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07 情報建築のもつ不気味な穴

巨大化したTV受像機
 装飾が独立した意味機能を持つことを、建築の表層が発する“情報”として考えてみると、看板や張り紙は半固定という意味では装飾に近いが、付け替え可能という意味では、能動的で、変動的という情報の特性を持っている。しかしこうした看板建築や張り紙建築以上に究極の情報建築は数百~数千インチの大型映像装置*01を外壁に取り付けた建築であろう。
 それは巨大化したTV受像機であり、圧倒的で過剰とも思える情報をリアルタイムに発信する。その膨大な情報発信の前では、もはや建築内部の固有の機能やプログラムの情報伝達は副次的なものとなる。これ以上に“情報”に特化した建築はない。しかしひとたび大型映像装置の情報発信が途絶えると、放送終了後のTVのようにそこには虚ろな箱が残るだけとなる。そのときこの究極の“情報建築”は、実はその建築本体の表層にはTVの箱以外のなんら固有の情報がないものであることがわかる。

放送終了後の巨大なTVの箱/渋谷

 建物本体の表層がなんら情報を持たないということと、そこに膨大な情報を発信する “窓”があることは、むしろ建物の外壁にぽっかりと異世界の入口が開いているような不気味ささえ感じさせる。その不気味さをよく現したのが映画「リング」の中でTVから貞子が出てくるあの有名なシーンであろうか。

電子情報の照応する枠
 情報とは“不定形だったなんらかの存在”に形を与えること*02であるが、その形には単なる形態にはない能動的で変動的という意味が込められている。情報とは形態をひとつのメディア(媒体)から別のメディアへと移動させることであり、関係の流れ、関係の伝達性のことである。このことから大型映像装置を外壁に備えた究極の情報建築は、目に見えない電子世界から現実社会へと電子的情報を移動させる通り道、その現実世界との境界面-照応する枠-を構成しているとも言える。それは不定形な電子的情報に“照応する枠”を通すことによって形を与える機能を果たしている。電子情報は次から次へと枠を通り抜け、形を与えられ人々に消費される。

情報と装飾の似て非なるところ
 それは建築の壁面に固定された「装飾」の持つ意味作用とは根本的に異なるように見える。装飾と情報は似ている部分とそうでない部分がある。装飾の中には独立した意味機能を担うということで、確かに“情報”が含まれている。しかし装飾にはそれだけではなく“象徴作用”がある。“意味ありげな”そしてより代としての“意味のない”装飾はその象徴作用をフルに活用したものであろう。
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*01:オーロラビジョン100~2800型まで(三菱電機HPより)
*02:量子が変える情報の宇宙/ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー/日経BP社 2006.03.27


量子が変える情報の宇宙
ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
日経BP社

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06 ガラスケースの中の緑

 パリのアンドレ・シトロエン公園を特徴付けているものは、大小八つの温室である。いずれも最新の技術によるフレームレスのガラスが外壁を構成し、今までにない透明感の高いガラスケースが緑の上に被せられた格好になっている。

アンドレ・シトロエン公園/パリ/photo by m.yamagiwa

断片化され虚構化された自然
 1983年に開催されたラ・ヴィレット公園の国際コンペの2年後にシトロエン公園のコンペはおこなわれた。そこではラ・ヴィレットのコンペの様々な反省があったといわれる。ラ・ヴィレット公園のコンペの審査員だった磯崎新は、「植物を虚構として把握」した案を選んだ*01と述べている。都市という人工の空間に住まねばならなくなって以来の人類の自然回帰への願望、それが不能であることを今日の都市は証明してしまった。都市の内部に移植される植物は、結局は断片化され、虚構化された姿しか示していないというのだ。そうして選ばれたベルナール・チュミの案では、デジタル時代を先取りしたレイヤー手法と、偶発的な関係が自動的に発生するように仕掛けられた赤いフォリー*01が注目を集めた。

