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HOTなおちゃタイム

保護猫八匹、21歳のリンをはじめとした楽しい日記をお読みくださいね。

ピカソのゲルニカと戦争と映画誰がため鐘は鳴るのゲーリークパー達

2008-07-09 19:27:08 | 絵画
1981年9月10日ニューヨークの近代美術館にスペインの真の民衆の為の共和国ができるまでという条件で、
永久寄託されていた
ゲルニカピカソの祖国スペインに帰った。

その年の10月に私はマドリッドへ出かけてこの感動の作品を見た。
そしてキャンバスに印刷された複製を買って毎日眺めています。
当時は作品もさることながら、それを受け入れるスペインの人をこの目で見たかったのです。
その時ゲルニカを見ようとするスペインの人々は喜びにあふれ、
長だの列をなしていました。

作者のピカソは1973年南仏で91歳の生涯をとじるまで、
スペイン人として、どこの国の国籍も取らず無国籍で通しました。

ゲルニカの帰還は、最後の亡命者の帰国だったのです。


ピカソ自身この作品の依頼を受ける時1937年まで、
非政治的な人間で、パリで、友達に恵まれ自適な生活を送っていたのです。

彼の母国スペインは1931年に共和国宣言して以来、
フランコ将軍の指揮下軍隊が蜂起し内戦状態でした。
時の戦況が不利になりつつあった共和国政府は
パリ万博の壁画制作をピカソに依頼することは共和国政府(人民戦線)の一大勝利に匹敵する宣伝効果と計算したのです。
ピカソ自身”フランコ政権の夢と嘘”という作品を(初めて政治的な態度の)描いていたが、この壁制作にテーマの主題性を見出していなかったようだ。

そこに
1939年、4月26日ナチス.ドイツ空軍が非軍事都市ゲルニカを無差別連続爆撃、避難する住民にまで機銃掃射を浴びせた。
ゲルニカはバスク民族の象徴的な町であるから特殊爆弾も使用され10000人の住民のうち3000人の死者を出し、町の70%が焼き尽くされた。
と言うニュースがピカソにもたらされた。
当時スペインの内戦は欧米の知識人から、自由圧殺するファシズムとの戦いとして、注目されていた。
アンドレ.マルローやヘミングウエイが人民戦線側に参戦して戦っていた。
ヘミングウエイは映画にもなった誰がため鐘は鳴るの作品でこの戦いを書いています。
そういう流れを背景としてピカソゲルニカに主題を見つけるのです。

誰がために鐘は鳴る映画の中のゲーリークパーの英雄的な行為が空しい。
戦いというのはどんなイデオロギーがあっても悲惨だとイングリッドバーグマンの涙が教えてくれている気がしました。まったくの余談ですが、ピラー、ジプシー(?)の女闘志が「天空の城ラピュタ」の海賊のママにかさなるのですが、、、
ピラー役のカティーナ.パキシノウはこれで”オスカー”をもらいます

そして、私が問題としたかったのは、
ピカソゲルニカの悲劇の事実のみを描きたかったのではないと言う事です。
誰がために鐘は鳴るも、

ゲルニカも

戦争の不条理さを訴える叫び、
暴力の空しさと不当な苦悩に対する
努力の叫びが永遠に響きつづける


のを感じます。
そして1970年代になり真実が研究されてきて、
ゲルニカの死者は250人に過ぎず、無差別機銃掃射もなく、
火事も消火活動の不手際からおおきくなった。ということが明らかになってきています。
ゲルニカ報道に世界中がドイツに対していきどうりを感じたのですが、
日本で行われた爆撃とどう違うのかと私は思ってしまいました。
単なるゲルニカ事実といわれる絵ではなくて
画面からほとばしりでるピカソ感情を受け止めたいと思います。
コメント (6)
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