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用意周到で勝利した長篠の戦い

2021年02月03日 | 歴史
信長は「この機会に、いかにして勝頼をたたきのめすか」を考えていた。その点、つねに一歩先を考えている。

三方ケ原戦の勝ちに乗じて勢威を増しつつある武田勝頼を、ここで完膚(かんぷ)なきまでにたたいておかないと、あとあと脅威となる。仮りに勝頼が取るに足らない人物だとしても、連戦連勝して大国を支配するとなれば、軽薄な人びとは錯覚して畏敬の対象としかねない。

また、仮に、勝頼が非凡なる人物であるとすればなおさら、ここでたたいておかねばなるまい。天下布武の障害は、芽のうちに取り除かなければならない。
単に、援軍を出して、引き分け、などというのではだめなのだ。勝頼を完膚なきまでにたたきのめさないといけないのだ。

その構想が成ったとき、そしてその準備が完了したときはじめて信長は、
「出陣!」
と全軍に命令した。天正3年(1575)5月13日のことである。

信長の戦略構想は、守備に徹し、その配備も、
 ①三段構えの鉄砲隊で応戦。
 ②梯による騎馬対策。
の二本立てからなっていた。

①については、すでに世に名が高い。信長は国友村(滋賀県)、根来(和歌山県)など鉄砲産地を確保していた。このとき、三千挺の鉄砲を、長篠城のある設楽原に運んでいる。鉄砲隊を三段に並べる。一段目が発射すると、その間、火縄に火を着けていた二段目が発射する。その間、一段目は弾をこめる。二段目が射つと、三段目の鉄砲隊が射つ。そのときには最初に射った隊が準備を完了している。こうして、間断なく射つ、というものである。

三段構えの鉄砲隊を、さらに効果的にしたのが②だ。
出陣のとき、信長は、兵のひとりひとりに柵木と縄を持たせた。そして設楽原に三重の柵を築いた。武田騎馬軍団の突撃を食い止めると同時に、ここで滞留する騎馬軍団を、一斉射撃で撃破するためである。

柵には数十メートルごとに出口を作った。敵を誘き寄せたり、追撃したりするためのものだ。
この柵があったからこそ、三段構えの鉄砲隊が、さらに威力を発拝した。

決戦前夜、信長は織田・徳川連合軍の軍議をひらいた。
「遠慮なく意見をいえ」
普段、人の意見に耳など貸さぬ信長が珍しく上機嫌で言った。
家康の家臣酒井忠次が提案する。
「敵の後にまわって、鳶(とび)ノ巣山の砦を奇襲したらよろしいかと存じます」

信長は笑い飛ばした。
「“蟹(かに)は自分の甲羅に似せて穴を掘る″と申すぞ。そのようなこそ泥は、三河や遠江(とおとうみ )で、百か二百の小勢で闘うときにするものだ。三万八千の大軍を率いる織田と徳川が、武田と天下の雌雄を決しようというときに、そんな汚い手が使えるものか。その方など、三河や遠江で小ぜり合いでもやっていろ」

忠次は真っ赤になって引き下がった。座もシラけて、もう意見をいう者などいない。家康も、今、信長の機嫌を損ねたらまずいと思っているから、ソッポを向いている。

軍議はそれで終わりとなった。諸将はそれぞれ自分の陣屋に下がった。
信長は、家康を呼び止めた。
「酒井を呼んでくれまいか」

酒井忠次が呼ばれると、信長はニコニコして、
「さすがは徳川殿の片腕、先ほどは感服したぞ。おれがきさまを怒ったのは、軍議の席に内通者がいたらまずいと思ったからだ。奇襲は敵に知られてはならぬ。直ちに鳶ノ巣山を乗っ取ってくれ。明日の戦は、きさまの乗っ取りを合図に始める」

そして、
「実は、鳶ノ巣山にはおれが行きたいくらいだ。あたら功名を、忠次に取られるか」と大笑した。
忠次としては、狐につままれたような心地ながら、とにかく面目を施して、見事、与えられた任務を遂行した。

この話は信長の猜疑心(さいぎしん)と緻密(ちみつ)さをよく表わしている。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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