ラ・ヴィレット公園 赤いフォリー/パリ

 チュミは、“公園”を人間の活動のための空間と考え、それをどのように構築するかを考えた。それはたしかにそれまでの庭園概念を逸脱し、公園を建築、いやむしろ都市として構想したものであった。
 それまでの公園は、少なくとも自然と人間が主役であった。われわれは、普通に“公園”を考える時、そこには何らかの形で公園に導入された“自然”があり、その自然と人間との関係性について考えることからはじめる。しかしチュミは、“自然”を都市におけるそれと同じく、公園を構成する様々な要素(パーツ)のひとつとして扱った。“自然”をも人間の活動が偶発的に発生するためのひとつの仕掛けとして発想した。その結果、伝統的な庭園パターンの借用と、それに重ねられた複数のシステムにより、“自然”は分断され、断片化された。さらにそこに見本市に出展する様々な出展者(建築家や芸術家)の手になる作品*02として“自然(植物)”が展示された。そこでの植物=自然は、磯崎が意図したとおり、断片化され、虚構化された姿としてあった。
 この自然の扱いの矮小化がコンペに参加した造園家たちの猛反発を招いたといわれる。しかし彼らとてチュミの提示した虚構化された自然という強烈なメッセージは無視できないものであった。その反発、反省からおこなわれたのがこのシトロエン公園のコンペなのである。建築家と造園家のチーム2組の合作であるシトロエン公園は、“自然と人間の関係性”の追及に立ち返っている。都市軸や景観軸の重視という点でも従来のオーソドックスな公園作りに戻っている。そのせいかシトロエン公園の方が圧倒的に居心地がいい。パリ市民にもより愛されているようだ。ではチュミの発した虚構化された自然というメッセージはどのようにこの公園に反映されたのか。その答えが八つのガラスケースの緑に示されている。

人工環境のなかにある自然、その関係性の可視化=ガラスケースの緑
 都市の中にあって、人工的環境の中にある自然は人工にとらわれた自然である。都市の中の自然とは、いかに“人工”の反対概念としての“自然”に見せようとも、人工の手の平の上に載る自然であり、その意味で“虚構”であるといえるのだ。そうした人工と自然との関係性を可視化したもの、それがガラスケースの中の緑であり、その象徴がシトロエン公園の小さなガラスの温室である。緑という自然に、透明なガラスケースを被せたもの、その透明なガラスケースが都市という人工環境の中での“自然のあり方”を象徴している。→19 ウィンターガーデンの幻想
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シトロエン公園 小さな温室/パリ

*01:なぜ日本勢は振わなかったか/イメージゲーム異文化との遭遇/磯崎 新/1990.11.30、鹿島出版会
*02:ベルナール・チュミ「ラ・ヴィレット公園」/Archi Review 第8回/山崎亮/2003.10.11
   ■チュミはマスター・プランナーとして多くの建築家や芸術家を招聘した。

イメージゲーム―異文化との遭遇
磯崎 新
鹿島出版会

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05 神殿からスターシップへ

スケールの超越・・・天空の創造
 『共』環境空間が成立するスキーマのひとつに、人間が創り出したものでありながら、人間的スケールを越えた空間=巨大空間がある。人間が活動する場、なんらかの建設的行為を行う場として認識される『場所』は今まで大地との関連で語られてきた。そして大地と対となった天空の存在。それは空を埋め尽くす雲のように大地を覆うものであり、抜けるような青空、満点の星空のように大地を開放するものであり、暴風のごとく大地上のものを根こそぎ奪おうとするものであり、激しく降り注ぐ雨のように大地と渾然一体となったものである。大地と天空―『場所』とはこうした二つの極によって規定されるようなスキーマを持つ空間である。巨大空間は、その天空を人工物によって置き換えることにより、大地-天空という従来の『場所』が成立していたスキーマの変更を迫る。それはあらたな人工環境である。この人工環境は大地-天空のもつ環境の要素を限定するとともにあらたな環境条件をつくりだす。我々がつくり出す巨大空間ではそれを可能にするのに十分なスケールの超越が必要となる。


