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偉大なる魂に目覚めよ

2020年07月11日 | 人生
我らは、個人の悟りのもとにおいて
大いなる調和というものを求めている。
しかしその調和は、弱き調和ではない。
争いを避けるためだけの調和でもない。
この調和は、
私たち一人ひとりがもっと強くなるなめに
必要なものなのである。

私たちは、そうした時代に生きている以上、
無駄なことのために時間を費やすことはできない。
無駄な思いのために時間を費やすことはできない。
つまらない悩みごとのために時間を費やすことはできない。

我らは人間として肉体に宿る以上、
その力は有限かもしれぬ。
しかし、有限と有限を合わせたものは有限とはならない。

その有限の力が、有限の力と有限の力が、
次から次へと集まってきたものは、
それは無限に向かっての
大きなうねりとなってゆくということなのである。

数学では一足す一は二になるであろう。
しかし、私たちの心の世界においては、
一足す一は二にならない。
二足す二は四にならない。

心の世界においては、この想念の世界においては、
この神の栄光の世界においては、
人と人の結びつきは、すべて掛け算となってゆく。
大きなものとなってゆく。
いや、それ以上のものとなってゆくであろう。

一人ひとりの力を見るならば、それは限られたものであろう。
与えられた体力も、与えられた知力も、
与えられた時間も、与えられた経済力も、
有限のように思うであろう。

しかし、今、知ってほしい。
有限のものは、
ただ一人あるとき、有限のまま朽(く)ち果てるかもしれぬが、
二人にて、三人にて、
いやそれ以上の力を糾合(きゅうごう)して、うねりを起こすとき、
そこに無限なるものが始まるということを。

有限と有限が集まりあって、
無限なるものが始まるということを
知らなくてはならない。

たとえば、今から二千六百年前に
インドの地で仏陀が説いた仏法は、
その後どうなったか。

インドを経(へ)、チベットを経、中国に至り、
そして日本に流れてきたではないか。
それだけの年数、
いったいどれだけの人びとの心に
火を灯しつづけたか、わかるであろうか。

いや、その火は今も消えていない。
いや、今をさかりに
また燃えはじめていると言ってもよいであろう。

このように、それぞれの歴史のなかで、
多くの人が、生まれ死に、生まれ死に、
連綿(れんめん)として生きてきた力は、
その思いは、そのエネルギーは、その愛は、
いまだかつて地上から消え去ったことはない。

今後も、消え去ることはないであろう
私は、この無限なるものを
さらに偉大なるものとするために、
今また、あなた方の前に立っている。

あなた方は知らなくてはならない。
あなた方一人ひとりの心のなかに潜むところの、
その偉大な力に。

生まれ落ちてから数十年間、
自分自身が、心のなかにつくってきたところの汚れ、曇(くも)りによって、
どれほど自分の尊さというものを忘れ去っているか、
わかるだろうか。
もっと偉大な魂であるということに、
なぜ目覚めないのだろうか。

惜(お)しいではないか。
それだけのものが、今、与えられているというのに、
自分自身がそれだけの光を有しているというのに、
この光を解き放つことができないままに
数十年の人生を終えてしまうということは、
どう考えても考えても、
残念なことだと思えないだろうか。

一人ひとりの心の奥には、
輝けるダイヤモンドがあるというのに、
何ゆえに、そのダイヤモンドをガラス細工だと思うのか。

私が、
あなた方一人ひとりが神仏の子であると言うのに、
あなた方一人ひとりがダイヤモンドであると言うのに、
なぜ、それをあざ笑う。
なぜ、それをばかばかしいと思う。
なぜ、それをつまらない話だと思うのか。

あなた方自身が真実価値ある存在であり、
価値ある存在が価値ある存在として己を輝かせるのに、
なぜためらう。
なぜひるむ。
なぜ、それを恥ずかしいことだと思うのか。

私は、あなた方に言う。
人間として生きてゆくための第一歩は、
己れの存在がいったい何者であるかに気づくところにある。
己れの存在が何者であるかに気づくことなくして、
今世を終えたとするならば、
あなた方は虚(むな)しく生きたということになる。

両手にいっぱい持っていた金銀財宝を、
ドブのなかに捨ててしまったことになる。
そんなばかなことを、なぜしようとするのか。

「信じない」というだけなら、まだ許されるかもしれない。
もっと愚(おろ)かな人たちが、今の世の中には満ち満ちている。

それがどのような人たちであるか、
あなた方も想像はつくであろう。
真実の生き方に目覚めた人たちに対して、
彼らを嘲笑(ちょうしょう)し、あざ笑い、
自分だけの値打ちを下げるのみならず、
他の多くの人びとを
迷いの淵(ふち)に引っぱってゆく人たちがいるということだ。

その誘惑は、この地上に肉体を持って生きている以上、
とてつもなく大きなもののように思われるかもしれない。

しかしその時に、踏(ふ)みとどまって考えよ。
自分というものの尊さは、
そうした人たち一人や二人、
あるいはそれ以上の人数がいたとしても、
そうした人の言説(げんせつ)によって揺り動かされるような、
そんなちっぽけなものであったのだろうか。

自分が自覚したところの、その心の尊さは、
そんなちっぽけなものであったのだろうか。
そんな頼りないものであったのだろうか。

むしろ、己れ自身の自覚が、
いかに小さいものであったか、
いかに弱いものであったか、
そこに問題があるということなのだ。

ゆえに、神理の道にいったん入った者は、
たとえいかなる状況が自らのまわりに降ってこようとも、
たとえいかなる環境が己れを待ち構えていたとしても、
それを言い訳にしてはならない。

そうした環境は、
すべて己れ自身の心の弱さに起因するのである。
己れの弱さは、己れ自身の責任によって生じているのである。
その時、あなた方自身の、
その決意が、その自覚が、
本物であるかどうかを試されているのだと
思わなければならない。

他人のせいや、環境のせいにすることなく、
己れ自身の責任と思って
人生行路(じんせいこうろ)を生きてゆくことができるかどうかを、
今試されているのだと
思わなくてはならない。

---owari---
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