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日本のパン文化

2017年01月19日 | 日本

日本にパン文化があるかと問われれば、確かに答えることが心もとない。パンの歴史はあっても、文化までには至っていないと思われるからだ。しかし、日本にもパン文化は息づいているし、育っていると私は感じるのです。正確には、今はパン食文化と言った方が適切なのかもしれない。

 

日本のパンの歴史は、戦国時代に鉄砲とともにポルトガルからやってきた。キリスト教の布教にともなって、フランシスコ・ザビエルらが、日本でもパン作りを始めたのです。西欧に強い興味を持っていた織田信長は、はじめて見るパンを喜んで食べたと伝えられています。しかし、キリスト教が禁じられてからは長崎などの一部で、西洋人のために少しだけ作られていたのです。

 

幕末に鎖国が解かれると、横浜、神戸など港町を中心に、パン作りが広がりました。明治に入り、現存するパン屋でもっとも古い「木村屋総本店」が銀座に開業。5年後には、日本独特の「あんパン」が発売され、人気商品になりました。

 

話は少し飛びます。TBSテレビ「所さんのニッポンの出番」で「日本のパン」特集があった(放送2015年7月)。日本のパンを海外10カ国の人に試食してもらい、その感想を聞いていた。食べていたパンは食パンから調理パン、菓子パンなど東京の名店13店のものであった。

 

カレーパン、あんぱん、鯖サンド、焼きそばパン、コロッケパン、フルーツサンド、ひじきパン、あげパン・・・。日本のパン作りの技術、種類の多さに外国人が驚く。外国人の人気を集めたパンは第3位チョココロネ、第2位塩パン、第1位メロンパンだった。

 

「美味しい美味しい」と食べていた外国人たちだが、「日本のパンを毎日食べたい?」という質問には、15人中10人が「食べたくない」と答えた。理由は「手が込み過ぎている」「生地が甘い」「やわらかすぎる」「西洋ではパンは神聖なものと捉えられているのでアレンジはよくない」などなどでした。

 

パンのなかにヒジキが入っていたり、カレーが入っていたり、焼きそばやコロッケなどが入っているパンは、彼らにとってはもはやパンではないと言うのです。外国と日本ではパンの文化が違うと私はそのときに感じました。

 

確かに、訪日した外国人は日本発祥の「メロンパン」を食べて、「こんなにおいしいパンは初めて!」と感激はするのです。でも、それはお菓子ではあっても、自分たちが日常食べている主食のパンではないと思ったのでしょう。

 

日本のパン作りの技術は勿論、種類の多さに外国人は驚いている。

4年に一度、フランスで開催されるベーカリーワールドカップの「パン部門」で日本人のパン職人が優勝した(2014年)。ベーカリーレストラン『神戸屋』に籍を置く“長田有起さん”は味や見た目だけでなく、正確さや衛生面をも問われるこの大会を見事制した。

 

大会審査員も大絶賛したパン作りの技術を日本は持っているのです。にもかかわらず、テレビで試食した10カ国の外国人の皆さんは、おいしいけれどもこれはパンではないと言ったのです。ヨーロッパの人にとっては、パンは尊敬されなければならない対象であるのに、日本人は何でもありのようにパンを作っている。それが、ヨーロッパの人には許せないのではないでしょうか。

 

その原因を探っていけば、2つほど考えられます。

まず1つはパンの硬さです。フランスと日本のバケットの硬さを比較するとフランスの方が2倍近く硬いのです。その原因は、日本のパンの酵母(イ-スト菌)は砂糖が入っていなければ大きく膨らまないのです。このために、パン自体に甘みがあり、柔らかさがあるのです。また、使用する水の硬度(日本は軟水、フランスは硬水)の違いもあるようです。

 

もともと日本のパン文化の普及は戦後の学校給食から始まっているとも言われ、コッペパン自体、柔らかなパンでした。これは日本では湿度が高いことと関係しているのかもしれませんが、柔らかいパンでないと売れないという現実があったと言うのです。

 

2つめは日本の米食文化が影響していると思います。おにぎりのなかに具を入れるようにパンにも具を入れるのが定番です。カレーであったり、コロッケであったり、焼きそばであったり、なんでもOKです。美味ければよいという、ルールにとらわれずに進化してきたのです。

 

一方、西洋ではパンは聖書にも出てきます。有名なイエスの最後の晩餐では、イエスが賛美の祈りの後、パンと葡萄酒をそれぞれ「自分の体」、「自分の血」として、パンをちぎって、弟子たちに与えました。

 

この最後の晩餐のパンの種類について、西洋で論争が起こり、キリスト教が1000年も言い争ったという歴史があるのです。

 

それは、カトリック教会を含めた西方教会は、最後の晩餐が過越の期間で行われたものと考え、パンには酵母が入っていない(クラッカーのようなパン)と主張、一方、東方教会は、最後の晩餐が過越前であると解釈し、パンには酵母が入っていたと主張したのでした。

 

*過越:かつて奴隷状態だったユダヤ人が、エジプトを脱出したことを記念する過越祭のこと

 

この主張の違いが一因となり、1054年、キリスト教会が2つに分裂する歴史的な事件が起きたのです。そしてなんと、昨年の2月、双方のトップが和解に向け、962年ぶりに会談しました。

 

まあ、なんと気の長いお話なのでしょうか。それほど、ヨーロッパではパンに対する思い入れが違うのです。日本のパンは自分たちのパンでないという彼らの主張も少し分かる気がします。

 

ヨーロッパにはパンにまつわることわざや名言が多くあります。これは日本と比べ、歴史の深さが違い、パンに対する思い入れに大きな差がある証拠だと思うのです。

 

ゲーテは、「涙とともにパンを食べたことのある者でなければ、人生の本当の味はわからない」と語り、イングランドの詩人 ジョージ・ハーバートは「希望は貧者のパンである(どんなにつらい状況でも希望を失ってはいけない)」というのです。 

また、イエスの言葉もよく知られています。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』(マタ4:4)。

 

パンの文化は明らかにヨーロッパに分があり、日本のパン文化は実力では及びません。ヨーロッパが大相撲の横綱なら、日本は幕内力士ぐらい力量に差があるように思います。しかし、日本は今、新進気鋭の「御嶽海」や「遠藤」など、人気と実力を持っていると思っています。

 

日本の寿司が世界に広まるときも同じように、世界の人々は「生の魚を食べるなんてクレージーだ」と言っていたのです。これと同じように、数年、十数年たてば日本のパンが世界に羽ばたき、絶賛されるようになると思っています。

 

日本にはパン作りを制限するような考え方がないのです。そのために、自由な発想でパン文化を発展させることができるのです。

 

---owari---

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