傾斜する天空
 大エジプト博物館の計画案*01における山際認の提案は、数千年続いてきたエジプト文明に、新たな関係性をつくりだすループを挿入することを試みたものである。砂漠では地平線のかなたまで続く茫漠とした大地と天空が強烈な水平性を生み出している。この水平性への対抗として傾斜した大地と天空(大屋根)をもつ巨大空間が提案された。
 大地の起伏を考えれば傾斜した大地は存在する。しかし傾斜した天空はない。天空の水平性は確固たるものである。むしろ大地の不変性を保証するものは動かぬ天空にある。大地の起伏に対し、常に安定した水平性を保持した天空があるからこそ、自分の位置が定まる。水平の天空によって定位された大地に生み出される『場所』。その定位の前提となる天空の水平性に手を加えることにより、異なるスキーマが生み出される。

大エジプト博物館計画案/IMA

重力の消去
 もうひとつ『場所』を成立させてきた重要な要件は重力との関係である。重力場との緊張関係によって、大地上に『場所』が生み出され、『建築』が創造されてきた。その大前提である重力を消去するというスキーマの抽出が、新たな『共』環境空間をつくりだす。
 “エジプト”において提案された傾斜した大地から傾斜した天空(大屋根)へ向けて伸びる何本ものブリッジ。それは地下レベルにある展示空間から地上の展示空間を経て階段状の大屋根の空間へ至る経路である。通常なら地下から地上を経て天空へとつながるラインは重力場との緊張を示す鉛直方向に伸びる。しかしここではそれを水平方向へと90度回転させることによって、重力場からの離脱を象徴することが試みられた。

気候の取り入れ
 人工的に作られた天空は、エジプトの強烈な直射日光と日射熱を和らげ、下端につくられた人工の池から発せられた湿気を含む大気が上昇気流となって、傾斜した大地と天空の間を吹き上がる。砂漠特有の強烈な環境圧のエネルギーが傾斜した“大地と天空”というスキーマとの相互作用によってこの一連の事象を引き起こし、巨大空間の中に光と風と湿気を呼び込み、緑を育み、周辺の乾燥した環境とは異なるあらたな環境をつくりだす。しかもそれは閉鎖された人工環境ではない。大屋根の側面は周辺の環境に開かれている。この『共』環境では周囲の気候が選択的に取り入れられている。

神殿からスターシップへ
 “エジプト”で提案された傾斜した天空を持つスケールを超越した巨大空間、独自の環境をつくりだす重力なき建築―それは宇宙空間を漂う《宇宙船》、それも内部に独自の環境空間を持つ巨大なスターシップとみなすことができよう。
 古代エジプト文明を象徴するものは《神殿》である。神殿の巨大空間は人間にとっての《外》、すなわち《死》や《神》といった存在を示す*02ものであり、その内部は《神》すなわち《外》の領域であった。そして古代エジプト文明の終焉から2000年経過した現在にあって、遺跡となったそれを現在の視点から見直すこと、それは《外》の解消、すなわち神殿を歴史的遺産として人間のうちに解消することに他ならない。それが博物館建築の役割であり、目指したことであった。スターシップはその内部に人工的に人間の活動する空間である『場所』をつくりだす。そこは《人間》の領域である。こうして創り出された『共』環境空間こそ、悠久の歴史の成果を踏まえて訪れる人々に新たな関係性とかたちを創発する場となる。
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*01:エジプト博物館計画案/山際認(IMA)/2002年
*02:身体と空間/小林康夫/1995.11.25 筑摩書房

身体と空間
小林 康夫
筑摩書房

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04 Co-Environment/インタラクション・ループのデザイン

