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41  歯車

 からくりには歯車が詰まっている。回転する速さも、向きも異なる歯車が、大小・たてよこ幾重にも重なって、からから、くるくると回っている。

田中久重「弓曳き童子」の歯車/東芝科学館所蔵

 歯車は2つ以上を組み合わせて初めてその力が発揮される。大きさの違う歯車を組み合わせることによって、回転速度が変わる。小さな回転が大きな回転に変わり、速い回転がゆっくりした回転に変わる。一方からもう一方へと力が伝わり、それがいくつもの歯車に伝わっていくたびに、小さい力、大きい力、様々な力に変わっていく。

“繰り返し”と繰り返しは“ない”という概念
 時間を刻む時計のイメージは歯車がいくつも回転するイメージと重なる。それは “時間”というものに対する一般概念のひとつである“繰り返し”という概念を、まさに時計という機械が歯車の“回転”を利用して具現化したものだからだ。時間というものに対する我々の経験には、時計の刻む音とか脈拍とか日とか月とか季節の移り変わりとかの循環であろうが、そこには常に繰り返す何かが存在している、とエドマンド・リーチ*01はいう。

時計の歯車/東芝科学館

 しかしリーチも指摘するように、時間の一般概念には、それぞれ論理的に異なり、矛盾する二つの異なった種類の経験が含まれている。第一がこの“繰り返し”という概念であり、第二が繰り返しは“ない”という概念である。すべての生けるものは、生まれ、育ち老いて、死ぬ、そしてこれは不可逆的、もとに戻せぬ過程であるという意識が働いているとリーチはいう。この相矛盾する二つの概念を共に内包するものが“時間”という概念なのである。
 歯車による調速機構が、時計という機械の中で、正確な“繰り返し”=“時”を刻むという働きをする一方で、歯車が幾重にも重なり合い、複雑に力が伝わり合っていくと、思いがけないものを動かす仕組みとなる。そしてそれらが次々に伝搬していくうちに、同じものの“繰り返し”から出発したそれは、繰り返しのない、不可逆なものへ、異質なものへと変わっていく。

歯車が生み出す『自己』
 9世紀の中国では『指南車』という先頭に木彫りの像のついた荷車がつくられた。その指南車の像は、どのように曲がりくねった道を走ろうとも常に南を指し示した。その像はまるで堅固な意志を持つかのように、自発的、自動的に南の方向を探り当てた*02という。
 実はこれは差動歯車という特殊な形状の歯車の組み合わせによって、荷車が左右に曲がることによる車輪の回転の差を読み取り、木彫りの像の腕を同じ分量だけ逆方向に振って荷車の向きの変化を相殺し、常に同一方向に向くという結果を生みだす仕組みなのだが、ケヴィン・ケリー*02はこれを『クテシビオスの時計』の調整弁(レグラ)*03と同じように、自己調整、自己統御、自己制御を行なうことのできる生命をもたない装置として位置づけた。そしてこれらは生物学の領域外で生み出された最初の『自己』となったもののひとつだ、と述べている。なぜならこの装置の『自己』は『人間の自己』の負担を肩代わりしたからだ、とケリーはいう。
 “繰り返し”という概念を具現化する役割を果たした歯車が、繰り返しの“ない”装置を生み出すとともに、人間の『自己』の代わりまで果たすようになる。このようにしてつくりだされたものを“からくり”と呼ぶとすれば、それは、つくりだしたもの(ヒト)とは、まったく別種の命をもつかのようにふるまうのである。

デジタル化の先
 田中久重が1851年に製作した、和時計の最高傑作といわれる『萬歳自鳴鐘』通称万年時計。それは究極の“繰り返し”を追求したものだったといえるだろう。歯車の回転数は歯の数によってデジタルに決まる。精緻なデジタル化の追求は、やがて通信技術の開発へと久重を導き、現代技術の礎を築いていくのだが、一方で彼が残したからくりにこめられた親しみや愛情、楽しみといった感情は、技術の、デジタル化とはまた別の可能性をいま我々の前に広げている。
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『萬歳自鳴鐘』/東芝科学館復元展示

