開にまで影響を与え続けるのである。

インプットされた連想記憶
 布石のパターンを「連想記憶」と捉えることもできる。連想記憶とは、あらかじめシステムに複数のパターンを記憶させ、入力に一番近いパターンを想起させるようにしたシステムのこと*01であるが、囲碁の「模様」から「地」へと収斂していくプロセスは、その歴史と同じ年月のあいだ、先人たちによって数え切れないほど繰り返されてきたプロセスであった。
 19×19の盤面にはこうした先人たちの無数の「地」のパターンが連想記憶としてインプットされているともいえるのだ。そして「布石」の段階の一手は、その後の展開を予想させる「模様」というメタ記憶*02を生みだす。それはさらにその次の一手によって、新たなメタ記憶を生み出していき、徐々に終局のパターンの“記憶”がよみがえってくるのである。
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*01:スピングラスと連想記憶/西森秀稔/岩波書店 物理の世界 2003.01.29
*02:認知記憶の大脳メカニズム―イメージと想像力の起源/宮下保司/
「メタ記憶とは、ある記憶内容が自分の記憶貯蔵庫のなかにあるかどうかということに関する知識のこと」


スピングラスと連想記憶―物理と情報〈1〉 (岩波講座 物理の世界)
西森 秀稔
岩波書店

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