 人間やそれを取巻く社会の環境は,建築などの人工的なものや自然的なものなどが人間の営みに複雑に絡み合い,その構成要素が相互に影響し合う非線形の関係を持っている。こうした非線形の関係を利用し、環境の一部に、ある意図した関係性(インタラクション・ループ)をデザインし、持ち込むことにより,個々の単なる積み重ねでは生じ得ない,新たな関係性やかたちを総体として創り出すことができる。我々はこうした新たな関係性やかたちを創発するデザインされた環境を『共』環境(Co-Environment)と呼ぶことにする。
 「建築」は、内部にある規制と局所的環境の状況に応じて,独立した様態をとる自立的な存在であり,その外部の環境や秩序の在り方に応じて,他の「建築」群と呼応しながらよりよい関係性,形態へと変化する潜在能力を持っている。「建築」やそれを取り囲む環境や秩序の一部に手を加えることにより,従来の環境では生まれてこなかった関係性・形態が新たに創り出される。これを建築における『共』環境空間と呼ぶ。

エントレインメントによるコミュニケーションの構築
 非線形の系、すなわち秩序を自己形成する系ではリズム振動(非線形振動)が出現する。二つの時計の振り子が異なった振動数と位相とをもって振動している時、これらを近づけるとしだいにこの二つの振り子の振動数と位相は、両者の関係によって決定されるあるループに引き込まれて同期しはじめる。これが非線形振動の引き込み現象(エントレインメントentrainment)と呼ばれるものである。
 生命現象はこうした非線形的な性質を本来的にもっているが、清水博が「リズムの間の引き込みによる同調が生物の間のコミュニケーションにとって本質である」*01と述べているように、引き込み現象は人間の認知プロセスにもあらわれ*02、AI(人工知能)の研究の中でもこのエントレインメントを利用したヒューマノイド型のロボットと人間とのコミュニケーションの場の構築*03が目指されている。
 引き込み現象が生じるシステムは、状況に多少の変化が生じても相互関係によって決められたループへと収束していくため安定性が高い。逆にループを変化させることで、相互関係を変化させることも可能となる。すなわち状況や目的に合わせて適切に遷移するようにシーケンスをデザインしたループによって、新たな関係性を構築することができる。

ここまで進化した?ヒューマノイド型ロボット/秋葉原

『場所』=インタラクション・ループが形成された人間の活動する場
 “環境”として認識されるものに『場所』がある。『場所』とは、時間的経過の中で、人間とそれを取巻く環境との間で繰り返された相互作用によりインタラクション・スキーマ(相互作用の図式)が形成され、それがシーケンス化されることによって、人間がそこで活動する場としての明確なイメージ(=インタラクション・ループ)を形成した場のことである。

モデュレートするループが新たな関係性とかたちを創発する
 『場所』とは空間的な領域を示しながら時間的持続性を獲得することにより時空的に把握されるものであり、人々の集団的記憶を形成する。人間が活動する場とは人々がなんらかの建設的行為を行う場*04である。その明確なイメージ(インタラクション・ループ)を形成した『場所』では、その場所にふさわしい新たな人間的活動、建設的行為を招き寄せる引き込み現象(エントレインメント)が生じる。それは別々のものが単に同一化するのではなく、相互に変化しながら両者の関係によって新たに決定されるループへと収斂していく。いわば転調modulationしながら同調するのであり、このモデュレートするループをデザインすることにより、新たな関係性やかたちを創発する環境をつくりだすことができる。
 『共』環境空間とはこのようにデザイン化されたループを持つ『場所』のことである。
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*01:生命を捉えなおす―生きている状態とは何か/清水 博/1978.05.25/1990.10.25 中公新書503
*02:心の形成過程における母子の相互作用(エントレインメント)が共通認識の形成や感情の発達にとって重要であるなど。
*03:
引き込み現象に基づく人間とロボットの暗黙情報のコミュニケーション/小笠原嘉靖他/2004
*04:環境技術としての建築/Prof.Fの西洋建築史講義