*01:人類学再考/E・リーチ/思索社 1974.06.20 青木 保、井上兼行訳(原著1961)
*02:複雑系を超えて―システムを永久進化させる9つの法則/ケヴィン・ケリー/アスキー出版 1999.02.10 服部桂監修 福岡洋一・横山亮訳
*03:BC3世紀前半のアレクサンドリアでつくられた、倒立した漏斗状の穴に円錐形の浮きが合うようになっていて、通過する水の量が『ちょうど十分になる』妥協点を瞬時に見つけ出す仕組み。(*02参照)


人類学再考
エドマンド・ロナルド リーチ
思索社

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「複雑系」を超えて―システムを永久進化させる9つの法則
ケヴィン ケリー,服部 桂
アスキー

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40 生命-道具、ひとつながりの関係性

テクノ=ナルキッソス/フェティシズム
 からくりという言葉に込められたもうひとつ、つくりだされたモノそのものに対して向けられた、親しみ、愛情、楽しみといった感情。それは“技術”に対する愛着といえるが、マーシャル・マクルーハンが『感覚麻痺を起こしたナルキッソス』と呼び、デリック・ドゥ・ケルコフが『テクノ・フェティシズム』と呼ぶ*01技術に対する“極端な執着心”とはそれはまた違うものである。
 マクルーハンは、車輪は足の延長であり、本は目の延長であり、衣服は皮膚の延長であり、電気回路は中枢神経系の延長である*02といい、人間のいずれかの能力―心的または肉体的能力の延長として人間はテクノロジーを生み出したという。さまざまなテクノロジーが何かの能力を広げてくれる度、生身の身体が持つ限界を超えさせてくれる度に、我々は自分の身体が増強・拡張されたことを実感する。我々はできるだけ最新機能の付いた機械をほしがる。それはすべての機能を活用したいからではなく、機能がそろわないことには、自分が不具であるような、十分でない存在のように感じられるからだとケルコフ*01はいう。
 すなわちテクノロジーは、拡張された自分自身であり、それに対する愛着とは、自己愛に通じる執着心であるというのだ。これらの主張の根底にあるものは、テクノロジーはあくまで、つくりだしたヒトそのものであり、ヒトから外化(拡張)しながら再びそのヒトに戻ってくる(同化する)ものだ、ということだ。


ヒトの“好み”に染め上げた“モノ”

生命と非生命をわけへだてない伝統
 これに対し“からくり”の中に込められたそれは、テクノロジーはつくりだしたヒトとは別のものだ、という感覚ではないか。つくりだされたものは、つくりだしたものとは違う性質をもち、それ自体がヒトとは違う命をもつ。そこには自然のなかのあらゆる事象・事物に命がある、あるいは神が宿しているという日本のアニミズム(多神教)的伝統と共通した感覚がある。
 日本には、たとえば箸供養のように常日頃利用する道具の霊を祀り、供養する伝統行事がある。そこでは生きていくために食するあらゆる生命と、その食を提供する自然に対する畏敬と感謝の念を、その食のために利用する道具に代表させて祀り、供養するという、生命と自然と道具とがひとつながりになった関係性がある。ここには生命と非生命、つくりだしたものとつくりだされたものをわけへだてない伝統がある。

多神教のテクノロジー
 中沢新一*03はそうした日本の伝統的マニュファクチュアを異質領域の間を、次々と接続していくインターフェイスのつながりとしてとらえた。異質なものの異質性を保ったまま、お互いの間の適切なインターフェイス=接続様式を見いだす。一方的に自己の論理を他方に押し付け、自然を制圧し、変化させようとするのではなく、自然の側からの反応や手応えによって、人間側を変化させる。そうした人間と自然の対称的な関係、対話の様式としてのテクノロジーである。中沢はそれを多神教のテクノロジーと呼び、単一の原理に無理やり従わせ均質にする、すなわち従属させるテクノロジーを一神教のテクノロジーと呼んだ。
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*01:ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ/NTT出版 1999.07.05
*02:メディアはマッサージである/マーシャル・マクルーハン他/河出書房新書 1995.11.20(原著1967)
*03:精霊の王/中沢新一/2003.11.20 講談社


