今日もフランスの作家、オリヴィエ・ジェルマントマの著書よりお伝えします。
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アメリカの権勢に拮抗しうるような文化的大勢力はないだろうかと我々は考え、現在の状況下では自民族の真の声音をとどろかせるようなパワーは他に皆無であることを、確認しました。しかし、だからこそ、貴国への呼び声は高く、日本文化の真価を、誇らかに、強固に発揮してほしいと、周囲は待望しているのです。
現代芸術の退廃ぶりを前に、そんなものよりはるかに強く、日本ならばその美学の普遍的価値を突きつけてみせることが可能だと信じられているのです。情報過多の都市文明では、ルーツが根こそぎにされたままになっています。
日本が断固として日本であれば、他の追随をゆるさざる刺激剤となること、必定でしょう。霊性復興の動きについても、それを希求する声は巷に満ちていますが、世間はもはや、血の通わぬ説法や筋の通らぬごたまぜ論法には満足しないでしょう。であればこそ、神道は、自然の隠れた諸力を糧とするゆえに、いまや普遍的光芒を放つ地点に立とうとしているのです。
これ以上並べ立てるまでもありますまい。ご覧のとおり、私が日本から待望するところは大きいのです。ただ、いかんせん、日本の声はさっぱり聞こえません。そのために日本人は、必要以上に曖昧と思われているのです。なぜ、あなたがたは、自己喪失のためにかくも力をそそぎ、自身に忠実であるためには何もなさらないのでしょうか。
ここで、どうしても、1945年の敗戦に還ってみなければなりますまい。その発端となった過去の数々と、取り返しのつかない結末に。
貴国は、ユーラシア大陸のさいはてに位置し、外敵の侵入はことごとくこれを打ち払ってきました。版図拡大はほとんど求めず、さらに数世紀間にわたって異国に門戸を閉ざしたあと、明治に至って、未経験ながら叡智をもって開国期へと突入しました。
叡智はよく未経験を制して、輝かし成功と能力を証明したのでしたが、やがてこれに目がくらんだためでしょうか、事情は一変します。日常生活においてもそれを見るように、日本人は勇猛果敢に突き進んだのですが、惜しいかな、行為の意味について問うゆとりを持とうとはしませんでした。
1930年代においては、時代はもはや植民地主義時代ではありませんでした。たとえ、列強が、すべて、また依然として、植民地主義者だったとしても。日本軍は破竹の勢いの進撃で、シナの抵抗能力もソ連の底力も一顧だにせず、ましてやアメリカの推測すべからざる底力を考慮することはありませんでした。
一方、『我が闘争』を読んだなら、ヒットラーとの同盟など、武士道の国にとってはもってのほかであると、ただちに気づいたはずでありましょうに。
明治創成の期にあれほどの成果をあげながら、いかなる陶酔が貴国民を盲目にしてしまったのでしょうか。自我肥大をもたらし、明晰を曇らせるのは、まことにこの種の陶酔なのであります。日本人がどこまでこの過失について自覚しているのか、私には、はっきりとは分かりません。
貴国でこれまで多くの知識人に会ってきましたが、この人々は、まるでアメリカ人の口まねをするかのように、ただその時代をそしるばかりでした。ひいては、天皇の役割をこけにし、ここから軍国主義と伝統をひとからげにして、二つながらに捨ててしまおうという態度でした。
外から見れば、私にはこう思われるのです。一方において、かつて方向を過ぎてるエネルギーがあり、他方、今日なお日本再生の源泉たりうる伝統がある。この二者は根本的に区別してかかるべきであろう、と。
---owari---
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