生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)
清水 博
中央公論社

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03 “意味を持たない”かたちと装飾

構造とメタフォアの一体化
 伊東豊雄のTODS表参道は印象的な建築である。全面コンクリート打放しによる外壁は、コンクリートのテクスチュアを利用した意味を持たない装飾のひとつともいえるが、そのコンクリートによって作り出されたかたちは明快なメタフォアを持っている。彼の言葉を待つまでもなくそれは樹林をかたどったものである。少なくとも表参道のケヤキ並木の前に立つというこの建物のロケーションが失われないかぎり、その意味のルールは失われない。仙台メディアテークでケヤキ並木の形態を建物に写し取ったのと同じ手法が使われている。写し取られた形態がメディアテークでは内部の柱に、TODSでは外皮に使われている。
 この2作品に共通な特徴はこれら写し取られた形態と構造の一体化であろう。それが装飾を構造に縛り付け、多元性を認めない排他的なモダニズムの「あひる」モデルと同型をなすとする意見*01もある。しかしここで写し取られたものは装飾というよりむしろメタフォアであり、そこで目指されたものは構造とメタフォアの一体化である。決して構造と装飾の一体化が図られたわけではない。

メタフォアの図と地
 2007年正月、足場囲いがはずれ鶴見の駅前に姿を現したコンクリート打放しの異形の建物。*02駅前のケヤキ並木の重なり合う樹形が、30m×25mの屹立する板状のコンクリート面に投影され、コンクリートを刳り抜く。TODSでは樹形のシルエットがコンクリートに置き換えられたが、ここでは樹形にそって刳り貫かれた残地がコンクリートとなる。樹形のシルエットはコンクリートとそのエッジの延長上の空間を走る金属性のラインに繋がっていく。樹形のメタフォアとしてはTODSとこの建物は図と地の関係にある。

IXIA鶴見/IMA 


メタフォアを吹き飛ばす異形の形・・“意味を持たない”かたちと装飾
 しかし刳り貫かれた残地としてのコンクリートは、樹形とは似ても似つかない異形の形として屹立する。そこに開けられた不定形の穴たち。その強烈なヴォリューム感が樹形というメタフォアを吹き飛ばしていく。101匹ワンちゃんの犬(くろぶちのダルメシアン)みたいという子供がいる。Wマーク、Vマークを見出した人もいる。無数の泡が立ち昇るようだという人もいれば、天から無数の星が落ちてくるようだという人もいる。そのかたちは内部の機能やプログラムを表現するものでもない。商業主義的なモニュメンタルなシンボル(あひる)でもない。それは様々な意味が見る側によって付加されるかたち、より代となるかたち、すなわち“意味を持たない”かたちのひとつである。またこのかたちは構造体とは関係のない建物を覆うひとつの表皮であるという点で装飾とも呼べるが、それはかたちと一体化し、かたちそのものとなっている。それは“意味を持たない”装飾ともいえるのである。
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IXIA鶴見/IMA


*01:オルタナティブ・ポストモダン/青木淳/オルタナティブ・モダン-建築の自由を開くもの
      第2回講演 2004. 03. 23(レポーター:勝矢武之)
*02:IXIA鶴見/山際認(IMA)/2007
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02 意味があるものと意味がありげなもの

意味がある装飾と意味ありげな装飾
 建築の表層を構成する『装飾』は“意味があるもの”と、“意味がありげなもの”に分けられる。意味がある装飾の代表例が“文字そのもの”を表層に刻みつけたものである。古代エジプトのヒエログリフは“神聖文字”が石に刻み込まれたものであり、日本の巡礼の寺に多く見られる札貼りや商家の看板・張り紙は願い事や広告が“書かれた”紙が表層に貼り付けられたものである。ロバート・ヴェンチューリは日本の“看板・張り紙建築”をグラフィック・デザインというひとつの表層を構成する装飾*01として捉えた。
 
