このシリーズを3回に分けてお伝えします。
(「自分の国は自分で守る」のは当たり前のこと)
私が言いたいのは、「この国はもっと自信を持たなければいけないのではないか」ということです。また、「宗教でもあるまいに、戒律ばかりをつくってどうするのですか」と言いたいところはあります。「あれをしてはいけない。これをいけない」というものばかりが、日本の政治にはたくさんあるわけです。
例えば、自衛隊にしても、正式には、発砲されるなり、ロケット弾や機関銃などが発射されるなりして、こちらが殺されるような状態になってからでなければ反撃ができないことになっています。
これは、ほぼ、「近代戦においては、そうとうな被害が出る」ということを意味しています。機関銃であっても、最初の攻撃を受けたら、かなりの打撃が出ます。戦闘機によるものであっても、ミサイルがロックオンされたら、自衛隊機はまず撃ち落されるでしょう。その後、「これから反撃してもよい」と言われても、それは、そうとうな被害が出てからあとのことになります。
したがって、このあたりのことに対する考えについても、解禁しておかなければいけないのです。
要するに、明確に悪意を持ってこの国に迫っているものに対しては、国防を旨とする自衛隊は、当然ながら、通常の国家が「自衛の範囲」として考えるような態度を取ってよいということです。
もし、上層部の許可を取らないと、発砲もできなければ手榴弾も投げられない、ミサイルで応戦もできないということなら、どうにもなりません。
敵機が来たときに、航空自衛隊の戦闘機がスクランブル(緊急発進)をして近寄っていっても撃つことができないので、それは“カモにされる”だけなのです。「来たよ」という以外の何ものでもないので、最初に飛んでいく人たちは“撃ち落される人たち”ということになります。
しかし、それを国民のほうから見たら、どうでしょうか。おそらく、その撃ち落された人の家族がまたテレビに映って、「何というひどい状態なんだ」というようなことを言うでしょう。
ですから、「自分たちの国は自分で守るという、当たり前の国が当たり前の判断するぐらいのことは、そろそろきちんとやれ」と言いたいのです。
スイスにおいても、おいても、当然ながら国の軍隊を持っているので、たとえ「中立国」であるとはいっても、外国から攻撃を受けたら、自分たちの防衛のためにすることはすべきであるし、核シェルターもたくさんあります。要するに、「守らなければいけないものは守るべきだ」ということです。
「核シェルターの普及」等については、最近、少しは話題になっていますが、こういうシェルター機能のところは、なかなか簡単に間に合うものではありません。今後もまだ長引くような状況があるようであれば、取り掛からなければいけない部分が出てくるでしょう。
(宥和、譲歩、対話で済む国と済まない国がある)
野党も、左翼系のマスコミも、「戦争はいけない」というようなことをたくさん言っています。そのとおりです。大変です。戦争になったら、悲惨な状態が数多く出てきます。
ただ、その「悲惨な状態」というのは、こちらが起こそうとして起こるものだけではありません。これは、相手がいることなので、相手との関係において起きるものだということです。
第二次大戦においては、ヒットラーを甘く見て、「ドイツにこの程度取らせてやれば、あとはおとなしくなるのではないか」とか、「石炭や鉄鉱石などが出るところを占領させてやれば、あとはおとなしくなるのではないか」などというような適当な宥和策を取っていたら、どんどん拡大されたということがありました。
そのときに立ち向かったのは、イギリスのチャーチルです。結局は、彼が、アメリカとソ連を参戦させ、ドイツを破りました。
「相手の本質を見抜く」ということは、やはり、大事なことです。宥和、あるいは譲歩して、「対話する」などと言っていれば済む相手と、そうでない相手がいるので、やはり、本質をよく見抜かなければいけないということです。
---owari---
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