ポストメディア論―結合知に向けて
デリック ドゥ・ケルコフ
NTT出版

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メディアはマッサージである
マーシャル マクルーハン,クエンティン フィオーレ
河出書房新社

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精霊の王
中沢 新一
講談社

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39 からから、くるくる

からくり
 からくりは日本の伝統的な、精巧に手づくりされた機械、あるいは機械仕掛けの人形などをさす言葉だ。しかし機械という言葉がどちらかというと合理的で、冷たいというニュアンスを持つのに対し、からくりという言葉には、親しみや愛情、楽しみといった感情がこもっている。その感情には、その機械をつくりだしたヒト(作者)に対して向けられたものと、つくりだされたモノそのものに向けられたものの両方がある。
 からくり(絡繰、機巧、機関、唐繰)は、糸を張って動かすという意味の「からくる」という言葉が語源だといわれている。それは糸車のからからと回る音、くるくると回る様子から出た言葉であろうか。あるものごとの不思議を解明するために集中し、ひとつものごとがわかると、頭の中がくるっと回って、新たなものごとの理解や、様々な発想、アイディアが次々と生まれてくる。まさにこのような、からから、くるくると“頭の中”が回る様子をからくりという言葉は示しているようだ。
 この言葉のなかには、自分自身のための創造性の追及がある。自分自身のための、その夢の実現のためのテクノロジー(マニュファクチュア)の追求だからこそ、親しみや愛情、楽しみといった感情、知識欲、癒し、道楽・・・といった動機につながっていく。

田中久重「弓曳き童子」/東芝科学館所蔵。
現代の名工、東野進氏による復元

つくりだすものとつくりだされるものの間
 からくり儀右衛門と呼ばれた田中久重*01(1799~1881)の「弓曳き童子」の、まるで生きているとしか思えないそのきめ細かな動きは、まさに驚異的だ。小さな体に凝縮されたゼンマイと歯車による“からくり”の妙致。スケルトンの「茶運び人形」*02などを見れば、たしかにこうしたからくり人形はヒトの手によってつくりだされたモノだ、ということはわかる。しかし、この歯車のシンプルな組み合わせに見えるものが、なぜあのような精緻な動きを生みだせるのか。まるで歯車や木の腕木そのものに命が宿って動いているかのような、そして作者はこうしたモノに命を吹き込む霊能者なのではないか、とまで思いたくなるほどだ。
 しかも「弓曳き童子」を構成している“技”はからくりだけではない。刀や蒔絵が施された印籠、燐青銅で加工された弓、象牙・真鍮・鷹の羽等を使用した矢、真鍮製の歯車、燐青銅手打ち加工のゼンマイ、ひのき・かりん・赤ざくら等を使用した木部、金糸を使用した障子の布部、江戸ちりめん地の人形の衣装等々。ひとつのモノをつくりあげるために、幾多の職人たちがかかわりあっている。職人たちのこのからくり人形にかける熱意と工夫がひしひしと伝わってくる。久重を中心に、各々の熟練した“技”を持ち寄り、ひとつの目標に向かって職人たちを熱くまとめたもの。それはつくりだすものとつくりだされたものの間に存在する何かであって、職人たちの“情熱”をからから、くるくると回すもの。それが“からくり”の本質にあるものなのではないだろうか。そしてそれが、そのつくりだしたものをみる我々に伝わり、頭の中をからから、くるくるとまわし、夢中にさせるのだ。

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「茶運び人形」を復元したもの。下はその骨格(スケルトン)/東芝科学館所蔵。

*01:東芝の創業者の一人。東芝科学館には久重(1799~1881)の「弓曳き童子」や「万年時計」など見事なからくりが復元展示されている。
*02:細川半蔵頼直によって寛政8年(1796)頃に書かれた「機功図彙(からくりずい)」に記されたからくり人形の設計図をもとに復元されたもの。

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