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂)/会津若松/福島
 ギリシア神殿やキリスト教の教会建築では神話や聖書の物語が彫刻や壁画の形で建築の表層に刻み(描き)込まれた。イスラム教のモスクでは植物や動物の形をもとにした幾何学的文様であるアラベスクが、その文様の選択と整形・配列の方法によってイスラム的世界観・宗教観を現した。
 
サン・ヴィターレ教会/ラヴェンナ/イタリア
 
このように意味がある装飾も、同時的・宗教的ルールの共通認識のもとにあってはじめて“意味を持つ”ものが多く、これらの読解のルールが見失われると、意味はストレートには伝わらなくなり、なにか“意味ありげな”模様となる。むしろ何がしかの意味が《隠されている》かのように振舞うからこそ魅力が増す装飾もある。実は建築の表層に限らず、衣服や様々なモノの表層につけられた装飾の多くが、こうした“意味ありげな”装飾である。

読解のルールの再構築がたどりついたもの
 この装飾の意味を読解するルールが見失われている中で、そのルールを再構築しようと試みたのがポスト・モダニズムであった。そこで重要となったのが歴史―時間の経過である。“意味ありげな”ものには、意味があった時からの時間の経過が感じられる。“そこには失われた歴史があったのではないか”という思いが“意味ありげ”の根拠となっていた。その根拠=歴史を明確にすること。それが読解のルールを再構築する上で重要な要素となった。
 しかしそうした“歴史”を共有できる地域ではそのルールの再構築も効果があったが、その“歴史”を共有しない地域では、それは“意味ありげな”装飾が新たにひとつ登場したに過ぎなかった。その結果“意味ありげな”装飾の、意味のない引用とつぎはぎ的な組み合わせが、際限なく始まることになる。そしてついに読解のルールの構築のために、歴史とはまったく関係のないモニュメンタルなシンボル(巨大なあひる)が選ばれるに至って、ポスト・モダニズムは大衆文化を代表する商業主義によって“消費”されてしまうのである。

装飾とテクスチュア
 では“意味を持たない”装飾というのはあるのだろうか。青木淳は俗にいう迷彩柄などは、いわゆる図と地を持っていない柄であり、観察しても一つのパターンに認識を固定することができない。そのためそれはメッセージを持たない純粋なイメージとなる*02 としている。しかしこの種の装飾は、装飾というよりもそのモノの表層がもつテクスチュア*03に近い。織物の糸の代わりに金属を使って建物の表層を覆うメタル・ファブリックや、新素材・珍しい素材あるいはその表面処理の目新しさなど、テクスチュアを利用した表層デザインなどがその例であろう。コンクリートの打放しも装飾を排除した表現といわれるが、実はコンクリートのテクスチュアを利用した“意味を持たない”装飾のひとつではないか。
 M-HOUSE/中目黒・東京/IMA

意味を持たない装飾はかたちそのものとなる

 意味を持たない装飾は、意味を持たないかたちと同様、見る側が様々な意味を付加することのできる存在、様々な意味のより代ということもできる。たとえばコンクリート打放しが構造体の力強さの表現として使われたり、安藤忠雄の壁がストイックな精神性を感じさせたりするなど。意味を持たない装飾、より代となる装飾は、そのかたちと一体化し、かたちそのものとなる。
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*01:美しい都市・醜い都市-現代景観論/五十嵐太郎/中央公論新社 2006.10.10
*02:
オルタナティブ・ポストモダン/青木淳/オルタナティブ・モダン-建築の自由を開くもの
      第2回講演 2004.03.23(レポーター:勝矢武之)
*03:「textureという語は、textile(織物・編み物)と語源が同じで、「織り合わされたもの・織り方」という基本的な意味がある。転じて、感触や質感、肌理、詩的要素という意味合いを帯びるようになった」/Wikipedia参照

