松田はショックを受けた。
今まで支援してくれ、応援してくれているものだと思った橋本から、「オーナーを退陣しろ…」と言われたことに…おまけに、「全権を放棄し、球団から去れ…」とも言われた。
いままで誰一人として、自分に刃を向けることはなかった。
橋本が、「後日回答を求める」と言い残し、球団事務所を去ったあと、自室で呆然としていた。
(今は誰とも会いたくない…なんでオレがあの様な屈辱を受けなければならないんだ…)松田は自問自答した。
数日後に控えたドラフト会議に向け、編成関係者は別室で激論を交わしていた。
しかし松田には、ドラフトのことまで余裕を持てる気分ではなくなった。
今年のドラフトは、過去にないほど豊作である。
数時間前まで、松田は夢と希望に満ち溢れていた。
斎藤・大石・福井の早大トリオや沢村、大野の剛腕トリオ。
その中から一人は確実に獲得したいと、強気のドラフト戦略をカープは立てている。
松田は、「今年は、何がなんでも大物指名を強行しよう。うちに来てくれる可能性が数%でもあるなら、絶対にあきらめず指名しよう。契約金は1億5000万円まで保証する。」
編成部長の川端は、この発言に驚いた。(オーナーが具体的な金額を口にするのは、過去にないこと。今年は期するものがあるのだろう…)
編成会議は、例年にない活気があった。
昨年までは、スカウトが各選手の報告をしても、最終的にオーナーの鶴の一声で獲得選手が決められていた。
スカウトの一人・・・山本は思った。
(これではワシらが活動する意味はない。実際に生の目で見て、リポートを上げても、いつもオーナーがビデオで判断する。会議も形骸化され、意見も出ない。全てはオーナーの独断で決まり、現場やスカウトの意見は完全に無視される)
しかし、今年は違った。
表事情は、新球場2年目を迎え、観客動員も好調でグッズ販売も良い。選手獲得の資金も整いはじめたと、マスコミにアナウンスした。
しかし裏事情は・・・ファンから寄せられる苦情の数々であった。
今シーズン開幕から、連日寄せられるファンの声は怒りを通り越していた。
電話、手紙、FAX、メールの動きが止まらない毎日に、球団職員の大半が悲鳴をあげていた。
職員の坂田は、ファンの要望を受け付ける係の主任であったが、あまりの多さにストレスが溜まり、1ヶ月の入院生活を余儀なくされた。
ファンの声(不満)は、日増しにエスカレートしていた。
野村監督の采配を疑問視する声が、シーズン序盤は多かったのだが、順位が決定付けられてからは、松田オーナー批判がヒートアップし、終いには球団事務所に押しかけるファンも現れた。
坂田は溜まりかね、本部長の鈴木に相談した。
鈴木は坂田の苦労を知っている。
それだけに、坂田が悲鳴に近い思いを話すのを黙って聞いた。
鈴木は、「話はよくわかった。ファンの声は、ワシも直接耳にするからよく理解できる。オーナーには時期をみて話す。」と答えた。
松田は、その日の会議へ姿を現すことはなかった。
学生時代から懇意にし、30年以上の付き合いになる小料理屋に顔を出した。
そこの80歳に手の届く女将は、松田の人となりを全てお見通しの人物であった。
店に入るなり、女将はいつものように松田を迎えた。
「あら・・・どうしたん。元ちゃん。珍しいじゃないの、こんな早くから・・・」
時計の針は、17時前をさしていた。
松田は・・・「うむ。ドラフトも近くなり迷いがあってね。それにしても今年は豊作じゃ・・・」
女将は松田のグラスにビールを注いだ。
「元ちゃん。オーナーも大変でしょう。」と切り出した。
松田はうなずき、無言であった。
女将は続けた。
「あなたのお爺ちゃん・・・何十年前かね、やはりオーナーで苦労されてね。いつも来るたび、何で強くならんのかの~と言われていたのよ。
その時、たまたま居合わせた野球好きのお客さんが、せっかく若手の素材にいいのがおるのに、指導者がしっかりしたのがおらん。
広岡や関根のような、厳しさを打ち出す、選手と汗だくになる人材を集めてみんさいや・・・と言ってね。そしたらお爺ちゃん、その人に・・・素人に何がわかるんじゃ・・・と怒って帰ったのよ。
でも、その数日後よ・・・根本さんたちがカープにやって来たのは・・・」
松田は、女将が言いたいことを、その時・・・理解できなかった。
