(ウー・ソウの失望、バー・モウの証言)・・・後編
日下:ウー・ソウ(首相)は、日本の後押しを受けたバー・モウ(後に国家主席:国軍最高司令官)によるビルマの独立宣言をビルマ国内で見届けることはできなかった。
1942(昭和17)年、ビルマに進攻した日本軍(第15軍)は約5ヶ月でイギリスを追い落とします。ラングーンの占領は3月8日。政治犯として刑務所に収監されていたバー・モウを解放し、彼を行政府の長官に就ける。その後、わが軍政を経てビルマが独立を宣言するのは1943(昭和18)年8月1日です。
国家主席(アディパティ)となったバー・モウは、方面軍司令官の河辺正三中将から政治・軍事の全権を移譲され、建国議会を開いて独立を宣言、新憲法を公布しました。さらに対米宣戦布告し、ビルマ日本同盟条約に調印した。バー・モウは国軍最高司令官を兼ね、オンサンは国防相、外相はウー・ヌーといった顔ぶれでした。政権委譲は本格的なもので、それにともなってわが軍政部は解体されました。
外相に就任したウー・ヌーは次のように演説しています。
「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつぐらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」
高山:当時を知る古老に聞くと、ビルマ人の喜びは大変なものだったそうで、国歌「ドーバマー」の荘重な調べと、終日、街にあふれた独立讃歌「ロッライェー・ゴ・ヤービー」の小躍りする調べがわすれられないという。まさにイギリスの支配下ではあり得なかった。
日下:しかるに、戦前の日本を否定したい人たちは、この日のビルマ独立を認めようとしない。1944(昭和19)年に入り、日本が敗勢に傾くにつれて、ビルマ国内にも日本から離れて再度イギリスと結ぶべきだという声が強くなってきます。
それまで日本と協同して戦ってきたオンサン(国防相)は、ウー・ヌー(外相)らとともに、日本との関係維持を主張するバー・モウらと別れ、反ファシスト人民自由連盟を結成し、ついに1945年3月、日本に反旗を翻(ひるがえ)しました。オンサンが指揮するビルマ国民軍は、イギリス側に寝返って、日本およびビルマ国政府に対してクーデターを起こしたのです。
戦局挽回ならずラングーンから退いた日本軍に代わってイギリス軍が戻ってくると、オンサンは日本軍に育成されて10万人に成長した義勇軍を背景に、今度はイギリスと独立交渉をした。オンサンは日本を裏切ったけれど、黄色人種でも白人と戦えるということは学習して、逞(たくま)しくなったわけです(笑)。
バー・モウ(国家主席)は、1945年8月にタイ経由で日本に亡命し、事実上ビルマ国は終焉を告げた。彼は戦犯容疑者とされ、12月、自らイギリスに出頭しています。それから3年後、1948年1月4日、イギリスは渋々アトリーの労働党内閣がビルマ独立を承認します。
しかし、そのとき、オンサンはこの世にはいなかった。その5ヶ月前に暗殺されていたからで、ちなみにオンサン暗殺の糸を引いた黒幕として死刑になったのがウー・ソウ(首相)でした。
バー・モウが戦後20年経てから書いたのが、先に取り上げた『ビルマの夜明け』です。厚かましくも、イギリスの歴史では、長い植民地支配からビルマを解放したのはアトリー内閣ということになっていますが(笑)、バー・モウははっきりこう述べている。
「真実のビルマの独立宣言は1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東條(英機)大将と大日本帝国政府であった」と。
---owari---
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