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)
五十嵐 太郎
中央公論新社

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01 巨大なあひるから透明なかたちへ

巨大空間と外部
 空港、ショッピングセンター、CBD*01等に次々と誕生する巨大空間。そこはアトリウムなどという単体建築のインテリアではすでになく、内部化した都市空間である。外部が内部に貫入し、都市空間が建築の内部に侵食する。高速移動手段+エスカレーターでこの巨大空間へ放り込まれた我々は、その巨大空間の外部、すなわち本来の建築の外部をほとんど目にしない。それどころかこの巨大空間にそうした“外部”があること自体忘れてしまっている。
 巨大空間の“外部”を目にするのは、この巨大空間にアプローチする高速鉄道や車・飛行機という高速移動体の中からであり、スピードと都市的スケールの中にあってである。高速移動の視点は瞬間のイメージと連続するイメージのみを形成する。瞬間と連続のイメージの中で建築の“外部”が表現可能なものは、通常、内部のプログラムを示す最も単純化したメッセージのみとなる。内部を強調するモニュメンタルなシンボルだけの存在、それが巨大空間の“外部”となる。

クイーンズスクエアとみなとみらい駅/横浜
高速移動手段(地下鉄)+エスカレーターで放り込まれた空間は、内部化した都市空間である。


巨大なあひるの出現
 90年代のラスヴェガスの建築の状況は、『装飾された小屋』から『巨大なあひる』へ*02と呼ばれた。それは建築の巨大化、インテリアの都市空間化と無縁ではない。ヴェンチューリのいう『小屋』の表層に独立した意味機能を持って張り付いていた『装飾』*03は、建築の肥大化によりその体表に開いた「クラインの壺」の「口」からその内部へと吸い込まれた。と同時に反対側の「口」から外部へと引きずり出されたのは、やはり内部の機能とプログラム(空間・構造)を端的に表現するモニュメンタルなシンボル性だった。
 マイケル・グレイブスの『巨大なあひる(スワン)』*04の出現は、モダニズム建築における内外の一致という純粋な理念が、俗悪な大衆文化に消費されることによって、全体のシステムが歪められた『あひる』*03となった60年代のラスヴェガスと同様に、ポスト・モダニズム建築が大衆文化に“消費”された瞬間を象徴するものだった。こうした建築-都市における状況の変化は、グローバル化とともに世界中に広がった。

擬態するショッピング空間
 磯崎新は90年代半ばにおいて「“中性化した表現に飽きてきた世界が都市化された建築物の中にアイコンを捜すことになりそうだ”と予測した」*05と述べている。それは人権や民主主義などという(建築においては〈芸術〉や〈建築〉などという)メタ概念が、有効性を失い、世界資本主義やナショナリズムが浮上する危機的状況が垣間見えてきたという判断に基づいているが、グローバル化とともに広がったそれは、磯崎が1995年に篠原一男と対立*05してまで危惧したナショナリスティックなアイコンではなく、もうひとつの商業主義的なそれであった。その後コールハースが「ショッピング・ガイド」*06において指摘したようにウィルスのように爆発的に蔓延し、かつ様々なものに擬態*07したショッピング空間であった。

意味を持たないかたち、“意味”を読み取れるかたち
 商業空間の話題に触れることは正統な建築家たちの間では避けられてきた。それは永続性を求める彼らのデザインが“消費”されることへの潜在的な恐怖であったのかもしれない。磯崎は巨大空間の外観として、ナショナリズム的なアイコンでもなく、もちろん商業的(見え見えの巨大なあひるから様々な擬態をこらした○○風まで)でもないかたちを模索した。1992年奈良100年会館のコンペにおいて磯崎が提出した形態は、そのようなかたちのひとつの答えではなかったか。それは自らは“意味”を発信しない、意味をもたないかたちの創造である。
 意味を持たないとは逆に様々な“意味”を読み取れるかたちということになる。すなわち見る側が様々な意味を付加することのできる存在、様々な“意味”のより代となるかたちである。そのかたちの有り様は特定することができる。ひとつの量塊、かたまりとなっていることが必要となる。なぜなら不定形ではより代としてのエリアが特定できないからであり、あくまでかたまり(領域)が必要となる。そのうえでそのかたまりがある特定の意味を“誘発しないもの”でなければならない。