すると、店に客が入って来た。
松田は驚いた。
本部長の鈴木である。
「どうしたんや・・・お前がこの店に来るのは珍しいのぉ・・・」と、松田は声を掛けた。
鈴木は、「恐らくここにおられるのでは・・・と思ったものですから。」と言い、松田のもとに歩み寄った。
女将は状況を察知し、席を外した。
松田は鈴木のグラスにビールをつぎ乾杯をした。
二人の乾杯は、共に複雑な心境でおこなった乾杯であった。
しかし、両名とも互いの心の中まで理解していなかった。
松田は鈴木が、胸元に辞表を持参し、談判に来ているとは夢にも思っていないし、鈴木は松田が、オーナー職を辞めろと言われていることなど知るはずもなかった。
両者には沈黙が続いた。
松田は、鈴木には話すべきか迷っていた。
鈴木も話しの切り出し方を迷っていた。
松田が重い口を開いた。
「鈴木・・・実は・・・東銀の橋本さんから引導を渡されたんじゃ・・・」
鈴木は驚いた。
「いん・・・引導ですか・・・」
「そうじゃ・・・引導じゃ。」
鈴木は混乱した。
まさかの…松田の言葉であった。
松田はしみじみと語った。
「オーナーになってこれまで、色々考えてきたよ・・・前の球場のとき、観客は入らんから資金は乏しく、選手の年俸も抑えてきた。江藤や川口のFAは仕方ないが、金本のFAは今でも後悔しとるよ。
金本自身、今でも挨拶にきてくれる。アイツの顔を見るたび、申し訳なくてのォ・・・再契約金100万円でいいからFA権を認めてくださいというのを、認めてやらなかった・・・考えてみれば、バカだったよ…」
続けて、松田は
「独立採算は、正直怖かった。いつカープがつぶれるか・・・夢でうなされたことは何度もある。あれをしたい・・・これをしたい・・・でも勇気がなかった。
外野の人間は色々言ってきた。OB以外の監督招聘やトレードやドラフトにFA・・・しかしカープは自前でやる方針を貫きたかったんよ・・・」
鈴木は答えた。
「オーナーの考えは、よくわかります。しかし、何の世界も結果が全てです。いまのお考えも、結果ありきです。当たり前のことですが、結果は現れなかった。その責任はオーナー含め我々フロント、監督を含めた全てにあると私は思います。」
そして鈴木は・・・本題に入った。
「オーナー・・・私はこれまでの自分自身も反省し、今から今後のカープのあり方を、自分なりの言葉で話させていただきます。耳の痛い話もあろうかと思いますが、お許しください」
その様に断りを入れて、鈴木は決意の胸中を話し始めた。
「私は、来期の野村監督には反対しません。 しかしながら、彼が今年の指導を反省し、自分のエゴを完全に消し去ってくれるならば・・・です。オーナーは野村可愛さを出しすぎです。
ここは是々非々で、至急監督やコーチに改革を話すべきです。
それは・・・開幕し、今年と同じ様な采配で混迷を深めた場合、途中解任も辞さないと、お話ください。お願いします。
次に現時点、二軍のコーチが決定していません。
二軍の強化や育成は、一軍よりも重要です。OBだけに的を絞った招聘策では限界に達しています。もっと思いきった勇気を持ち、スペシャリストの指導者が必要です。
オーナーには大変申し上げにくいことですが、例えば…高橋慶彦です。
彼のように、カープへ情熱を持った人材抜きにして、改革はできません。
ここはオーナーに、大局的な物事を捉える視線をもっていただきたい」
鈴木は、他にも言いたいことがあったのだが、高橋慶彦の名前を出した瞬間・・・言葉を控えた。
松田は沈黙した。
高橋慶彦の名前を出されたら、いつもであれば激怒していたのだが、今日の松田は、不思議なほど穏やかであった。
「ヨシヒコか・・・あいつとは色々あったよ・・・うちの親父も本当に可愛がった。
ヨシヒコがうちの息子なら・・・と、いつも言いよった。ワシは面白うなかったんよ・・・
アイツの全てが気にいらんかった・・・トレードで追い出したとき、せいせいした・・・西武が獲得に必死じゃったが、あの当時の西武より、閑古鳥が鳴いて人気のないロッテにあえて決めたのもワシじゃ・・・」
鈴木は初めて聞かされた。
松田は続けて意外なことを語り始めた。
「でも、指導者のヨシヒコには…正直凄いと思っている。」
鈴木は、今日の松田であれば、とことん話してみようと決心した。