(執念なくして天才になった人はいない)
みなさんは、才能は頭のよし悪しで決まるように思うかもしれませんが、そうでもありません。
現代では、よい学校がたくさんあるので、秀才は、毎年、量産されていますが、天才と言われるぐらいの人になると、ぐっと数が減ってきます。
ところが、天才は秀才より頭がよかったかというと、そうとも思えない部分があります。天才には、秀才として見ると、それほど極上の秀才まで行っていない人が多いのです。天才になった人には、変形しているというか、何かが欠けている人が多いわけです。
「執念」「執着」という言葉は、宗教的には悪い意味を持つ言葉ではあるのですが、秀才のなかでも、何か一つのことについて、大変な情熱を持ち、かなり長く続けた人でなければ、どうしても天才まで行きません。そのように、「何としてでも」と考え、一意専心で、一つのことに専念するためには、ある意味では、頭がよすぎては駄目なのです。
頭のよすぎる人は、気が散るため、いろいろなことに手を出してしまい、総花的になって大成しないことがあります。一方、そういう人より頭の悪い人が、「何もかもはできない」と思って、ある一つのことにグーッと絞り込むと、秀才の群れのなかから抜けていくことがあります。そして、その分野においては天才的な光を放ちはじめるのです。
その人は才能が優れていたかというと、そうではありません。それほど頭がよかったかというと、そうではありません。もちろん、頭が悪ければ駄目なので、そこそこは頭がよいのですが、あとは、根気や情熱、執念によります。それなくして天才になった人はいないのです。
このことを述べているのは私だけではありません。湯川秀樹も同様のことを書いています。
湯川秀樹は、昔、「日本人で天才は誰ですか」と訊かれた人の多くが、「それは、ノーベル賞を取った湯川秀樹でしょう」と答えたというぐらいの人です。日本の最近のノーベル賞受賞者には、天才かどうかは怪しい人もいるように思いますが、それは、私の年齢が上がったため、彼らが偉く見えないということかもしれません。いずれにせよ、昔の日本人は、「湯川秀樹」と聞くと、「天才だ」と思ったものなのです。
執念という言葉は、宗教的には使いたくない言葉ですが、湯川秀樹自身は、「天才というものは、執着によるものだ」というような言い方をしています。
「一つのことに対して、何年、何十年と追いつづける執念がなければ、天才になどなれない。一つのことに、こだわって、こだわって、答えを求めつづけることができる人でないと、天才になれない。気が散ったり、てきとうに要領よく済ませたりする人は、天才にならない。ある意味頭が悪くないと駄目だ。頭の悪い人でないと、一つのことに、それほど長くこだわりつづけることはできない」
このようなことを湯川秀樹は述べています。天才論を書く際の対象に値すると思われる人が、自分でそう書いているのですから、それは当たっているでしょう。
天才と言われる人のなかには、いろいろな才能を散らすようなダ・ヴィンチ型の人もいます。しかし、人類史のなかで、その数は少なく、どちらかというと、狭い範囲内で長く深く掘った人のなかに天才は多いのです。
才能には限りがあるので、能力もそれほど突出していないのであれば、やはり、一つのことを三十年ぐらい続けないと、なかなか一流にはなりません。ほかのことに、あまり気を取られては駄目で、一つのことに対して武骨にグーッと押していくと一流になるのです。
それはそうでしょう。たとえば、将棋を三十年やれば、初心者との差は歴然とするでしょう。あるいは、中学時代に英語の成績がよくなくても、英語を使う職業を三十年もやれば、英語がよくできるようになります。英語の教師を三十年やれば、英語に関してはプロであり、ほかの職業をしている人に比べて、英語力はそうとうなものになります。
そういうかたちでの成功を求めていくと、それぞれの人に、いろいろな成功のあり方があります。「あれも、これも」と欲張ってはいけないのです。自分の持ち味、才能のなかでの成功、それでずうっと押し進めていって得た成功は、ほかの人はまねのできないものになります。
学校教育では、いま、全国一律にセンター試験が行われ、一位から最下位まで序列がつきますが、「それで人生が決まるわけではないのだ」ということを知っていただきたいのです。
---owari---
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