移ろうかたちの“意味”
 しかし意味はすぐに移ろう。意味を持たないということを維持することは難しい。特に自己の作品をアピールしたい作者にとってはなおさらである。黒船のようにも見える奈良100年会館のかたちを作者は「奈良・平城京の地を海原に見立て、悠久の歴史を進む“文化の船”」と説明した。また完成した時、その外観は奈良寺院建築の大屋根をイメージした瓦状のタイルを身にまとっていた。
 同じような事例が石山修武のリアス・アーク美術館(1994)であろうか。こちらもひとつの量塊としてかたちが与えられていた。山が動き出すような、アノニマス(作者不明)な迫力があった。しかし才気あふれる作者は、宇宙船のような給水塔など様々なディテールをこのかたちに付け加えた。

透明なかたち
 1995年の横浜客船ターミナルのコンペにおいて山際認が提案したかたち*08も、様々な“意味”を読み取れるかたち―ひとつの量塊としてのかたち―すなわち、自らは意味を持たないかたちであった。360度の“見られる”視点を持ち、都市的スケールとスピードの中にあっても定点としてあり続けるロケーションをもつこの建物は、その他の巨大空間の場合とは異なり、内部を強調するモニュメンタルなシンボル性だけでは語りえないかたちを求めていた。こうしたかたちは磯崎や石山の例を見るまでもなく、実際の建築物に実体化するときには、その表層のテクスチュアや色やディテールに付随した意味が発生し、当初意図した純粋性が維持できない。“横浜”ではそのかたちを透明なものとして表現することによって、その意図を明確にしようと試みた。

横浜客船ターミナル計画/IMA

デザインのデフレ現象
 ポスト・モダニズムが消費されて以降、建築家たちは巨大なあひるではなく、またナショナリズムに陥らないかたちを磯崎と同様模索し続けた。隈研吾は20世紀的アーティキュレーションの排除を求め建築の消滅*09を模索した。透明なモデルによるコンセプトの表明が流行したのはそうした理由による。ガラスのカーテンウォール建築が多く生まれたのもそうしたモデルを現実化する上で辿り着いたひとつの方向性であったのかもしれない。しかし一方でこのガラス建築の流行は、やはり隈研吾が言うところの“負けのレトリック”*10を競い合ったものともいえるし、あるいはデザインのデフレ現象であったともいえるのである。
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*01:中心業務地区Central Business District/六本木ヒルズや汐留シオサイト、品川インターシティなど
*02:ラスヴェガスの60年代と90年代/五十嵐太郎/20世紀建築研究 INAX出版 1998.10.10
*03:ラスヴェガス/R・ヴェンチューリ/SD選書 鹿島出版会 1978.09.30 
*04:スワン&ドルフィン・ホテル/1990
*05:日本現代建築の定点が失われた/磯崎新/新建築 2006.09
*06:Guide to shopping/レム・コールハース/ハーバード・デザイン・スクール 2002.04
*07:「ショッピング・ガイド」へのガイド/八束はじめ 
*08:横浜客船ターミナル計画案/山際認(IMA)/1995
*09:リアルスペースとサイバースペースの接合に向けて/隈研吾/情報都市論 NTT出版 2002.04.10
*10:負ける建築/隈研吾/岩波書店 2004.03


20世紀建築研究 (10 1別冊)

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ラスベガス (SD選書 143)
R.ヴェンチューリ
鹿島出版会

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情報都市論
西垣 通,松葉 一清,石川 英輔,古谷 誠章,山田 雅夫,北川 高嗣
NTT出版

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負ける建築
隈 研吾
岩波書店

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